サンダル
|
大学の廊下を歩く涼介の手には、ビーカーやフラスコ、温度計などあらゆる実験道具の入った小さなコンテナがあった。
「機嫌いいな、高橋」
後ろから追いついてきた友人の手にも、同じ中身のコンテナがあった。両手がふさがっているから、彼は背中を叩く代わりに、コンテナの角を涼介の腰に当ててきた。
「まぁな」
涼介は小さく微笑んだ。
「足りるよな、コレで」
友人がコンテナを少し傾けて訊ねた。ゼミで使う実験道具のことだ。もし足りなければ随分と遠い倉庫まで行かなければならないため、少し大目を持ってきたのだ。
「足りるだろ」
「っつーか高橋、そのサンダル。どこで買ってきたんだよ」
友人は目線を下に落とした。
涼介が履いているのは、茶色いゴムのサンダルだ。
この間まで大学で履いていたクロックスは、とうとう底が割れて使い物にならなくなったのだ。
「便所スリッパじゃねえか、それ!」
「失礼だな、買おうと思ったって、なかなか買えないんだぞ、これは」
涼介の履いているゴムのサンダルは、どう見ても大学病院のトイレにありそうな、というか殆ど同じものがあるのだが――トイレのスリッパにしか見えなかった。涼介はやけにムキになって反論し、友人はへぇ? という顔をした。
「そーなの?」
「ああ、そーだっ」
整った顔がちょっと怒ったようにも見え、友人はからかって悪かったかな、と思った。
「アレか、一点モノとか?」
「まぁそんなもんだ」
「その割に使い込んでるじゃないか?」
新品には見えない。踵は少し減っているし、なんだか白いゴミのようなものが模様の間に入り込んでいる。
「家で、な」
「……なるほど。それにしたって、サイズ合ってなくないか?」
サンダルは、涼介の足には少し小さかった。
「いいんだよ。ダイエットスリッパだってちんちくりんじゃねえか」
「……そういうもんかぁ?」
高橋ってわかんねえなぁ、と友人は大げさに首を傾げた。
その時、彼の体も傾いてコンテナの中のフラスコが落ちそうになり、二人は慌てた。
文太は朝から探し物をしていた。
店の周りを何度も見回ったが、見つからない。あんなもの、何処でどうやったら無くすのか。
「拓海ぃ、オレのサンダル知らねーか」
居間で寝転んでアニメを見ている拓海に訊ねたが、拓海は振り返ることもせず冷たい返事を返す。
「知らね」
すっかり愛想もへったくれもなくなった息子に冷たく言い放たれ、文太はまいったな、と頭をかいた。
「どっかで飲んできて、忘れちまったんじゃねーのっ」
「そうかな……だったらオレぁ裸足で帰ってきたことになるんだがな」
「しらねーよ。盗まれたとか?」
「……誰が盗むんだよ。それにだな、」
見覚えのない、新しいサンダルが勝手口のたたきに鎮座しているのだ。
「オレぁ飲みに行って人様の新しいサンダル履いてきちまったってのか?」
「そーじゃね」
拓海は相変わらず、振り返らずにアニメに夢中だ。文太はうーん、と腕組みをした。
「……よしんばそうだったとしても、だ。オレぁ座敷の店にゃひと月は行ってないんだがな……ていうか第一オレぁ夕べ飲みに行ってねえしな」
昨日まではあったのだ。店番をする時や、近所に出かけるときに履く、愛用の茶色いゴムのサンダル。高いものではなかったが、無いのは気持ち悪いし第一足に馴染んでいたものだ。
昨夜は飲みには行っていない。なのに何故、今朝そのサンダルが無くて、新しいサンダルがあるのか。
「……まさか……」
文太には犯人の心当たりがあった。
約一名、こういうことをしそうな人間に。
知能犯の押しかけ息子。
「アイツ、」
「今日の晩飯は何にしようか?」
涼介は機嫌良く長い廊下を友人と歩いていた。
手の中の実験道具は重かったが、涼介は幸せだった。
サンダルの少しちびた踵には、マジックでうっすらと「文太」と書かれていた。
(これで大学にいるときも、お父さんと一緒だ)
涼介の考えた、文太と会えない時でも寂しくならない方法、だった。
(終)
|
home