【最後の夜があまりに優しくて】 Written by 遙次郎
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これで、何もかもが全て元の通りの日常に戻る。
史浩は傍らのガードレールに軽くもたれると目の奥にこみ上げる切なさを堪えて空を見上げた。
週末の夜、神奈川、最終戦の地。そこは有終の美を飾るには相応しい場所であり、しかしながら殺風景な場所である。
だからこそなのだろう。満点の星空という言葉には相応しい空模様がベルベットのような濃紺に広がっていた。
夏の星座群がそれぞれに精一杯の輝きを称えて瞬く。その瞬きへ史浩は無意識にこれまでの記憶を重ねた。
長くも短い一年という期間の中で夢と時間に追われる日々は、この夜を最後に幕を閉じる。
もう戻らない時間を思い返すにはまだ早い。史浩は段々とぼやけて見える夜空の方を向いたままで強く目を閉じた。
感極まってか、切なさからか、本人にも何が原因であるのか解明しがたい涙は早々と蓋をして強制的に仕舞いこんでしまいたいようだ。
そのままの態勢で史浩は大きく深呼吸を繰り返す。冷静になれ、冷静になれ、と何度も内心で念じなければ溢れそうになる雫が引っ込む見込みは立ちそうにない。
喧騒が辺りを包む。聞き慣れたエンジン音が彼に近づき、喧騒が一際大きくなる。
その場にいる誰もがハチロクだと口にしているところを聞くと、どうやら下りのエースが御帰還したらしい。
今の彼に視覚からの情報は一切ない。全て音に頼るのみで、史浩は周囲の状況を窺う。
喧騒は彼を遠ざけて渦巻いていた。ギャラリーが遠巻きに帰還直後の車へ注目しているであろう光景が史浩の脳裏に浮かぶ。
いつだってそうなのだ。注目されるのはドライバーであり、スタッフやアシスタントではない。
彼は特別注目されたいわけではなかったが、今だけはその事実に感謝していた。
誰も感傷にふける彼には気付かない。群衆は彼になど見向きもせず思い思いに先までの熱い戦いへの感想を口にする。
史浩は、すごかった、感動した、などと月並みな言葉を喧騒から拾い上げながらゆっくりと目を開けた。
瞳を開くとまず真っ先に飛び込んできたのは白鳥座のアルビレオ。
トパーズとサファイアの重なった二重星はさながら今夜のダブルエースの様相である。
彼の目の奥、つんと甘い痛みを残す切なさは消えない。だが涙はどうにかして引っ込んだようだ。
小さな溜息を零して彼はなおも夜空を舞う白鳥のくちばしを見上げる。脳裏に浮かぶのは小学生の頃に教わった夏の大三角形とノーザンクロス。
だが彼にはそのどちらも見つけられない。小学生の頃に確かに教わったはずであるのに、大三角も北十字も探す方法をどうしても思い出すことが出来なかった。
「天体観測ですか」
不意に声をかけられた史浩が驚きから小さく飛び上がる。次いですばやい動きで声の方向を必死に探した。
どうやら史浩には怖がりの気があるらしい。もちろん声の主はそれを見越して彼の不意打ちを狙ったわけなのだが。
その策略にまんまとはまった史浩は、自身の前方、右方、後方と声のした方向を探して、右向け右の動作である。
だが声の主らしき姿は見当たらない。史浩はきょろきょろと辺りを見廻して、一呼吸置いてから小首を傾げた。
「こっちですよ」
すると含み笑いの声音が彼の背後から。同時に、とんとん、と指先で肩を叩かれる。
史浩は肩を小突かれるがまま振り返った。今度は驚いた様子もなく、平静の彼の態度のままである。
向き直った先には松本の姿。先ほどまでの史浩と同じくガードレールに軽く身を預けた彼は腕を組んで穏やかな表情で史浩を見遣る。
その様子は同性である史浩から見ても精悍に映った。加えて彼にはない大人の余裕にも似た貫禄が松本の表情に彩りを添える。
「驚かさないでくれよ…!」
史浩は声の正体が明らかになったことで胸をなでおろした。そして再びガードレールに軽く身を凭れかけると先までの涙を隠すように俯く。
雫は先ほどの驚いた衝撃で完全に引っ込んでいた。だが目蓋の熱は完全に引いたわけではない。
「誰かと思った」
泣きそうになっていたことを悟られないよう、史浩は自らの靴先へと視線を落として目を擦る。目を擦った指先に少しの水分が付着した。
普段よりもやや重い目蓋と熱を持った眼球に僅かな痛みが走る。だがその痛みは一瞬のみで次第に熱の中へと消えていった。
「すみません、驚かすつもりはなかったんですが…つい」
いまだ含み笑いの声音は紳士的で、それでいて彼の表情と同じく穏やかなものである。
その声に耳を傾けながら史浩は目を擦る手を止めて顔を上げた。耳に残る心地の良い低音が彼の心を落ち着けさせる。
そうして史浩は長い瞬きを一回。気持ちを切り替えるように軽く目を閉じて、ゆっくりと目蓋を開いた。
「それより……目、大丈夫ですか?」
彼が目を開いてすぐ、松本が心配そうに史浩の表情を覗きこむ。二人の身長差は数センチ。覗き込むほどに背丈の差があるわけではない。
だが松本は何を考えたのか呼吸が肌に触れるほど顔を近づけて史浩の表情、ひいては瞳を覗きこんだ。
何でも見通してしまいそうな切れ長の目が史浩に近づく。その表情は心配と誠実さを滲ませており、先ほどまでの穏やかさは既に隠れていた。
史浩は突然のことに驚く間もなく、視線も外せないままに松本の表情を見つめる。まさに目が点である。
今の二人に周囲の喧騒は届かない。それどころか、二人のいる空間だけがその場所から切り取られてあたかも別の場所にあるかのような静寂だ。
史浩は瞬き一つ出来ない状態でぽかんと口を開いたまま松本を凝視した。
「少し充血しているように見えますが」
これまで異性を相手にしても体験したことのない至近距離。史浩は無意識に呼吸を止めて状況の把握に徹する。
わずかに開いた二人の隙間にそよ風が流れる。するとほのかに香る汗の香りと制汗剤の香りが混ざり合って史浩の鼻孔を刺激した。
頬にかかる吐息にも、ほのかな香りにも、彼立ち尽くしたままで嫌悪感一つとして表さない。
むしろ史浩は視覚以外から得たそれらの情報に対して嫌悪感よりも得体の知れない感情を抱いていた。
「ここでは暗くてあまりよく見えませんね」
腰から首筋にかけて甘美な痺れが史浩に走る。もはや彼には涙の痕跡を見せまいとすること以前に、その場の対処法すら見失っていた。
膝から崩れ落ちてしまいそうになる甘い痺れは彼の身体の敏感な部分に逃げ場を求めて飛散する。
全身を侵食し始めようとする気だるさと無意識に戦いながら史浩はいまだ思考停止状態である。
そんな彼を我に返らせたのは松本の行動だった。彼はしっかりと史浩の眼球を観察すると何の躊躇い名残もなくすっと身を離す。
すると先まで香っていた独特の香りが消えた。あとに残るのは史浩の嗅覚に刻みつけられた残り香のみである。
次いで彼の視界が元に戻る。それまで松本で占められていた史浩の視界に星空が、ギャラリーが、峠からの夜景が、遠くへ映った。
「あ、ああ、…そうだな」
会話を交わせど彼が頬に感じる吐息は既にそこにはない。感じるのは時折吹くそよ風の涼やかさのみである。
史浩は緊張で乾いた喉を潤そうと意識的に唾液を呑み込んだ。
目の奥の切ない痛みはもう消えてしまっていたが、今度は喉の渇きによる痛みが彼を襲っていた。
加えて酸欠の脳が眩暈のような感覚を史浩に植え付け、その眩暈が更に身体の奥へ灯ってしまった淡い火を煽りにかかる。
彼はたまらず小さな溜息を零した。胸の中に釈明としない靄を抱えてほろ苦い思いを溜息と共に吐き出す。
そうして史浩が横目で松本を捉えた。その表情が一体どんな風に松本の目に映ったのか、彼は知らない。
ただ一つ、史浩が知ったことといえば“まだもう少し、ただ傍に居たい”という感情であった。
(end)
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