この間のアレ
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金曜の日没間もなく始まったプロジェクトDのプラクティスは、日付が変わっても続いていた。
土曜日午前一時、現在一旦小休止中。
駐車場の隅で、ジャッキアップしたハチロクの下で松本は作業に当たっていた。
反対側の隅では啓介のFDが同じようにジャッキアップされ、宮口が潜っていた。
「松本さん、コーヒーです」
足音が近づいてきたと思ったら、藤原の声がした。遠くでは啓介とケンタが何がおかしいのか笑っていた。
「ああ、ありがとう。そこに置いといてくれ」
目の前の部品と格闘しながら松本が答えると、足元に近いところでコトン、と軽い音がした。
藤原がアスファルトに缶コーヒーを置いた音だ。
「まだ掛かります?」藤原がしゃがんで覗き込んできた。松本は視線を足先に落としてみるが、藤原の顔は見えなかった。
「そうだな、まだ……掛かりそうだ」
「あっちも掛かるみたいですよ」
「そうか」
会話は途切れた。
焼けたタイヤの匂いと、工具を取り替えるたびにアスファルトと工具が立てる金属音、部品の擦れる音、工具に力を込めた時の松本の「ん、」という唸るような声。
松本の近くにしゃがんだまま、藤原はそれらをぼんやりと感じ、聞きながらハチロクの下からはみ出した松本の腹から下を見ていた。
洗濯をどれほどしたのか、色褪せてよれよれになった松本のツナギは汚れ、所々、鍵裂きのように破れていた。
「松本さん」
「ん?」
藤原が再び口を開いたのは、さっき会話が途切れてからたっぷり十分は経った頃だろうか。
「……松本さんが言ってた”この間のアレ”なんですけど……」
藤原の言葉に、松本の手が止まった。
「オレ、色々考えたんですけど……」
松本と藤原の、丁度間に置かれた缶コーヒーは汗をかいていた。
「やっぱ普通じゃないと思うんですよ。アレ、……やっぱ……」
藤原が俯いた。顔は見えなかったが、松本には口調から藤原がどんな顔をしているのかが何となく分かった。
「…………嫌なら、断ってくれていい」
この間もオレはそう言った筈だ、と松本は言い、作業を再開した。
「オレ……いいですよ……」
藤原は缶コーヒーに手を伸ばした。
何時まで経っても松本が飲んでくれそうに無い、汗をかいた缶コーヒーに。
親指と人差し指でカキュ、とCMにでも出てきそうないい音をさせて、プルトップを開けた。
「他の人ならヤですけど、松本さんならいいですよ」
大事なことを決意したその言葉と口調に、松本は作業を再び中断し、背中でいざってハチロクの下から出た。
熱を持ったハチロクの下でずっといた松本の顔を首を、涼しい夜の空気がさあっと撫でた。
その松本は、いつもの優しく温厚なメカニックの顔ではなく、いろんな意味で「男」の顔をしていた。
「……藤原、」
起き上がって藤原を見れば、しゃがんだまま俯いて開けた缶コーヒーを手にしていた。
「松本さんが言ってたこの間のアレ、……やります。オレ」
「藤原、」
松本の声と被って、藤原ぁ、と、啓介が藤原を呼んだ。
遠くにいるのに、よく通る声だった。
顔を上げて啓介の方を見ながら、藤原はやや紅潮した頬と声を震わせ、そして言った。
「オレの裸のやらしー写真、撮っても……いいです……」
(終)
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