永遠懺悔



「それでは、失礼致します。毎度有難うございました」
食堂の店先で、涼介は極上の笑みと共に丁寧に頭を下げた。文太も続いて頭を下げ、藤原豆腐店は午前中最後の配達を終えた。後は帰るだけだ。
午後は店売りがメインで、夕方か始まる居酒屋やおでん屋は店に商品を取りに来る。
忘れていればこちらが届けるという、昔ながらの暢気な商売方法だ。
涼介はインプレッサのナビシートに乗り込んでシートベルトを締めながら、ちらっと後部座席を見た。配達用の小型の容器は本来なら空になっていなくてはいけないのに、木綿豆腐とおからが一丁と一袋、残っていた。
「……お父さん、今日の配達はこれで終わりじゃなかったんですか?」
涼介はキーを差し込んでいる文太に尋ねた。
「配達ってモンじゃねーけどな……これから寄るトコがあるんでな。後ろのはその土産だ。涼介、お前時間大丈夫か?」
「あ、はい」
「ちょっと遠出するぞ……」
文太はステアリングを勢いよく回した。


インプレッサはどんどん渋川から遠ざかっていく。平日の午前中の道は空いていて、心地良いリズムで走ることが出来ていた。
シフトレバーに置いた文太の手に目線を落とした涼介は、今朝のことをふと思い出した。
「お父さん」
「何だ」
「もしかして、今朝の電話の方のところですか?」
「……勘がいいな、涼介」
「ありがとうございます」
お父さんに褒められた、と涼介はふふっと笑う。
今朝の電話とは、拓海が早朝のホテルへの配達から戻った後、文太と涼介が午前中の配達の準備をしている時に掛かってきた電話のことだ。
朝食を掻き込んでいた拓海が出て、「伊勢崎から」と文太に繋いだ。
伊勢崎って何だ? と涼介が拓海に尋ねると、拓海は「この家に元々住んでた遠い親戚で、オヤジの豆腐の師匠ですよ」と教えてくれた。 涼介はあの家が文太の生家かと思っていたから、意外な話だった。
その遠い親戚は拓海がまだ小さい頃、豆腐屋とあの家を文太に譲ってから伊勢崎のマンションに住んでいること、だから伊勢崎と呼ぶのだ、と拓海は続けた。
「遠いご親戚なんですね」
「拓海がそう言ったのか?」
「はい」
「……ホントはな、……親戚じゃねえんだよ」
文太は前を向いたまま、声のトーンを少し落として言った。え、と涼介が反応すると、「拓海には言うなよ」と、釘を刺された。
「オレの豆腐の師匠であの家に元々住んでいたっていうのは本当のことだけどな……」
「……」
嘘、ついてるんだ。
文太は呟いた。
涼介はそれ以上、追求しなかった。代わりに文太の顔を、じっと見つめていた。



インプレッサは伊勢崎市内にある、高層マンションの駐車場に滑り込んだ。
後部座席の一丁と一袋をビニール袋に入れて涼介に持たせると、文太は先に立ってマンションに入っていった。インターホンを押すと、上品な、しかしだいぶ年かさの女性の声で、『文太さん?』と尋ねてきた。
最上階の角部屋が、目指す場所『伊勢崎』だった。
そこには腰の少し曲がった、七十過ぎの白髪の老婦人が一人で住んでいた。
「あら、まぁ、文太さん、あなた随分お年を召して……」
杖を突いて現れた老婦人は懐かしそうに文太を見上げ、その腕に触った。
「久しぶりだな、おかみさん」と文太が珍しく微笑んだ。涼介は見たことも無い光景に、ちょっと興味を持った。
「こちらは? 息子さん? 大きくなったのねえ」
「……ああ、コイツは……」
「息子の涼介です。こんにちは」
「涼介さんね、良いお名前ね、文太さん」
バイト、と文太が言う前に、涼介が名乗って老婦人にさっと手を出し、握手してしまった。
(またコイツは……)
文太はちっと舌打ちした。老婦人は数年前に会った拓海のことなどすっかり忘れているようだ。
今から否定するのも面倒だから、そのまま涼介を息子で通すことにした。
「これ、土産だよ」
「あら、ありがとう。随分腕を上げたのねぇ、秀司さんところのお菓子、豆乳の。あれ、美味しいわねえ」
「ああ、秀司も来たんだな……いや、なかなかどうしてこれが……まだまだ季節の変わり目が難しいな。伊香保の水も、ちょっと変わってきてるし」
老婦人は文太から一丁と一袋を受け取ると、二人をリビングに招き入れた。
「早速お味見をしなくちゃね」
老婦人は二人にソファを勧め、台所へと不自由な足で向かった。
文太と涼介はそれを見送った。
「余計なこと言うんじゃねえ、馬鹿が」
文太が涼介の脇を肘で突付いた。
「ふふっ、いいじゃないですか。……あの方が、お父さんの豆腐のお師匠さんですか?」
「ああ。夫婦でやっていたから、もう一人……あそこに」
文太は振り返り、窓に近いところにある古い仏壇を指した。
仏壇には繰り出し位牌と、小さな写真立てが二つあった。
「……ご主人ですね」
「ああ」
涼介と文太は仏壇の前に立ち、古い鈴を鳴らして手を合わせた。
写真の一つは七十近いくらいの男性の写真だ。老婦人の夫で、文太の豆腐のもう一人の師匠だ。
五年前に亡くなったのだという。
もう一枚は、今の涼介と変わらぬくらい若い男の写真だ。
老婦人と目元がとてもよく似ていた。
「こちらの方は?」
「そいつは、ここの倅……本当の豆腐屋の跡取は、コイツだったんだよ。オレの走り屋の仲間でな」
「……亡くなられたんですか」
「だからここに写真があるんだよ」
アレ見てみろ、と文太が顎で示した方には、壁に引き伸ばされた古い集合写真が飾ってあった。
「あ、もしかして……」
涼介は写真の前に駆け寄った。
「これ、お父さんがいますね」
「ああ」
その古いカラー写真は、秋名湖畔で撮影されたもので、古い型のサバンナの前に若い男が十人近く集まって笑っている。
真ん中にしゃがんでいるのは若い頃の文太。その隣に、仏壇の写真の男がしゃがんでいた。
「こいつが祐一……拓海がバイトしてたガソリンスタンドの。こっちは政志。こないだインプの部品持ってきたろ。これは小柏だな」
「小柏カイの父親ですね」
「ああ。で、こっちがケーキ屋の秀司。このサバンナは秀司が買ったヤツだ……」
「へぇ……」
初めて見る文太の若い頃の写真に、涼介は自然と顔が綻んでいた。
「若い頃のお父さん、かっこいいです」
「……馬鹿野郎」
ゴツン、と文太の拳骨が涼介の頭に落ちた。
「痛っ!」
「そういう話をしてるんじゃねぇだろうが……」
「すみません……あの、この方、どうして亡くなられたんでしょうか……」
じんじん痛む頭を撫でながら、涼介が疑問を口にする。
あの老婦人の倅だった男の写真は若い。



「――もう十九年前か。赤城の山で、ハンドル切り損ねてガードレールぶち破っちまってな。そのまま谷底にまっさかさま……それで死んじまったんだ」
「…………」



文太は胸ポケットから煙草を取り出そうとし、「ここ禁煙だったな」と呟いて手を止めた。
「そうだったんですか……」
涼介は俯いた。
「コイツとオレは同じチームでな。オレがリーダーだった。……あの頃の秋名は上手いヤツが多かったけど、オレらのチームは飛びぬけてた。
コイツとオレでダブルエースみたいな扱いでな……けど、コイツはオレにだけはどうしても勝てなかったんだ。藤原にだけは負けたくないって、意地になってたみてぇでな。バトルを何度も申し込んできたんだ。
オレがラリー屋になってチームを譲ってからも、しつこく挑んできたヤツだよ……」
文太は遠い記憶を手繰り寄せた。
もうセピア色に染まってしまった若い頃の記憶だ。
「ある日、オレのオフの時にまた性懲りもなくバトルを挑んできた。オレは勿論それを受けた。いつもなら秋名でやるのを、たまには赤城でやろうってことになって……バトルの前の日に、コイツが赤城で一人走りこんでて……」
文太は細い目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、あの日のこと。
事故の知らせを受けて祐一や政志達と駆けつけた赤城の山の、破れたガードレール。
そのはるか下に見えた、無残なチームメイトの愛車。
葬儀で泣き崩れていた彼の両親。
「赤城での走り込みは最初はオレも一緒に行く筈だったんだが、ラリー屋の雑誌の取材で行けなくてな……オレが殺したも同然だ、って思ったんだよ……」
搾り出すように、文太は言った。



あの日の胸の痛み。
赤城でなく秋名なら、こんなことにならなかったかもしれない、いやせめて一緒に走っていればという後悔。
破れたガードレールの間から谷底に向かって、人生で一番の絶叫を上げたこと。
一日とて、忘れた日はなかった。



「………」
涼介は文太の顔を見ながら、沈黙した。
こんな時、何と答えて言いのか分からなかった。



沈黙を破ったのは、台所から漂ってきた良い匂いだ。
「さあ、おからが出来上がりましたよ、お豆腐も炒り豆腐にしましたよ。お味見しましょう、文太さんのおからとお豆腐」
キッチンから老婦人が顔を出した。




帰りのインプレッサは、涼介がステアリングを握った。
老婦人が勧めたビールを文太が遠慮せず口にしたからだ。
お菜は甘く炊き上がったおからと、具沢山の炒り豆腐。
どちらも味付けは文太が店売りに作るものより濃い目だったが、藤原豆腐店の味だった。文太が師匠である老婦人とその亡き夫から受け継いだ味のルーツとも言えるものだった。
老婦人は文太のおからと豆腐を褒め、文太は照れていつになく上機嫌で勧められるままにビールを飲んだ。
「昼からの店番は、オレがしますから」
「ああ」
正午の帰り道は少し混んでいた。
涼介は慣れない4WDに少し戸惑いながら、それでも普段の文太のアクセルワークやステアリング操作を隣で見ていたから、それを参考に、初めてインプレッサを操った。
「4WDは勝手が違いますね、難しいです」
「慣れだろ、こんなのは」
「……あの」
「ん?」
「お父さんは……結局、責任を感じて、豆腐屋になったんですか」
「責任っつーか……まぁ、それはあるかもな。アイツの両親も一人息子亡くして沈んじまってたから、ほっとけなかったし。ラリー屋の方もその前から不調でな。色々燻ってたんだ。いい機会だと思って豆腐屋に弟子入りしたってわけだよ……お陰で拓海の母親に三年目で逃げられちまったよ」
赤い顔をして、文太はへっ、と笑った。
拓海は「オレの母親は死んだんですよ」と言っているが、実は逃げられたのだと、涼介は文太から聞いていた。
「拓海に言うなよ……オレが豆腐屋になったからお袋が逃げたなんて知ったら、アイツに嫌われちまうからな。親戚ってことにしておいてくれ」
「わかりました。藤原には言いません」
実の息子の拓海も知らない文太の過去を知ることが出来たのは涼介にとって嬉しいことだった。
文太は何しろ昔のことを語りたがらないのだ。ラリー屋時代のことも、ちっとも言ってくれないし、拓海も知らないという位だ。
しかし、今日涼介が知った文太の過去は、知れたことを喜べるようなものではない、とても悲しい過去だった。
「……今日が命日なんだ。アイツの」
「そうだったんですか」
「年に一度、ああやってアイツに手ぇ合わせに……それと、豆腐の出来を師匠に見てもらいに行くんだよ。チームメイトだった連中も来てるみてえだな。昨日、ケーキ屋の秀司が行ったらしい」
「なるほど……」
「オレはアイツを死なせちまった。だから、死ぬまで豆腐屋をやるんだよ……」
彼の死は文太の直接の責任ではないだろう。否、間接的にも責任はないだろう。
峠で走ることは死と隣りあわせで、それを承知で走り屋は限界までアクセルを踏み込むのだ。
けれど、幾ら他人が責任がないといったところで、それは理想論だ。実際にそんな形で誰かの人生が幕を下ろされれば、文太が責任を感じるのは仕方ないだろう。
信号が赤になった。
インプレッサはゆっくりと減速して停まった。
「お父さん、」
「ん」
「どうして、藤原じゃなくてオレを誘ってくれたんですか? お言葉ですけれど、あいつも言って分からない歳じゃないでしょう? もう社会人ですよ」
ちらっと涼介は文太を見た。
拓海ももう一人前の社会人だ。早い結婚をした同級生もいるというし、なにより、プロDに参加してからの拓海の精神的な成長は目覚しいものがある。父親の昔話に動揺するような幼さはもう拓海にはない、と涼介は思ったのだ。
「お前だから、連れて行った……拓海は、まだ……」
「…………」
お前だから。
その言葉に、涼介の心に歓喜がわきあがる。
「あんな昔話、……誰にもしたことねえんだぞ……」
文太の細い目がゆっくりと閉じていく。
声に力がなくなっていき――眠った。
「お父さん」
涼介が軽くゆすったが、完全に寝入ったようだ。
信号が青になった。涼介はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。



“また一つ、お父さんを知ることが出来た。
そしてオレを選んでくれた。
誰にも話さなかった昔話を、オレにしてくれた“



涼介はそれが嬉しかった。
ナビシートで眠る文太の頬を、指先でツン、と突付いた。


文太の心の、癒えることのない痛みを、少しでも慰めてあげることが出来たら――涼介は思った。


永遠に懺悔し続ける、この愛しい父にどうか安らぎを。
願わくば、その罪を少しでもオレが背負えるなら……涼介は、心の中で何かに祈った。
(終)





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