涼介の仮住まいの別荘を訪問して、三日が経った。
別れ際の、なんとも形容しがたいあの違和感は三日たっても拭うことは出来ず、文太はそれがどうにも気がかりだった。
車の好きな若い連中と仲良くなった。
少し話し込んで、教えてやった。
ただそれだけなのに、どうして、別れ際のあの違和感が未だに文太の中で燻っているのか。
暇になった昼過ぎの自分の店で、片づけをする文太の脳裏には、男にしてはやけに美しい、あの涼介の顔が幾度も浮かんだ。
どこか陰のある、まるで俳優のような美貌は同性であってもドキッとするほどだった。
(何だかな……)
お豆腐屋さんなんですね、と微笑んでいた顔。
綺麗な目をしていた。引き込まれそうな深い色の瞳。
整った、どこにも欠点のない顔立ち。
確か医者の息子で、大学は医学部だと言っていた。
あれに走りの速さが加われば、本当に完璧だろう。
涼介はまだあの貸し別荘にはいるだろうか。来週一杯はと言っていた筈だ。
勉強と走りの不足分を取り戻したいと言っていた。
包丁を拭きながらちらりと見上げた壁掛けの時計は油でうっすらと黄ばんでいる。
黒い針と目盛りを追い、無意識のうちに時間を計算した。
「……」
レジのカウンターに置いた携帯を取り出すと、電話番号を検索する。
別れ際に聞いた涼介の名前と電話番号が一番先頭に、あった。
「……もしもし」
『はい、高橋です』
心地よい低音の声が、三日前と同じように、優しかった。
『もしかして、藤原さんですか? どうなさったんですか』
「あ、いや、その……」
先にどうしたのかと涼介に聞かれ、文太は頬を掻き、理由を探した。
『藤原さん、今お店の時間じゃないんですか? お仕事はいいんですか?』
「店なんかどうせ暇だよ。その、お前さんがまだ別荘にはいるのかと思って……」
『勿論ですよ』
電話口の向こうの声は弾んでいた。
『まだいますし、借りるのを延長したところなんです』
「へぇ」
文太と会った日以来、走るコツのようなものが少し見え始め、ここ三日のタイムが良いらしい。それで、もう少し走りこみをしたいと思い、別荘を夏休み一杯借りることにしたのだという。
異音を発していたFCの部品は、あの次の日にディーラーが交換に来てくれたそうだ。
『藤原さんのアドバイスのおかげです!』
「アドバイスったって、たいしたことは言ってねえよ」
褒められて悪い気はしないものの、文太は少し照れた。
若いうちは車に限らず、わずかな助言が大きな効果を生むものだ。見ていてほほえましいし、自分の若い頃を思い出して懐かしい。走り屋は減少傾向にあると言われ久しいだけに、こういう男は嫌いではない。
『お暇なら、また遊びに来てください』
「……あ、ああ」
期待していた言葉を涼介はそっくりそのままくれた。
文太が聞こうと思っていたのだ。遊びに行ってもいいか、と。
「じ、じゃあ、今夜は」
『今夜ですか? ……そうですね』
今夜、といったってあともう何時間もないのだ。受話器の向こうでごそごそと何かを探る音がして、『大丈夫ですよ。待ってます』と、明るい声がOKをくれた。
通話を終え、大きく息をついた。
(良かった……)
口元がニヤニヤと緩んでいる。
(っつーわけで、店は早仕舞いするかぁ)
道具を片付け、店を早仕舞いする支度をしながら、文太はふと気づいた。
「何でほっとしてんだよ、オレぁ……」
息子の拓海には夕食代として千円札をちゃぶ台に置き、店を早く閉めた。どうせ暇な豆腐屋だ。誰も何も言わない。
涼介の住む貸し別荘に着いたのは、陽がとっぷりと暮れてからだ。
店の売れ残りの豆腐や惣菜を袋に詰めて行った。
例によって、件の久保ヶ坂峠を通った――が、今度は意外なほど、あっさりと心地よく、通れた。
最初の時とも、その次の時とも違う感覚だ。
ただの、峠。
面白みの薄い、平坦な道のように思われた。
(なんだこりゃ……)
通るたびに顔の違う峠というのは珍しい。スピードを出せば平坦な峠が牙を剥く砦になるのは何処も一緒だが、同じスピードと同じラインで攻めているのだ。車のコンディションも一緒のはずなのに……。
確かに季節が変われば、路面状態などが変わるし景色も変わる。
だが、たかが数日だ。時間帯もそれほど違ってはいない。それでこの変化は、納得がいかないものがある。
(気持ち悪いな……)
城島がここを通るなと言ったのは、そういうことなのだろうかとふと思った。
気抜けしながらも涼介の別荘に着くと、この間と同じく綺麗な顔をした青年は、文太を歓待してくれた。
「藤原さん、こんばんは」
「すまねえな。勉強の邪魔しちまって」
「そんなことありませんよ。藤原さんが来てくださらなかったら、二日続けて誰ともしゃべらなかったところです」
涼介はこの間と同じ服装だった。
「口が乾いちゃいます」
冗談を言う涼介だったが、言葉に偽りはないようで本当に嬉しそうに文太を迎えてくれた。文太手土産の豆腐に喜んでくれ、「スーパーじゃないところのお豆腐ってなかなか口にするチャンスがないので嬉しい」と、パックではなく袋入りの豆腐を珍しそうに眺めていた。
「ウチも少しはスーパーに卸してるぜ、入れ物が違うだけさ」
「そうなんですか?」
「昼から拵えたものだからまだ新鮮だ。とっとと食っちまおう」
「はい」
文太の持ってきた豆腐と、店の惣菜。それと涼介が峠下のコンビニで買ってきたというつまみで、男二人の食卓はにぎわった。
別荘というだけあって、周囲は静かだしなにより窓からの景色が良かった。
遠くに見える街の灯りがまるで宝物のようにキラキラと輝いている。他の別荘の客たちは別荘群の丁度中央にある庭で、盛大にバーベキューをしていて、いい肉の焼けるにおいがこちらにまで届いてきた。
「あっちは豪勢だな。すまねえな、豆腐で」
「いえ、そんなことないですよ、とても美味しいですよ。藤原さんのお豆腐」
白い豆腐を頬張ってにっこりとほほ笑む綺麗な顔に、文太の心臓が軽く跳ねた。
「一人でいるとどうしても簡単なものばかりを食べてしまうんです」
「医者の卵でもそうなのか?」
「ええ、栄養学なんてトータルで見てバランスが取れていればいいだろうって思っちゃうんで。案外適当ですよ。サプリで補っちゃうこともありますし……あ、この厚揚げカリカリですね」
文太自慢の、大ぶりの厚揚げを箸でつついて涼介が目を細めた。
「うちのは昔から製法が変わってないからな。外はカリカリだよ」
涼介が文太の豆腐を褒めた後は、車の話に花が咲いた。
文太のハチロクの中に転がっていた、古い自動車専門誌をタネに話は幾らでも続いた。涼介はよく勉強していて知りたがっていたし、文太にしても若い連中に聞かれて答えるのは悪い気などしない。
この間の時間では足りなかった分まで、聞けなかった部分まで涼介は文太に尋ね、文太はそれに答えた。
涼介が持ってきていた自動車専門誌の付録のDVDを二人で見てまた盛り上がった。
気づけば、遅い時間になっていた。
「済まねえな、こんな時間まで……」
壁掛けの時計の時間を見て、文太は額に手を当てて眉をしかめた。
電話をかけて押し掛けてこんな時間、それもまだ二度目に会うだけの深い仲でもない相手の家で。
「いいんですよどうせ暇してますし……藤原さん、明日はお仕事は?」
「ん? 明日は店は定休日だけどよ」
「だったら、うちに泊まってください」
定休日と聞いて、涼介の顔がぱあっと明るくなった。
「泊まるったって、」
「着替えならオレのを貸しますから」
「いや、着替えは車にいつも積んであるけどよ、……」
押し掛けた様な形の上に泊まるだなんて図々しいにもほどがある、と文太は躊躇った。確かに着替えは、親類の急な不幸が一昨年にあって以来、いつも車には一式を積んでいるから、今夜泊まっても着るものに困ることはないのだが。
「どうせ一人じゃ広すぎる家なんです。いいじゃないですか、明日お休みなんでしょう? オレのFCの横に乗って峠走りましょう」
「……いいのかよ」
「むしろ、泊まって下さい。ね? いいでしょう?」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「やった!」
文太が泊まることを了承すると、涼介は嬉しそうにその場で軽く飛び跳ねた。まるで子供だ。文太はそれがおかしくて、ふっと笑った。
車に着替えを取りに外に出た。外はひんやりと肌寒かった。
家にいるだろう拓海に携帯から電話を掛けると、「どうぞ何日でもゆっくりしてくれていいぜ」と一人息子は冷たい反応だった。電話口の向こうではしゃぐ声が何人分か聞こえてくるから、きっと友達が来ているのだろう。
女の子らしい声もする。どうやら、泊まって正解のようだ。
「そっちこそ、間違いおかすんじゃねーぞ! バカ息子」
「るせーよっ。オヤジこそいい女でも見つけたのかよ」
「女……そんなんじゃねーよ」
湯を使い、風呂上がりに涼介が出してくれたビールを呑んだ。
呑むと車に乗れないと思ったが、どうせ泊まるのだ。明日の朝でも昼でも、走ればいい。どうせこの峠はそれほど車の通りが多くはないらしいから、夜でなくとも走っても大丈夫そうだ。
涼介も「下戸なんですけど、今日は」と言い訳をし、濡れた髪のまま二人してテレビを見ながらビールを何本もあけた。
走りの話題は尽きなかった。有名なレースやレーサーの話。群馬や北関東エリアの峠の話。
涼介にどうぞ、とゲストルームに案内された時間さえ、文太は覚えていない。
目覚めるともう朝だった。
(……寝過ぎちまったか)
窓の外の日は高い。
自宅ではないベッドは固かったが広く、寝心地は悪くない。
外がやかましいと思ってカーテンを開くと、同じ別荘群の、おそらく昨夜バーベキューをしていた家族の子だろう、小学生くらいの子供たちが数人、森の方へ歓声をあげながら走っていくのが見えた。
(ガキは元気だな)
いつの間にベッドに入ったのか覚えてはいないが、朝方近かった気もする。
(涼介は……)まだ寝ているかと思い、文太は上体を起こした。と、部屋の扉がノックもなく開いた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
昨夜と同じ、パジャマ姿の涼介が入ってきた。どうやら彼もさっきまで寝ていたようだ。
「随分昨夜は話し込んじまったな」
「そうですね。でもとても、楽しかったし役に立つお話ばかりでした」
「そう言ってもらえるとありがたい」
文太は頭を掻いて照れた。
「藤原さん、朝ご飯食べませんか」
「ああ、」
「……でも、その前にお願いがあるんです」
「お願い? なんだ」
涼介が、文太のベッドに腰掛けた。
「昼間から走りに行くのか? 横乗りすりゃあいいのか?」
「いいえ」
涼介がふんわりと微笑んだ。その顔は本当に美しくて……文太の心臓がまた、跳ねた。
「藤原さん、オレ」
白い手が伸び、文太の両頬を挟んだ。
あの日と同じ、驚くほど冷たい手だ。
「涼、……」
美しい、深い湖のような色の涼介の目に、驚いている文太が映っている。
「車と勉強と、もう一つ。この別荘にいる間に、したいことがあったんです。なんだかわかりますか?」
「……分からねえ」
「好きな人と、セックスをすることなんです」
赤い唇が近づいてきて、文太の唇に合わさった。
「貴方が好きです。藤原さん、オレとセックスしてください……オレの処女を、貰ってください……」
「涼介っ、」
「お願いです……」
カーテンが揺れた。
子供たちの歓声がまだ聞こえている。
蝉が鳴いている。
涼介が文太を押し倒し、ベッドに潜り込んだ。
(続く)
home