Be mine
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「……何してんだ」
上から降ってきたのは、聞き慣れた大好きな声。
顔を上げると、しゃがみ込んでいる草むらの青い匂いに混じって、煙草の匂いがした。
「お父さん」
涼介の大好きな人が、彼をのぞき込んで影を作っていた。
珍しく午後に遠出の配達があった。
隣町の焼き鳥屋だ。いつもなら夕方に従業員を使って商品を取りに来るのだが、今日は予約の大口団体客が5時からあるから取りに行く暇がない、だから届けてくれと連絡があった。
普段より多い商品を注文されれば喜んで行くまでで、文太は商品を積み込んだインプレッサを走らせた。
帰りは近道のつもりで、土手へと回った。すると河川敷の駐車場に、白いFCが停まっているのを見かけた。涼介のFCだ。こんなところにと思いながら河川敷沿いの土手を一キロほど走ると、涼介が河川敷の草むらにしゃがんでいた。
「……何してんだ」
別に放っておいても良かったのだ。涼介のプライベートだ。いちいち文太が首を突っ込まなくてはいけない理由はない。
が、何となく気になった。峠ならまだしも、こんなところにいる涼介ではない。だから文太は車を停めて、わざわざ降りて声を掛けた。
「お父さん」
草むらにしゃがんでいた”息子”は、嬉しそうに顔を上げた。
「散歩です」
立ち上がって、デニムの尻をぱたぱたとはたきながら涼介は言った。
「散歩?」
「はい。大学の授業で……生活習慣病の予防に関することなんですが、チームごとに一週間分の歩数を報告するっていう……」
ほら、と涼介がベルトに付いた小さな計器を指す。
「万歩計か」
「はい」
群大医学部No.23、と小さなシールが貼ってある。
「昨日の時点で、オレがチームで一番歩数が少なかったんです」
「そりゃそうだろ」
踝ほどの高さの草むらをしゃり、と踏みしめ、文太がふっと笑った。
万歩計の液晶画面は、決して多くはない数値を示していた。
「お前、車で学校に行ってるだろ」
「はい」
「それが原因だろ」
「……ええ」
涼介はきまり悪そうに頷いた。自分でも理由は分かっているのだ。
「で、散歩か」
「はい。どうせ歩くなら、景色のいいところがいいなって思ったんです」
涼介はにこり、笑った。
「……散歩なんざ、家の周り歩いてりゃいいだろ」
わざわざこんな遠くまで、と文太は呆れた。
涼介の車が停まっていた河川敷からここまで、一キロ程はあったが、家や大学から遠路はるばるガソリンを焚いてくることを考えれば、本末転倒と言うより他はない。歩くために車で来ているのだ。
「だから歩数が少ないんだよ、お前は」
いい若いモンが、と文太は笑った。
「……お父さんだって多くはないでしょう?」
涼介がむっとして反論する。
「残念だな、オレぁちょっと前に商工会の健診でソレつけて計ってんだ。結構歩いてるって結果が出たんだぜ?」
文太は勝ち誇ったように腕組みをした。
藤原豆腐店のある商店街は細長い、ゆるやかな坂道だ。昔ながらの商店街の面構えは車を憚る仕様だ。駐車場はあるが坂の下、行きかう観光客も多い。ちょっとやそっとで車を出していてはきりがない。遠くの配達はさすがに車を使うが、普段の大概のことは歩いて済ませている。
「……お父さんよりは歩いてると思ったんですけど」
ため息をついた涼介の手には、小さな草が握られていた。
「涼介、何持ってんだ」
「これですか? 四つ葉のクローバーです」
ほら、と涼介が差し出した。
「さっき偶然見つけたんです。四つ葉のクローバーって、見つけたら何かいいことがあるって言うでしょう、だからもっとないかなって……」
「んなモン、信じてんのか?」
文太はその細い目で、涼介を睨んだ。
低い声に僅かな怒りを感じ取り、涼介ははっとして、出した手を思わず引っ込め文太を見た。悪戯を見つかった子供の様にきまり悪かった。声だけではない。つい、と横を向いた文太の顔にも、怒りは確かに潜んでいるように見えた。
「……そういう……訳じゃないですけど……まぁ、ちょっとは」
しどろもどろになりながら、涼介は言い訳した。
医者の卵が非科学的なことを信じるのもどうかとは思うが、全く夢がないのも面白くはない、というのが涼介の考えだ。
四つ葉のクローバーを見つければ幸運が訪れるという言い伝えに、たとえ科学的な根拠が全くなくとも、悪い話ではないと思っている。
事実、群大病院に入院している患者が、病院の庭で四つ葉のクローバーを見つけて早く病気が治るかもしれないと喜んでいるのを何度か見たし、研修の時、それを患者への励ましの材料にしたことがある。
クローバーの言い伝えは、癒しの効果位はあるだろうと思っていた。
「捨てろよ、んなモン……いいことなんかあるわけねえだろ」
胸ポケットから出した煙草をくわえ、文太が吐き捨てるように怒りを重ねた。
「……お父さん?」
その怒りに、何か理由があるのではと思い、涼介はクローバーを握った手を後ろに回した。
「そんなに……怒らなくても……」
「怒っちゃいねえよ」
そうは言うものの、怒っているようにしか聞こえない。
文太はライターを出して火をつけようとし、「ここじゃ火事になるな」と呟いて引っ込めた。
火をつけそこねたタバコを咥えたまま、文太ははぁ、とため息をついた。
「昔逃げたかみさんがな……」
文太は涼介を見た。
「そうやって、よく四つ葉のクローバーを見つけてきてたんだ」
拓海には死んだと伝えてある、文太の妻。拓海の母親。
十何年か前に、あの家を鞄一つで出て行った女。
「オレにいいことがあるようにって、レースで勝てるようにって、よくこういうとこでクローバー探して、採ってきてたんだ」
けどいいことなんかなかった、と文太は苦笑した。
彼女のささやかな愛の努力は虚しく、ラリーストだった文太はピークの時期を迎える前に、早すぎる引退をした。
友人の死をきっかけに、畑違いの豆腐屋になった。
それまでの生活と全く違う暮らしに愛想を尽かしたのか、彼女は拓海を残し、文太の前から姿を消した。
そして文太は途方に暮れた。
生きる為に、拓海を大きくする為に懸命に働いて、捨てきれない夢の欠片としてハチロクを駆り、気づけば不惑の年を迎えていた。
そして涼介が現れた。
「オレは、」
涼介は手の中のクローバーをぎゅっと握った。
「……逃げませんよ」
お父さんの前からは、と、俯いて言った。
「ああ、……そうだな」
お前は逃げないだろうな、と文太も俯いた。
きっと、逃げないだろう。この押しかけ息子は――文太には分かっていた。
たとえ自分が涼介から逃げることはあっても、だ。
分かっていた。
逃げはしないと。けれど、あの女の様に涼介も逃げてしまったら、と考えてしまった――涼介が四葉のクローバーを差し出した時に。
厄介な、こんな”息子”など、逃げてしまえばいい筈なのに。鞄一つで明け方に出て行った、あの女の様に。
「それに、いいこと、ありました……」
涼介が顔を上げた。
「あ?」文太も続いた。
「だってオレ、今日お父さんと会えました……」
風が吹いた。涼介の、少し伸びた黒髪が靡いた。
「今日は会えないって思ってたんです」
「……」
「なのに会えたんです。だから、やっぱりいいことあるんですよ。四つ葉のクローバー」
そう言って微笑んだ、文太の”息子”の顔は、とてもとても――美しいものだった。
文太の心に、温かなものが流れ込んでくる。
「……ね? お父さん」
涼介の手の中のクローバーは、すでに萎れていた。
文太は暫し考えを巡らせ、涼介の言葉に何と答えるべきかを探った。
「涼介」
そして、その名を呼んだ。
「はい、」
「飯食ったか」
「いえ、まだです」
文太が腕時計を見た。午後二時、昼食には少し遅い時間だ。
「……さっき配達先で焼き鳥貰ったんだ。一緒に食うか」
結論として――誘った。さっき配達を済ませた焼き鳥屋で、無理を言って申し訳ないと、十本ほど焼きたてを貰っていた。
「はい」
涼介が手を伸ばし、文太の手を握った。
「じゃ、家に帰りましょう」
「……そうだな」
「あ、オレ車……」
涼介が思い出し、FCを停めた方向へと顔を向ける。
「ああ。送ってやる」
「……やっぱり、歩数増えませんね」
「だろ。だから家の周り歩いとけってんだ」
文太は涼介の手をほどき、行くぞ、と促した。
土手の上のインプレッサに向かって歩きだした文太を、涼介が追った。
二つの影が重なり、昼下がりの土手にインプレッサのエキゾーストが響く。
「あ、」
涼介が握っていた四つ葉のクローバーが、開け放したウインドウからの風に煽られ、車外へと飛んだ。
ささやかな幸せを齎し、役目を終えた四つ葉のクローバーは、風に乗ってどこかへと飛んでいった。
(終)
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