It's  a  phantom  of  the beautiful  future



藤原文太、28歳。
職業・豆腐屋。
諸事情により数日前、とうとう女房に逃げられてしまった彼に残されたのは、数えるほどのものだった。
縁あって人から譲り受けた豆腐屋の店舗兼居宅。
運転の腕前。ラリー屋をやっていた位の腕前、といえば分かってもらえるだろうか。
配達用の商用車一台。もうすぐオシャカになりそうな位、古い。
貯金が少々。
そして、文太の傍らで眠る、まだ三歳の一人息子・拓海。



居間のコタツですやすや眠る拓海の傍で、文太は音量を落としたテレビをぼんやりと見ていた。
眺めていた、という方が正解だろうか。
内容が頭にあまり入ってこない。
女房に逃げられたショック、そうなってしまった原因である己の不甲斐なさ、自分ひとりで豆腐屋を切り盛りしていくことへの不安、父一人息子一人のこれからの生活、母親が居なくなったことの拓海への影響――色々なことが彼の頭の中で交錯し、どうにも考えが纏まらない。
ここ数日、増える煙草の量がそれを如実に物語っていて、空になったソフトケースを握りつぶす度に四面楚歌という言葉が浮かんでしまうのだ。
拓海は母親が居なくなったことをまだ良く分かっていないようで、それが不憫でならなかった。急に通うことになった保育所を楽しいと喜び、イツキ君というお友達が出来たと言い、母ちゃん、いつ戻ってくるの? と無邪気な質問を文太に投げかけてくる。
文太は何と答えて良いか分からず、お菓子やるからあっち行ってろ、で誤魔化し続けている。
「……考えたってしょうがねえかなぁ……なるようにしかならねーか……」
文太はぽつりと自分自身に言い聞かせるように呟いた。
全ては身から出た錆。自業自得。因果応報。
後ろを振り返ったって、時間は戻らない。
先を案じたところで、歩いていくしかない。
人生は車と一緒だ。
全力でアクセルを踏み込み、ステアを操り、その時々で一番良いと思うギアに入れ、ここぞと思うラインを取り、進むしかないのだ。
今回はシフトミスなのかライン取りの失敗なのかブレーキングの遅れが響いたのか、結果がこういうことになってしまった――なら、どこかで取り戻せばいい。
「まぁ、拓海がまっすぐ育ってくれりゃあ結果オーライか……?」
文太は拓海の寝顔を見、手を伸ばしてやわらかな頬を二、三度撫でた。
それは無邪気この上ない、文太の今一番の宝物だ。
「とりあえず母ちゃんは死んだって嘘でもついとくか……」
文太はうんっと伸びをし、拓海の隣にごろんと転がった。



ここ数日、あまり眠っていなかったせいだろう。
いつの間にか、文太も眠りに落ちていた。



そして、普段は夢など殆ど見ないのに、――夢を見た。
夢の中の文太はもういいオッサンになっていた。頭には白いものが混じり、顔には深い皺も刻まれている。
拓海もすっかり大人になっている。
豆腐屋は今と変わらぬ建物だが、潰れずにそれなりにやっていけているようだ。
ポンコツの商用車は、違う車になっている。それどころか、もう一台、スポーツカーがある。
豆腐屋はそれなりどころか、結構儲かっているのかもしれない。
そして、なぜか“息子”ももう一人、増えている。
それは文太とは似ても似つかぬ芸能人のような美男子で。背も高く、品もある。
見た目は拓海より年上だ。もしかしたら再婚相手の連れ子かもしれない。が、それらしい女性は夢には出てこなかった。
拓海は文太をオヤジと呼び、もう一人の息子はお父さんと呼ぶ。拓海は若い頃の文太によく似ていて、もう一人の息子は同性ながらドキッとするような美貌の持ち主だ。
拓海はなぜか彼をあまり好きではないようで、彼が文太の傍に居るのを冷たい目で見ている。
場面は変わり、文太はその美貌の息子に、居間で膝枕をして貰い、暢気に昼寝をしていた。
安心しきった顔で、当たり前の様に彼の膝で鼾をかいている。
美貌の息子は嬉しそうに文太の髪や耳を弄り、肩をなでる。
彼はゆっくりと文太の耳元に顔を寄せ、ぼそぼそと何かを囁いている。
『――お父さん、大好きです』
その息子の声は、低く艶のある、顔と同じく美しい声だった。
『オレ、きっと、お父さんを見つけますから――だから、……』
だから、の後は、聞き取れなかった。


「――何の夢だ……ありゃ」
目を覚ました文太は、思わず呟いた。
全く訳の分からない夢だ。
寝不足がたたっているのだろう、あんな夢を見るなんて……。
豆腐屋が潰れておらず、拓海が立派な大人になっていて自分も生きている、そこまではいい。
「ありゃオレの息子……か?」
起き上がって、夢の内容を反芻する。
お父さんと呼ぶからにはあれはきっと息子なのだろうが、……こんな寂れた豆腐屋の息子に、あんな芸能人並みの美貌の息子は無いだろう。ついでに膝枕は無いだろう。というか、いい年をしてお父さん大好きです、は幾らなんでも……。そんな気は自分には無いはず、だ。
「妙なもん見ちまった……ん?」
文太はふと気付いた。



――勃っていた。



「なんで野郎に膝枕して貰う夢なんざで……ああ、もうっ!」
両手で頭をわしわしと掻き、勢いをつけて立ち上がった。
「……父ちゃん、どうしたの?」
文太の声に、拓海が目を覚ました。



変な夢なんか忘れちまえ、と文太は拓海と風呂に入った。
熱い湯は、訳の分からない夢と、ここ数日のもやもやをさっぱりと洗い流してくれた。
狭い湯船に二人で浸かっている時、拓海が通い始めたばかりの保育所で覚えてきたお遊戯を見せてくれた。その可愛らしい仕草に文太は何日か振りに笑い――それに気付き、熱いものがこみ上げてきて、思わず拓海をぎゅっと抱きしめた。
「父ちゃん、苦しいよ」拓海が小さな手で、ぺしぺしと文太の肩を叩いた。


自分は落第の父親かもしれないが、この子を立派な大人にしなくてはいけない。
まずはしっかり前を向いて二人で生きていこう――そう、決意した。
夢のことは、すっかり忘れてしまっていた。


しかしあの夢が、16年後に現実のものとなることを、28歳の文太はまだ知らなかった。
知る由も無かった。
(終)





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