Crack





「その傷、随分大きいな。どうしたんだよそれ」


ファミレスで行われた、Dの遠征の打ち合わせ。
拓海が店に着いた時、先に来ていたのは史浩だけだった。
次の遠征までまだ日があるので、今日の打ち合わせには多少遅れてもすぐさま困るようなことはない。そもそもそれぞれ職業も立場も年齢も違うメンバーの集合は、時間通りに行かないことが多かった。
今日も今日とて集合時間は迫っているのに、拓海と史浩以外は来る気配はない。さっき松本から『ちょい遅れます』というメールがあっただけだ。 二人はドリンクバーで好きな飲み物を汲み、天気やニュース、昨日見たテレビ番組といったとりとめのない話をしていた。
そんな時、グラスを掴む拓海の右手の甲の古い傷に気付いた史浩がふと、尋ねた。
「ああ、コレですか。高2の時に、ちょっと」
拓海の右手の甲に歪んだ三角形の様に横に走る傷は大きく、引き攣れたように見える。
「握ったりするのに問題はないんですけど、見た目悪いですよね、やっぱ」
右手を握ったり開いたりしながら、拓海は小さく苦笑した。
「転んだにしちゃあでかい傷だな。何やったらそんなになるんだ」
史浩は特に他意はなくただ思ったことを尋ねたまでだった。

人畜無害そうで、ボーっとしていて、眠そうで、何を考えているのか分からない。ひとたびステアを握ると全く別人のようにはなるけれど、普段は無気力そうな、目立たない、欲もそんなにない、草食系。
それが史浩の、いや、大抵の人間の、拓海のイメージだからだ。傷とか喧嘩とかいった類のものとは、一見無縁そうに見える。
「……まさか、いじめられてたとか?」
一瞬脳裏を過ぎった予感に、恐る恐る尋ねれば、いえ、と拓海は頭を横に振った。
「いじめられてた訳じゃないんですけど、……オレ、高校でサッカー部だったんですよ」
「へぇ、意外だなぁ。藤原は文化部っぽく見えるけど」
「そうですか? ……そういう史浩さんは何部でした?」
「オレ? 吹奏楽だけど」
くっ、と拓海が口を押さえ、細い肩が揺れた。
「藤原、失礼なやつだな、お前っ」史浩が笑いながら軽く、揺れる拓海の肩を叩くと、「あ、すみません……なんか意外で……」と、拓海は頭を下げた。

「で、サッカー部で、試合中にすっ転んでスパイクで踏まれたとか?」
「いえ、……先輩、殴っちゃって」
カラン、と、史浩は手にしていたコーヒーフレッシュを思わず落としてしまった。
「……大胆なヤツだな、お前」
「はぁ、」
スイッチが入ると人が変わったようになるのは、どうやら車に乗ったときだけではないらしい。拓海が人を殴る、という光景が、史浩にはいまひとつ想像できなかった。
「殴って、その傷か?」
「ええ、まぁ」
「……どんだけ本気で殴ったんだよ、お前」
史浩とて喧嘩の経験がないわけではないが、そんな傷を作った経験は流石にない。
「喧嘩慣れしてないヤツが殴ると、加減知らないからなぁ。それ、藤原に殴られた方も結構な怪我だっただろう?」
「そうですね……ま、悪いのはあっちなんですけど……」
「何だ、先輩だからって威張りまくっててプチンって切れたとかいうパターンか? 試合に負けて後輩に当り散らしたからカッとなって反撃、とか?」
「威張りまくったり当り散らしたりはいつもでしたけど、……その先輩、オレのことをレイプしようとしたんです」
「…………」
史浩の動きが止まった。
拓海は今、平然と、レイプ、と言った。

――今、何つった? こいつ、何て言った? レイプ? レイプって言ったか? 言ったよな? そう聞こえたよな?

史浩は己の聴覚を疑った。レイプ、と、確かに聞こえた。
「ヤな先輩だったんですよ。いっつも威張り散らしてて、練習もサボりまくりだし、サッカーは大して上手くないし――。挙句にオレが大人しいから、男でもいいから溜まってるからやらせろって、部活終わった後で呼び出されて、部室のベンチで、」
「あ……あ、そう……」
いつも聞き上手と言われる史浩が、上手く相槌を打つことが出来ないでいる。
一対一の雑談の中でするには、いきなりヘビー級な話だ。
確かに、穴があったら入れたい年頃ではある。個人の趣向にはとやかく言えないが、女性との縁がなさをこじらせて、そっちに走る人間だって、居なくはないだろう。押し倒されるサッカーのユニフォームを着た、今より若干あどけない顔の高校二年生の藤原拓海、という姿が史浩の脳裏をさっと過ぎったが、生憎そんな趣向のない史浩には、性的な何かを喚起することはなく、むしろ拓海の昔の古い心の傷を掘り起こして塩を塗りこむような事になり、申し訳ないという気持ちしかなかった。
「すまん、なんか……ヤなこと聞いちまったな……」
「いいですよ、別に。気にしてませんから」
しかし拓海の中ではもはや過去の話で、自分の中で整理が出来ているからなのか、あっけらかんとしている。
「それで腹立って、殴っちまって、コレなんですよ」
拓海は左手で、右手の甲の傷をぽんぽん、と叩いた。
「……えっと、しようとした、ってことは、未遂、か」
「んー……未遂ですかね、一応」
確かめるように尋ねると、ちょっとほっとするような答えが返ってきた。
なるほど、未遂だったから、こうして淡々と語れるのか。史浩は急速に上がっていた心拍数がまたゆっくりと落ち着き始めるのを感じた。

「ウチのオヤジよりセックスが下手くそだったんです。その先輩。だからむかついて、殴っちまったんです」



「…………」


フェラとかもう最低でしたよ。ウチのオヤジはすげーうまいんですけど。
アレ、上手い人に慣れちまうと、下手な人とは出来ないですよね。
ま、昔の話ですけど、と、拓海は呟いて、お代わりしてきます、と席を立った。



特大の爆弾を、史浩の頭に落として。

(終)





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