音はなかった。
閉めたはずの店のシャッターを上げる音もしなかったし、立て付けの悪い通用口の戸を開ける音もしなかった。
ましてや勝手口のドアは内側からしか開かない。軋む階段を上る音もしなかった。
テレビは消していたから、それらの音は全て聞こえてしかるべきものだった。
なのに、どれ一つとして聞こえなかった。
そして文太の部屋の襖はスッと開いた。
「……涼介」
ささくれ立った畳の上でチラシを広げ足の爪を切っていた文太は、突然のことに驚いた。切った爪がパチン、とチラシを大きく外れて飛んでいった。
開いた襖の向こうにいたのは涼介だった。
「てめぇ、驚かすんじゃねえ!」
怒鳴ったが、涼介は悠然と微笑んで首を僅かに傾げただけだった。
こんばんはとも驚かせてすみませんともお父さんとも、何とも言わない。
「ったく……寿命が縮んだだろうが」
普段から文太のタバコと酒を咎め、それじゃ長生きできませんよと医者の卵として脅す癖に、自分が文太の寿命を縮めるようなことを仕出かして。
今ので確実に三日は縮んだ。飛んでいった爪を捜しながら、文太は舌打ちした。
「涼介?」
おかしな雰囲気だった。
なんだか、いつもの涼介とは違う。確かに涼介なのだがなんだか違うのだ――どこか違う。
涼介は喋らなかった。
音もなく近づいて、文太の傍にしゃがんだ。
白くて細めの手を伸ばしてきて、うっとりとした表情で文太の頬に触れた。
「お前、」
触れてきたその手は、驚くほど冷たかった。
当たり前のように近づいてきた涼介の綺麗な顔の向こうで、ヤニで黄ばんだ襖が僅かに透けていた。
「……!」
文太の背筋を冷たいものが走った。
涼介の唇が文太のそれに触れ合う直前――涼介は消えた。



「高橋、起きろよ」
「んー……あと5分……」
「飯だぞ」
揺り動かされ背中を叩かれ、涼介は短い夢から目を覚ました。
重い瞼を無理矢理開いて顔を上げると、大学近くの弁当屋の袋を持ったゼミの友人がいた。
「ああ、すまない……」
涼介は机に突っ伏していた身体を起こし、大きく伸びをした。
深夜の短い休憩時間、研究室のあちこちから美味しそうな匂いが漂っている。
「二徹はきついな、ころっと寝て夢まで見ちまった」
「ハハッ、だろうな。オレがじゃんけんで勝ってたらそこで高橋みたいに寝てたよ」
じゃんけんで負けて買出しに出ていた友人はオレも寝たかった、と悔しがりながら幕の内弁当を渡してくれた。
涼介はペットボトルの茶のふたを開けながら、変な寝方したかな、と首をあちこちに捻った。
「こういうときに見る夢って結構リアルなんだよなー疲れすぎってのもあるんだろうけど」
ぱちん、と割り箸を割りながらの友人の言葉に、涼介は同意した。
「ああ――それに、オレが見たのはなかなかいい夢だったぜ」
「どんな夢だよ、高橋っ」
思わせぶりな涼介の台詞に、友人が肘でつついた。
「内緒だ!」
「怪しー」
(お父さんに会いに行く夢だった)
「確かに、リアルな夢だったよ」
その時、涼介の白衣のポケットの中で、携帯が震えた。
たった今我が身に起こった恐怖体験に、もしや涼介に何事かあったのではと心配した文太からのコールだった。


何かあったわけではない。

ただ会いたかった。
とてもとても会いたかった。

それだけのこと、なのだが。


”誘”体離脱




(終)





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