「……これはどういう基準なんだ」
前橋市内の繁華街にある居酒屋の前で、須藤京一は今夜の「メンバー」二人を前に、苦々しい顔で今の気持ちを言葉にした。
「さぁ?」
「わかんねぇな」
目の前の「メンバー」二人は、首を傾げた。恐らく京一と同じ気持ちなのだろう。
片方は、秋名スピードスターズのリーダー・池谷浩一郎。
もう一人は、妙義ナイトキッズのリーダー・中里毅。
この場にまだ到着していない、今夜の「飲み会」の主催は、赤城レッドサンズのリーダー兼プロジェクトDリーダー・高橋涼介。
栃木から遠路はるばるやってきたのは、エンペラーのリーダー・須藤京一。
接点があるようで無いメンツだ。群馬と栃木の名の知れた走り屋チームのリーダー4名といえば聞こえはいいが、飲み会をするほどの仲でもない。




記憶を辿れば昨夜遅く、いろは坂でチームの集まりを仕切っていた京一の携帯が鳴った。
相手は涼介で、「京一。お前暇だろう。明日飲み会をやるから来るように」と、誘いというには高圧的過ぎな5秒足らずの台詞。
京一が「オレは社会人だから忙しい」と抵抗するも虚しく、「オレだって忙しい。飲み会はお前を含めて4人丁度なんだ。居酒屋のコースが4人からだから一人でも欠けると困る」と、勝手に段取りをして押しつけてきた。
「他のヤツを誘え」と言えば、「いろいろ当たって最後にお前だ。ついでに奢ってやる」ととどめの一言。
決して懐が寂しかったわけではないが、そういわれれば断るのも悪い気がする。第一、京一にしてみれば初めてのことではない。
群大の飲み会に余所者の京一が一人、というアウェーを、涼介によってこれまで何度も経験させられていた。
誘い文句はその時々で様々だったが、やはり「人が足りなくて困っている」だの、「困っている人間を放っておくのか薄情者」だの、「男があと一人足りない」だの。
京一は見た目に反して人が良く押しに弱い。そういうところを涼介にしっかり看破され、利用されていた。
そもそも涼介以外、京一を無理にアウェーの飲み会に誘うような心臓を持った人間はこの世には居ないのだが。
軍人のような強面の京一が涼介の隣にドンと座っていて、なおかつ「こいつはオレの親友なんだ、二次会も三次会も一緒だぞ」と涼介が言うことは、ある意味リーサルウエポンだった。
高橋涼介といい仲になろう、隣に座って酔った振りをしてしなを作って……と密かなたくらみを胸にいそいそと飲み会にやってきた女たちは、涼介の隣に座る京一の存在感に計画を実行どころか何もいえなくて夏状態、酔った振りどころかろくな会話もできず、涼介のお零れに預かろうとやってきた男友達にテイクアウトされてくれる。
だから涼介の男友達は京一を密かに有り難がってくれているというオマケつき。
(今日もそのパターンか……)と解した京一は渋々了承し、仕事を少し早めに上がり、栃木からエボではなく仕事用のハイエースを飛ばしてここまで来たのだが。




「主催は」
腕組みをして京一が訊くと、中里が「まだ着いてない」と肩をすくめる。
池谷は池谷で(オレ絶対場違いだ……なんだこのメンバー……)と、奢ってやるという涼介の誘いに乗ったこと後悔していた。
「まぁアイツはいつもしんがりだ。先に来た試しがない」
京一のため息交じりの言葉に、中里が「須藤は高橋涼介と飲んだことがあるのか?」と素直な疑問を口にした。
「ああ……不本意ながら、何度かな」
思い出しても居心地の悪い飲み会ばかりだった。完全アウェーの飲み会は酒の味も半減する。
怨みもない女たちに睨みをきかせるのは良心が痛むし、涼介の男友達から感謝を込めて裏で須藤のアニキ呼ばわりされるのも不本意だった。
「で? 今夜の店はここか?」
中里と池谷の後ろにある店を見上げる。
最近オープンしたばかりらしく、「開店記念」の幟がはためいている。
居酒屋といいながら、やたらオシャレだ。
女性客を意識しているらしく、店の前のボードにはかわいらしい字で「本日はガールズデー! 女性グループは10%OFF!」の広告が。その下にはおすすめメニューとして、ナントカカントカのナポリ風だの、カクテルだの、スイーツ強化月間だの。
窓から店内の様子を伺うと、見事に女性だらけ。どこぞの女子大の学食をそのまま持ってきたような雰囲気だ。
「……ここって、さ……女の子向けじゃ……ないかな……」
池谷が恐る恐る、言った。
中里がうなずく。
「ああ……だろうな……」
「ここに野郎四人……」
三人は思わず顔を見合わせ――池谷と中里の視線が、京一に。
「……」
「……」
「……」
(オレが一番場違いだって言いたいんだろうが……)
二人の視線の意味を悟った京一は、忌々しげに足下を見た。



その時、「遅れてすまないな」と、本日の主催兼元凶の声がした。
振り返ると、満面の笑みをたたえた涼介が、重そうな鞄を手に立っていた。



店に入るなり、居並ぶ女性客たちの視線が一気に四人にそそがれた。
女性向けの店に男四人というだけでも目立つのに、涼介の美貌と、京一の体格と強面がその主な原因だ。
しかしそんな視線に慣れている涼介は名前の通り涼しい顔で、「予約していた高橋です」と何でもございませんという風だ。
京一への視線は涼介へのそれとは別の意味だ。京一的にも今更ジローなことなので、「またか」位にしか思ってはいない。怖がられるのは今に始まったことではない。
「それではご案内しまーす♪」
案内する店員までアニメ声のかわいらしい女性で、BGMも演歌ではなく女性シンガーの曲ばかりという念の入れよう。
小柄な女性店員の後を四人がそぞろ歩きながら、池谷が中里にこっそり耳打ちした。
「……なんか……視線が痛いよな……」
「……原因はあの二人だな……」
中里が同意し、顎で前にいる涼介と京一を示した。
芸能人並の容姿の涼介は店内の女性客のほとんどの目をハートにし、京一はごく一部マッチョ好き女性の目をハートに、後の女性客を怖がらせた。
後ろを歩く池谷と中里は「あなたたちは前の二人とどういう仲なの??」と彼女たちを混乱させた。
個室に通されると、涼介があらかじめ注文してあった、4名からというコース料理の何品かが既にテーブルに並んでいた。
「おっ、すっげー美味そう!」
「へぇ。期待できそうだな」
個室に入った瞬間、視線は過去のもの。池谷と中里の顔が綻んだ。
「お前にしちゃいいチョイスだな」
涼介の隣に座った京一が横目をくれた。
「だろう?」
涼介は当たり前だ、という顔をした。



「飲み物はどうする?」
お絞りで手を拭きながら涼介が訊くと、中里と池谷は「明日仕事だし車で来ているから飲まない」と二人して烏龍茶を頼んだ。
京一も同様で、しかも彼の場合は栃木から遠路遙々だ。
「オレも烏龍茶」とオーダーをしたのだが。
((須藤って烏龍茶にあわねー……))
心の中で池谷と中里が同時に突っ込んだ。
二人的に京一は、ハブ酒のハブを音を立てながら喰うようなイメージだ。
「お前に烏龍茶は似合わないな、京一」
それをさらりと涼介が口にし、京一はふん、と鼻を鳴らす。
「じゃ、オレは生中」
主催の涼介だけがアルコールを頼んだ。
「涼介、お前今日はFCじゃないのか?」
隣に座った京一が驚いた。
今まで飲み会に同席した何回か、涼介はアルコールを口にすることはほとんどなかったからだ。
あっても本当に口をつけただけで隣の友人に押し付けていた位だ。
涼介は「FCは置いてきた。今日は飲むつもりで、大学の友人に乗せてきてもらったんだ」と最初から飲むつもりだったことを明かした。
「……珍しいな。お前が飲むなんて」京一が目をぱちくりさせた。
アルコールを飲むと酔いを醒ます時間が必要で、それが無駄な時間だから飲まない、と涼介は言っていた。
「まぁな。ちょっと」
含みを残した言い方だ。
涼介はアルコールメニューを手にし、「焼酎もいいな。冷酒も試してみようか。黒ビールもいいかな」と早くも次の飲み物を選んでいる。
今夜は色々飲むつもりのようだ。
「みんなも飲めばいいのに。代行でもタクシーでもチケットくらい出すぜ?」
(どこの会社だ……)
涼介のチケット発言に京一が内心突っ込んだ。
「いや、そこまでしてもらうのも悪いし……オレ明日早番だし」涼介の好意は有り難かったが、池谷は恐縮して辞退した。
「早番て、何時からだ?」中里が訊く。
「6時だよ」
「はえーなぁ。あのガソスタだろ?」
「ああ。うちは7時から開店するからな。開店準備には一時間は掛かるし……そういう中里は?」
「ああ。オレは明日は5時起き」
「オレと変わらないじゃないか。仕事、ナニしてるんだ」
「農家だよ。農家の長男。この時期農繁期だから朝早いんだよ」
「へぇー」
「出荷する時間てのが何時までって決まってるからな」
涼介と京一の向かいで隣り合わせに座った中里と池谷は、知らずに意気投合……もとい、この「主旨とメンバーの人選がよくわからない飲み会」での仲間を見つけたようである。
「……須藤は? 明日は早いのか?」
池谷が京一に振った。というより、「振らないとまずいかな」という感じで無理に振ったようなものだ。
「7時起きで間に合うが」
「仕事、何してるんだ」
「親の自営の手伝い」
「へぇ……」
だから会社のハイエースで仕事場から直に乗りつけることができたのだが。



飲み物が来て、とりあえず乾杯をした。一体何に乾杯なのかは不明だ。
「――涼介。結局、今日の集まりは何なんだ」
やたらかわいらしい器に盛られたよくわからないオードブル的な何かをピンク色の箸で摘みながら、京一が横目で涼介に問うた。
「別に……飲もうと思って、思い当たる人間に片っ端から声をかけたらこうなった。そんなところだ」
「何だそりゃ……」
京一は肩を落とした。 そんな涼介の思いつきにつきあわされ、早上がりをしてまで栃木から駆けつけたのだ。
今に始まったことではないのだが、毎回、京一は涼介には弱い。
水と油くらいタイプは違うのに、なぜだか断ることはできなかった。
「まぁ、実のところオレとしては一度池谷や中里と一緒に飲みたかったんだ。同じ群馬エリアのチームのリーダー同士だからな」
美貌の涼介がにっこりと笑みを浮かべた。
「そりゃ確かにチームのリーダーだけど……オレなんか別に大したことないし……むしろ、アンタには拓海がいつも世話になってるからお礼を言わないとって思ってるくらいで……いやほんと、拓海がいつも世話になってます」
池谷が箸を置き、涼介に深々と頭を下げた。
「池谷、そんなに恐縮しないでくれ。藤原がいるからプロDも上手くいってるんだ」
頭上げろよ、と涼介が苦笑した。現在プロDは全勝中だ。
「池谷、お前ハチロクのアニキかよ!」中里が笑い、肘で池谷の脇をつついた。
「だって拓海は後輩だし……ガソスタの仕事もオレがマンツーマンでイチから教えたからな。オレにとっちゃ弟みたいなもんだよ」
口を尖らせる池谷に、中里が「お兄ちゃーん♪」とふざけて絡み、「暑苦しい!」と池谷が引き剥がす。
「あ、そういやお前には慎吾が世話になったな! 池谷、あの時はありがとう!」
思い出したように手を叩き、今度は中里が箸を置いて池谷に頭を下げる。
「いや、アレは別に……」
「ウチの慎吾はあの通りだからな、あん時ゃホント、迷惑もかけちまったし!」
「いいんだってもう、終わった話だろ」
「いや、でも」
「いいんだって!」
涼介はそんな二人のやり取りを、グラスを片手に笑みを浮かべて満足そうに見ていた。
(何だその三文芝居は……)
今日も女がいないだけでアウェーはやっぱりアウェーだな……と、京一は薄い烏龍茶を飲みながらため息をついた。
「高橋。啓介は? 今日はアイツは誘わなかったのか」
中里が訊ねた。
二言目にはアニキアニキの啓介を誘えば一番手っ取り早かろうに、何ゆえこのメンバーに収まったのか。
「ああ、啓介は大学の飲み会で断られたよ。アイツはオレより社交的だからな。あちこちの飲み会に引っ張り回されてるさ。アイツがいると、女の子の集まりがいいらしいんだ」
「だろうな。オレ前に啓介と一緒に飲んだけど、凄かったぜー。あのツラで女の子に優しいし、あしらいも上手いし」
ハーレムかと思ったぜ、と中里が苦笑いした。
(涼介とは真逆だな……)
自分を防波堤に女の子を断固拒否する涼介と、女の子に優しい啓介。
京一は内心、(どうしてこの兄弟は足して二で割れないのか)と思った。
「中里、お前高橋啓介と飲んだのか?」
意外な組み合わせに、池谷が食いついた。
「何回かな。オレの高校時代のツレが啓介と同じ大学で学部も一緒。ツレのツレってやつさ」
「ああ」
「あの外報部長の人は?」
運ばれてきたクリームコロッケを率先して小皿にとりわけながら、中里は今度は史浩を思い浮かべて訊いた。よく一緒にいるし、峠でも数少ない、涼介を呼び捨てに出来る人物だ。
「史浩はストレスで胃に穴が空いてな。今自宅療養中なんだ」
「ぶっ……!」
京一が烏龍茶を吹き出しかけた。ゲホゲホとむせ返り、お絞りで口を拭った。
「汚いな京一っ」
「すま……げほ……っ」
(絶対お前のせいだろうそれはっ!!)
京一は謝りながらも心の中で叫んだ。
人の良さそうな顔をしたあの外報部長の顔が京一の頭に浮かんだ。
こんな涼介の相手を始終していては、そりゃあ胃に穴も開くだろうというものだ。



料理は次々と運ばれてきた。
味はなかなかだった。女性向けの店ということで、皿がやたら可愛らしかったり、量が少し少なめだったり、メニューの名前がいちいち長ったらしかったりはしたが、この価格帯なら満足の味だ。
最初こそぎこちなかったものの、涼介はどんどんアルコールを頼み、杯を重ねるごとに饒舌になり、中里と池谷はすっかり意気投合し、京一はやはりアウェーで貝になった。


「「……あーあ」」
二時間後、ほとんど空になった皿とグラス。そして個室の隅で静かな寝息をたてている主催を目に、中里と池谷がハモった。
涼介は一人やたらテンションが高く、大学やプロDの話などを中心に饒舌で――料理が美味しかったからだ――、飲まない三人を後目にハイペースでアルコールをチャンポンし、デザート……こういう場所ではスイーツというべきか……を散々頼み、中里と池谷の掛け合いに笑い転げ、終には酔いつぶれてしまった。
「あんだけチャンポンしたら、そりゃ潰れるだろう普通は」
空になったワインボトルを振り、京一はあきれた。
涼介がアルコールを口にするのも珍しかったが、こんな後先を考えない飲み方をするとは思わなかった。驚きを通り越したあきれだった。
あのテンションの高さも珍しかった。涼介は無駄なアルコールを口にせず静かに黙々と食べるものを食べる人間だと思っていたのだが。
「高橋涼介って……結構テンション高いんだな……すっげー笑ってたし」
池谷が呟いた。
「だな。いつもクールであんまり笑わないイメージがあったんだが」
中里が同意した。峠での涼介はそうだったからだ。
「……オレは何度か涼介と飲み会に行ったが……涼介が酒を口にしたのも、あんだけ笑い転げたのも初めてなんだが……」
京一の言葉に、中里と池谷が顔を見合わせた。



(……涼介のヤツ、変わったな……何かあったのか?)
背中を向けて爆睡中の涼介を見、京一は心に引っかかるものを覚えた。




「そろそろお開きにするか」
京一が切り出した。料理は全て出揃い、皿もグラスも全て空になった。
明日の現場のことを考えると、帰路につきたい時間だ。
「だな」
「ああ」
中里と池谷の同意を得、京一は膝で涼介のところまで歩いた。
「おい涼介。もう終わるぞ、起きろ」
寝ている涼介の肩をでかい手で揺さぶると、涼介はうっとおしそうに片目を開き、「ん……これ」とジャケットのポケットから財布を取り出して京一に渡した。
「……払っといてくれ……きょーいち……」
現金で、と掠れた声で言い、京一が財布を受け取るとまた目を閉じた。
「ったく……」
受け取った京一は面倒臭そうに舌打ちしたが、財布の重さと分厚さに「ん?」となった。
開いて絶句した。
「……」
金はある所にはある、と言うべきか……学生の癖に、涼介の財布には切れるような万札が入っていた。それも、結構な枚数。
カード入れには家族カードだろうが、クレジットカードが何枚も。そして京一に財布を渡したその腕には高価な腕時計が。
(……金持ちってヤツは……)
ちっと舌打ちし、「中里。勘定呼べ」と、その腹の立つ中身の財布を掲げた。
「いいけど……高橋涼介をどうやって帰すんだ。タクシーでも呼ぶか?」 「あ……」
確かにそうだ。支払いを済ませたとして、その後だ。
このへべれけをどうにかして家に帰さなくてはいけない。
「タクシーに乗せるのは簡単だが、こんな調子じゃ玄関入る前に寝ちまうんじゃないのか?」
中里の意見は尤もだ。
涼介の家は両親が医者で忙しく、ほとんど家にはいないとさっき言っていた。通いの家政婦もいるらしいが、流石にこんな時間にはいないだろう。
帰宅しても介抱するものが不在では困る。
こんな状態では一人タクシーに乗せても、家に到着して玄関の前で寝入るのがオチだろう。
かといって、タクシーの後を追走して介抱してやる時間も惜しい。
というより……この中の誰も、涼介の家を知らないのだ。タクシーに乗せるにしても追走するにしても送っていくにしても、大前提が崩れている。
「ちょっと啓介呼んでみる。ケータイ知ってんだ」
中里が思い出したように携帯を取り出し、啓介の番号を探してシェルを耳に当てた。
数コールして啓介が出たが、『何だよ〜〜! 中里かよぉ〜〜! ひっさしぶりじゃーん♪ うひょー!』と電話口の向うで啓介はすっかり出来上がっていた。カラオケらしき音もする。



「……駄目だ。アニキよりタチ悪い」
ばちんとシェルを畳み、中里はため息とともに首を横に振った。
(兄弟揃って……)
使えないヤツラだ、と京一は内心毒づいた。
「じゃあオレが拓海に電話してみる」
今度は池谷が携帯を取り出した。
「拓海って……藤原か?」
「ああ。アイツなら高橋涼介の家に行ったことがあるらしいから家の場所も知ってるだろうし。もし駄目でもプロDとかレッドサンズの人間に連絡とってくれるかもしれない」
「成る程な」
「えーっと、拓海拓海……と」
池谷は拓海の携帯番号を探した。




「はい。藤原……あ、池谷先輩。お久しぶりです」
居間で新聞を読んでいた文太の傍で、テレビを見ていた拓海が携帯を耳に当てた。
(池谷……祐一のとこのアイツか)
文太は拓海の声をぼんやりと聞きながら、新聞の三面記事を目で辿った。
拓海はへぇ、そうなんですかぁ、だの、ふぅんだの、相槌を打ってばかりだ。
「はい……わかりました。ええ。コンビニの前ですね、はい……」
シェルを畳むと、「ふぅん」と拓海が小さくため息をついた。
「出かけんのか」
文太が訊いた。コンビニの前、という言葉が聞こえたからだ。
「オヤジ」
「なんだよ」
「涼介さんが酔いつぶれてるんだって」
「……あ?」
涼介という名前に、文太は顔を上げた。
「前橋の、沖田整形の裏のコンビニの前でいるって。池谷先輩から」
「……池谷と飲んでんのか?」
「池谷先輩と他にも何人かいるみたいだけどよくわかんない。何の飲み会だか」
「ふぅん……」
不思議な取り合わせだな、と二人して首を傾げた。
「オヤジ、迎えに行ってくんね?」
「……なんでオレなんだよ?」
「オヤジが適役じゃね?」 拓海はいつものボーっとした顔に若干の冷ややかさを込めていた。
「それにオレ今から出かけるもん」
「出るんならついでに涼介拾って来いよ。どっち方面だ」
「同じ前橋だけどやだよ。へべれけ二人もハチロクに乗せたくねーし」
「へべれけ二人って……お前も誰か酔っ払い迎えに行くのか」
「うん友達。さっきメール来たから。涼介さんなら、オレよりオヤジが行ったほうが喜ぶだろ」
意味深な言葉を残し、じゃあお先に、と拓海はさっさと立ち上がって上着を羽織った。 階段に置いてあったハチロクの鍵を手に、朝までには帰ってくるからな、と出て行ってしまった。
「…………反抗期かアイツは……」
ハチロクのエンジン音が聞こえる。文太は遅すぎる息子の反抗期に、ため息をついた。
最近の拓海は可愛げが全くない上、やけに反抗的だ。当の文太は思い当たる節がありありなので、あまり強くは言えない。
「っつか……涼介が酔いつぶれてるだと?」
新聞を畳みながら、拓海の言葉を反芻した。
その、拓海の可愛げのなさと反抗の原因である涼介が、酔いつぶれているという。
(アイツ酒なんか飲めたか?)
文太と一緒にいるとき、涼介が酒を飲んだことはなかった。
飲めないクチではないが飲まないのだと言ってはいたが。
(涼介が酔いつぶれる……珍しいこともあるな……)
涼介は自棄酒をするような性格ではない。飲まされるような断りベタでもないだろう。
飲んだ理由を考えてみたが、答えは出ない。
「ったく、手間掛けさせやがって……あの馬鹿が」
少々面倒臭いが、自分が行かなければ涼介は家には帰れないだろう。
勢いをつけて文太は立ち上がると、ちゃぶ台の上のインプのキーを掴んだ。
「あの馬鹿」と呼んだ、涼介の為に。



「……拓海が迎えに来てくれるみたいだ」
「そうか」
池谷がシェルを畳んだ。京一はほっとした。
拓海と文太の事情など知らぬ池谷は、拓海が迎えに来ると思ったようだ。
いや、あの電話の会話だけなら、池谷でなくともそうとしか取れないのだが。



会計を済ませ、店を出た。――出る時に、四人はまた視線を浴びた。


池谷と拓海が約束したコンビニまで、京一が涼介を背負っていくことになった。
上背もある涼介を背負うのに、京一は適任だ。
「じゃあ、オレはこれで」
酒臭い涼介を背負って、その上涼介のやたら重たい鞄――中身は医学書の類がぎっしり詰まっていた――を持ち、京一は中里と池谷に軽く会釈した。もしも拓海と会えなかった時の為にと、京一と池谷は携帯番号を交わした。
池谷と中里は、この後近くのカラオケで少し歌って帰るという。
須藤もどうだと誘われたが、生憎そういう場所は好きではない京一は、涼介を拓海に渡したらとっとと帰るからと断った。
「じゃあお疲れ、須藤」
「気ぃつけろよー」
「ああ……」
手を振る二人の声を背に、京一は背中の涼介と共に繁華街の終り辺りにあるコンビニへ向かう。
ようやく今日の飲み会は「お開き」になった。
涼介が眠っているせいでたびたび立ち止まっては負い直さなくてはならず、手にした鞄は底重たい。
どちらにも腹が立つ。しかもすれ違う人が物珍しそうに京一を見るものだから、不平の一言も出てしまう。
「……ったく……こんなになるまで飲むな」
背中の男に愚痴ってみるが、寝息が返ってくるだけで謝罪の言葉は期待できない。
(しかし……今日の涼介はどうしたんだ一体……)
今夜の涼介は、京一の知る彼とは違っていた。
やけに機嫌が良かった。
よく笑っていた。酒を、後先も考えずに――としか言いようのないペースで飲み、今はこうして人前で酔いつぶれて負われるという醜態をさらしている。
峠で、自分の意見こそが絶対だと持論を展開している時の涼介とは違う。FCを操る時の、冷静で攻撃的な涼介とは違っていた。
峠のカリスマ、赤城の白い彗星の知られざる一面を垣間見た気がし、京一は何とも言えない気持ちになった。こんな面を隠していたのか、とは思わなかった。こんな風になってしまったのか――と思った。
「ガキか、まったく」



「……ガキじゃない……」
背中から低い返事が返ってきた。
「起きたか」
閉店後のブティック前を通り過ぎながら、ちらりとショーウインドウに目をやれば、ガラスに映った背中の男は起きていた。
「池谷と……中里は……?」
「アイツらはカラオケだとよ」
「ふぅん……」
「ハチロクが迎えに来るらしい。そこの先で待ち合わせてんだ。家まで送ってもらえ」
「ふじわらかぁ……」
ふぁ、と欠伸混じりの眠そうな声。猫の様に、顔を京一の背中にこすり付けてくる。
「涼介」
「何……」
「今日は一体どうしたっていうんだ。お前、あんな風に酒飲んだりする奴じゃないだろう」
二人の脇を原付が通り過ぎた。
繁華街の、少し寂しい場所に差し掛かった。
涼介は京一の背中で、眠い目を何とか開けていた。
「……今日は……あの店に……どうしても行きたかった……」
「ふぅん」
「一緒に行くのは……誰でもよかった……」
涼介は呟くように、今日の種明かしをした。
誰でもよかったと言われるとあまりいい気はしない。
京一は少しかちんときたが、この男相手にいちいち腹を立てていたらあのロードスター乗りの外報部長の二の舞三の舞だ。
「まぁ確かに結構旨かったがな。だが、どうしてもってほどか?」
わざわざ人を集めて、奢ってやってまで行くほどの店かと言われると少し疑問だ。あの価格帯なら旨い店には違いないが。
「あの店に……一緒に行きたい人がいるんだ……」
二人は営業を終えたクレープ屋の前にさしかかった。
明かりを消したショーケースのサンプルが視界の左から右へと流れていき、涼介は「一緒に行きたい人」を思い浮かべた。
それは涼介の大好きな人だった。
昨日、その人はここではないクレープ屋で、涼介のおねだりに負けて、キャラメルバナナクレープを面倒くさそうな顔をしながら買ってくれた。
自分はブラックのカップコーヒーを飲み、「そんな甘いものよく食えるな」と、涼介の口端についたクリームを指で掬ってくれた。
「ふぅん……」
「その人を連れていって……もしまずかったら……がっかりさせせてしまうだろう……だから下見、しときたかったんだ……」
少し前、その人と涼介は渋川の駅前にオープンしたばかりの居酒屋に行った。
が、期待したほど美味しくなかった。いまいちだったな、とその人は肩を竦め、帰りに家の近くのラーメン屋で口直しをした。
無理を言って誘ったのにがっかりさせてしまったことを、涼介はとても気にしていた。次は下見をちゃんとしておこう――そう思い、今日のこととなった。
「ほぉ。お前がそこまで入れ込むとは……相当な相手だな」
「ああ……」
「そんなに大事な人か」
涼介が、わざわざ人を巻き込んで下見をしてまで食事に誘いたい「女」は、いったいどんな女なのか――あの店の雰囲気と、涼介の話と、世間一般の常識とから京一はその相手を「女」だと判断した。京一でなくとも、普通はそうだろうが。



「……世界で一番、大事だぜ」



背中の男は、そんなこっぱずかしくなる台詞を、眠たそうな口調で言った。
「そ、そうか……」
その台詞に、聞いた京一の方が思わず赤面してしまった。



「……世界で一番、大好きだ……」



涼介はもう一度、こっぱずかしくなる台詞を言うと目を閉じた。
その人……文太とは違うタバコの匂いが、背負ってくれている京一から漂ってくる。文太とは違う体温を感じた。
(お父さん……)
今頃、文太は何をしているだろうか。
明日の豆腐の仕込みをしている頃だろうか、池谷が働くガソリンスタンドで昔なじみの店長と話し込んでいるだろうか、それとも政志の工場だろうか――と思いを馳せた。


(……どこの恋愛ドラマだ)
世界で一番大事だとか大好きだとか。
そんな台詞を、酒が入っているとは言え臆面もなく口にする涼介に、京一は呆れた。
(ああなるほど……目当ての女がいるから飲み会でオレを防波堤にしてたのか……)
そう考えれば、これまでの防波堤扱いも納得できた。
いや、納得してはいけないのだが。いいように使われた事実には変わりないのだ。 (待てよ……この勢いでいろいろ聞き出すのも手だな)
酔った勢いで何でもしゃべってしまう類の人間がいる。自分は違うが、清次がそのタイプだ。エンペラーにも何人かいる。涼介も恐らくその類に入るだろう。でなければ、あんな恥ずかしい台詞を口にはしないはずだ。
涼介の赤裸々な恋愛話を酔いに任せて吐かせておけば、又後でいいように使われそうになったときに切り札にできるかもしれない。
「で。相手は……年上か?」
まずは軽いジャブから。
「ああ……」
これはあっさりと吐いた。
(なるほどな。年上の女なら色々旨いものは知っているからな……下手な店には連れていけないな)
年上の女、と考えれば今日の店のことは納得できた。
「遠距離か」
「……そんなに遠くもない……」
「なんて呼んでもらってるんだ」
「……涼介」
「フツーだな……おまえは、なんて呼んでるんだ」
これで、相手の名前も聞き出せる。車関係なら知っている女かもしれない、と京一は淡い期待をした。
「オレは……」
お父さん、とその口が形を作ろうとした寸前……涼介は再び眠りに落ちた。



涼介を背負ってコンビニへ向かう京一を見送りながら、中里はしみじみといった感じで「それにしても」と切り出した。
「高橋涼介があんなに酔いつぶれるところなんて、滅多に見られるもんじゃないだろうな」
貴重な体験かも、と笑った。池谷も「だな」と同意した。
人には決して隙を見せない、高橋涼介はそんなイメージが強かった。
「……実は、さっき話題にしそびれたんだけどな」
池谷が、急に声を潜めた。
「ああ?」
「高橋涼介、最近拓海んちの豆腐屋でバイトしてんだよ……」
「……バイト? 藤原ンちで?」
中里がその大きな目をさらに大きく見開いて驚いた。
「バイトって……なんでまた。アイツがバイトって」
「バイトってのは名目だけで、本当はバイトじゃないって思うんだ」
謎かけのような池谷の言い方に、中里は首を傾げた。
本当はさっきの飲み会で、そのことを俎上に乗せたかった。が、何となく話題にするタイミングを逃した。それに今夜は飲み会という場で一時的に仲良くしていても、京一は他県のチームリーダー。涼介にとってはライバルだ。話題にするのは少し躊躇われた。
ジャケットのポケットに両手を突っ込み、池谷は最近知った「知られざる高橋涼介」のもう一つの顔を、今夜意気投合した中里には同じ群馬エリアのチームリーダーだし教えてやってもいいだろう……と思った。
「拓海んちの豆腐屋はオヤジさんがやってんだけど、多分プロDのことを相談に行ってるんじゃないかな、って思うんだ」
「相談? プロDのことを? どうしてだ」
首を傾げた中里には、あの高橋啓介が豆腐屋でバイトという構図がいまいちビジョンとして想像できないようだ。それに、拓海の父親に相談という理由も判らない。
「拓海のオヤジさんてのが凄ぇ人なんだよ。……なにせ、拓海が今でもクルマで勝てないっていう位だからな」
「マジでか? あのハチロクが勝てないって?!」
中里が素っ頓狂な驚きの声を上げた。通行人が二人に振り返った。
「今はただの豆腐屋のオヤジだけどな。昔は自他共に認める秋名最速の有名な走り屋で、プロのラリーストやってた時期もあったらしいんだ。オレの勤め先のガソスタの店長が昔の仲間で、いろいろ教えてくれたんだ。
そもそもあのハチロクは元々拓海のオヤジさんのクルマだ。オヤジさんが長い間かけて手を入れて、あそこまでの化け物みたいなマシンに育て上げたからな……アイツ、プロDに入るまではクルマのことよく分かってなかったんだぜ?」
池谷はしみじみと、拓海の高校時代を思い出す。
家にあるクルマがハチロクとも気づかず、ランエボって何ですか? FRって何ですか? FFってファイナルファンタジー? と聞いてイツキにヘッドロックをかまされていた頃だ。
拓海の駆るハチロクは、今でこそプロDで専任のメカニックが付き、高橋涼介の指示であれこれチューンアップを施されているが、それまでは文太が手を入れていた。
グループAのエンジンを手に入れてハチロクに積み込んだのも文太の判断だし、入手困難なそれを手に入れたのは、ひとえに彼の人脈がなせる技だ。
「お前が秋名の下りで拓海に負けた時は、拓海のオヤジさんがハチロクに手を入れてた頃だし、対32にってセッティング変えたのも当然拓海のオヤジさんだぜ?」
「マジかよ……!」
中里の目はぱちくりと見開かれ、口はあんぐりと開けられた。
確かにあのハチロクには「藤原豆腐店」のロゴが入っている。家の車だろうとは思ってはいたが、まさか父親がセッティングをしていたとは。
「……なるほど。で、藤原はそのオヤジさんから運転をたたき込まれたってわけか」
「たたき込まれたっつーか、豆腐の配達を無理矢理手伝わされて中坊の頃から無免させられてたっていうか。アドバイス程度で手取り足取り教えられはしなかったらしいけど、そのアドバイスがすげえ的確だったんだろうな」
「……へぇー。確かに凄ぇ人だな……」
「ああ、オレらの憧れだよ」
池谷はふっ、と笑みを作った。
「そんなすげえ人がチームメンバーの父親にいたら、高橋涼介がプロDのことで相談に行ってもおかしくはないだろ?」
「そりゃ、オレが高橋なら相談するな」
「だろ」
そろそろ行こうか、と池谷が促した。中里は頷き、次の場所のカラオケボックスへと歩きだした。
「で、その藤原のオヤジさんとこに高橋涼介がバイトって名目で通ってるのか」
「ああ。こないだ拓海んち行ったら店番してたぜ」
「……高橋涼介が?」
「そう」
「……」
「伊香保の温泉街の寂れた豆腐屋に高橋涼介。……これが以外と馴染んでたぜ」
池谷は肩をすくめた。
一月ほど前、前から頼まれていたクルマ雑誌のバックナンバーを拓海に渡そうと池谷が藤原豆腐店を訪れると、涼介が店番をしていた。
涼介は勝手知ったる我が家のように豆腐屋で振る舞っていた。
モデルか芸能人のような美貌の涼介と、寂れた豆腐屋の組み合わせは……意外にも、マッチしていた。
糊の利いたワイシャツにスラックスにゴムサンダルという変な格好で、近所のおばちゃんと世間話をしていた。
「たまにウチのスタンドに二人してガス入れに来るんだぜ。今は拓海のオヤジさん、ハチロクは拓海にやっちまって、インプ買って乗ってんだけどな……」
「へぇ……インプかぁ」
そもそも池谷が藤原豆腐店に涼介が来ていることを知ったのは、文太と涼介が祐一のスタンドにインプの給油に来た のがきっかけだ。なんで高橋涼介、と祐一が文太に聞くと、文太はにべもなく「バイト」とだけ言った。
「高橋涼介は藤原のオヤジさんをお父さんなんて呼んでるし。ありゃだいぶ慕ってるって感じだぜ」
「……お父さん、ねぇ……」
「ああ」
池谷は、時々給油に来る二人を思いだした。
洗車の間、並んで座ってカップコーヒーを飲んだり、文太が何か言うと涼介がおかしそうに笑ったりしている。
「ま、プロDのことで相談っていうのはオレらの想像だけどな、あくまでも」
「あー。でも当たってるんじゃないか? 多分そうだろう。元プロがブレーンにでもいないと、色々厳しいだろ」
「だろ? やっぱりそう思うよな? ……拓海は高橋涼介が家に来るのは、なんかあんまり嬉しそうじゃないみたいだけどなー」
「……ふぅん」
二人には想像もつかなかった。
その寂れた豆腐屋での文太と涼介の「関係」を。そしてそれを拓海が知ってしまっていることも。




「涼介?」 京一が呼んだが、背中からは返事ではなく、また寝息が聞こえてきた。
(寝ちまったか、使えねぇな……)
惜しいことをしたな、と思った。



繁華街のアーケードを抜け、少し歩くと待ち合わせ場所のコンビニがあった。
駐車場はないが、店の前の歩道が広く、二台くらいなら縦列で路駐できる。
京一が着くと、ハチロクではない車が一台停まっていて、運転者がちょうど降りたところだった。
青いインプレッサで、少しいじっているように見えた。
降りたのは目の細い中年男だ。
(WRXか……)
京一はあたりを見回し、ハチロクを探した。路駐をはばかって近くのコインパーキングに停まっているのかもしれないと思い、斜め前のコインパーキングにも目をやった。
しかしそれらしき車は見えず、ハチロクのエキゾーストも聞こえない。



(……涼介じゃねえか)
コンビニ前でインプから降りた文太は、てっきり池谷と一緒にいると思っていた涼介が、知らない男に背負われているのを目にし、眉間に皺を寄せた。
池谷は、と辺りを見回して探したが、いない。
(なんだあの兄ちゃん……)


「おい、兄ちゃん」
後ろから掛けられた声に、京一が振り返った。
「……はい」
そこにいたのは、インプから降りた中年の男……もとい、「どこにでもいそうな普通のオッサン」だった。
サンダルばきでジーパンにTシャツ、くわえタバコの目の細い――文太だ。
「アンタが背負ってる奴、迎えにきたんだがな」
紫煙を吐き出すと文太は面倒くさそうに頭をかいた。
「……こいつ、ですか?」
京一は背中の涼介をちらっと見、また文太へ視線を戻した。
「ああ、そうだ。そいつ、下ろしてくれ。連れて帰るからよ」
指に挟んだタバコでそいつ呼ばわりした涼介を指し、「ったく世話の焼ける」と舌打ちした。
(……なんだこのオッサン……)
拓海が来ると思っている京一には、いきなり現れた面識のない文太が何者なのかわかるはずもないし、ましてや「涼介を迎えに来た」といわれても、にわかに信じられるものではない。
(涼介のオヤジ……じゃないな……)
いつだったか親戚が入院し、高橋クリニックに見舞いに行ったことがある。その際、院長である涼介の父を見た。涼介と啓介を足して30ほど年を取らせて、白髪にして横に引き延ばしたような感じだったはずだ。
(じゃあ何だ? レッドサンズの連中な訳がない。大学の……もっと違うな)
涼介の交友関係を全て知っているわけではないが、涼介を数年来知る人間として、この「どこにでも居そうなオッサン」と涼介に接点があるとは、京一にはとても思えなかった。
(高橋家の使用人か? それにしては態度がでかいな…………まさか……)
京一ははっとした。頭の中で仮説を立てた。
さっき居酒屋の支払いの時に見た、涼介の腹が立つような財布の中身。首に回されている手に巻かれている高級な腕時計。
「カネを持ってそうな大学生狩り」。おやじ狩りの逆バージョンだ。



(この兄ちゃん……どこの世紀末救世主だ。黒王号にでも乗ってそうだな)
一方の文太は、池谷達と居ると思っていた涼介が、どこぞの戦場帰りかはたまた某世紀末救世主伝説にでも出ていそうな強面の男に安心しきった顔で負ぶさっていて、内心穏やかではない。
実は京一のことを文太は知らないわけではなかった。
ハチロクのエンジンがブローしたとき、拓海から「いろは坂をホームにしているエボ乗りの人とやり合った」とは聞いていた。拓海に負けることを教えてくれたそのエボ乗りに、密かに感謝した。が、そのエボ乗りが強面で頭にタオルを巻いてるだとか、うぬとか言いそうで秘孔でも突きそうだとかそういうことは聞かなかったのだ。
まさか目の前にいるこの男が、その時のエボ乗りだと知る由もなく。
(涼介の大学の連れ……じゃないだろうな……こんなんが医者の卵だったら心臓発作起こすな)
失礼なことを考えるが、相手の男……京一は文太を警戒していて眉間に皺。怖さが三割り増しだ。
(……まさか)
文太ははっとした。頭の中で仮説を立てた。「誘拐」。
大方酔ってうとうとしているところをたちの悪そうなこの男に目をつけられた、そんなところだろう。



(やばいな……涼介を背負ってるのが痛いハンデだな)京一は一歩、下がった。
拳を使う喧嘩で京一が負けた試しはない。車で負けたことはあっても、だ。
十代の頃は清次と共に栃木中に悪名を轟かせ、中禅寺湖に沈めるが口癖だったものだが、もはや恥ずべき過去の話だ。今は(見た目と車はともかく)まっとうな社会人、いずれは小さいながらも実家の会社を任される身。
昨日も、深夜遅くに出歩いて職質されかけた高校生のチャラい弟に素行を正せと自分の過去を棚に上げて説教をかまし、「じゃあアニキはどうだったんだよ」と反論され、バックドロップと電気アンマで黙らせたばかりだ。
ここで文太とやり合って、警察の世話になっては面目が立たない。




(さあどうする……警察沙汰はごめんだぜ)
一方、とっとと帰って寝たいのが文太の今の気持ちだ。起床時間は決まっている。睡眠時間をいたずらに削りたくはない。
(涼介を取り戻すしかねーんだが……っつかアイツはこんな時にあんな野郎の背中で平和な顔して寝やがって……!)
文太の中で、沸々と沸立つものがあった……それは俗に、怒りと嫉妬と呼ばれるものであった。



京一の背中で、涼介は安心しきった顔ですやすやと寝ている。この一触即発の状況も知らずに。



京一は辺りを見渡した。
ここはコンビニ前。
遅い時間で、人気はまばら。繁華街と住宅地の境目でそもそも寂しい場所だ。
交番らしきものは見あたらない。

(三十六計逃げるに如かず、か――)

このオッサンとの対決を阻止し、涼介を守る方法はただ一つ。



「涼介、逃げるぞ!!」



叫ぶが早いか、京一は涼介を背負ったまま、さっき居た居酒屋の方に向かって全力疾走した。
「てめぇッ! 待ちやがれ!」
文太も叫び、京一を追った。



それは傍目には何とも滑稽な追いかけっこだった。
背の高い涼介を背負い、かつ医学書の類の詰まった重い鞄を持った巨躯の京一を、サンダルばきの中年男・文太が追いかけている。しかもどちらも全力疾走。
「おらぁそこの兄ちゃん! てめぇ止まれっ! 止まれってんだ!」
「誰が止まるかぁっ!!」
京一は後ろからの叫びに叫びで応酬した。
コンパスが長く体格もよく、なおかつ若い分京一が有利かと思われたが、身軽なのは文太だ。
京一が文太を引き離したのは最初の内だけで、どんどん文太が差を詰めてきた。足には自信のあった京一だが、背中の180センチ以上60キロ強と、手にした鞄と満腹がハンデだ。まさにハンディキャップ方式。
文太のハンデはサンダルと年齢だが、涼介が攫われるという勘違いと豆腐屋という肉体労働で鍛えた身体は、そのハンデを埋めるに余りあるものだった。
通行人やあたりの店から顔を出した野次馬は、深夜の追走劇を何事かと見物している。
「オッサンこそ止まりやがれっ! 追ってくんなっ!」
「誰がオッサンだ! てめーこそ止まれこの極悪面がっ! ラオウかてめぇはっ!」
「誰がラオウだ! オレの高校のときのあだ名じゃねえか! この顔は生まれつきだっ!」
「止まれっつってんだコルアァァァ!!」
「止まるかぁぁぁっ!! オッサンの人生の時計止めてやろうかぁぁぁっ!!」
「止めれるもんなら止めてみやがれぇぇぇっ!!!」
もはやただの悪口である。
京一の背後に、どんどん文太が迫っている。
彼の人生で、(車以外で)今まで人を追いかけたことはあっても、追いかけられたことはない。後ろからずんずん迫ってくる存在は京一には恐怖でしかなかった。
(なんつー速さだあのオッサンっ! サンダルだろーがっ!)
京一は必死で走った。メロスも真っ青の走りだ。今ならボルトにも勝てそうだとか余計なことを考えた。
「とっとと止まれっ! そいつはなぁ、オレの……!」
文太が叫びながら手を伸ばした。が、その手は虚しく空を切り、涼介の背中に触れられない。
「オレの……!」



「……なんだあれ」
遠くから叫びながら走ってくる何かに、池谷と中里は目を凝らした。
「拓海のオヤジさんと須藤じゃねえか」
涼介を背負った京一を、文太が追いかけている。
「え、あの後ろの人がそうなのか?」
「ああ。……拓海は来なかったんだな。っつーか、何してんだあの人たち……」
二人は顔を見合わせた。そして首を傾げた。
「理由はわかんねーけど……ちょっと止めてくる」
三人はどんどんこちらへと近づいてくる。中里は腕まくりをし、京一の進路に立ちはだかった。
「中里ぉぉぉ!!! どけぇぇぇ!!!!」
京一が鬼の形相で叫びながら走ってくる。
「止まれッ! 須藤、止まれッ!!」
「止まれるかぁぁぁっ!!」
車は急に止まれない。人も急に止まれない。



「須藤ッ!! その人拓海のオヤジさんだ!!!」


池谷が叫んだ。
「……なにぃッ!?」
京一は声のするほうに向いた。その瞬間、ドン、と鈍い音がした。
立ちはだかった中里にぶつかった。
どすんと音がし、やっと止まった京一に跳ね飛ばされた中里が尻餅をついた。
「いってぇ……!」中里が声を上げた。
その衝撃に、京一の背中の涼介の重いまぶたが再び開いた。
「……ん……?」



「拓海のオヤジ………?」
京一は池谷の言葉を反芻し、振り返った。追いついた文太が、煙草を咥え火をつけるところだった。
「どうしたんですか、藤原さん」
池谷が文太に歩み寄って訊いた。
「いやどうしたもこうしたも…………池谷、コイツ知り合いか?」
文太は京一をタバコで差した。池谷と、尻餅をついたままの中里は同時に頷いた。
あれだけ全力疾走したのに文太は息一つ乱していない。
(化けモンかあのオッサン……! つか……拓海のオヤジさんだと……?)
振り返った京一は息がかなり上がっている。
「藤原さんどうしたんですか。拓海が来るんじゃなかったんですか」
「拓海はダチを迎えに行っちまってな。オレが涼介を迎えに来ることになったんだ」
「ああー、なるほど」
「それよりお前、電話寄越しといて涼介と一緒じゃなかったのか。なんなんだあの兄ちゃん」
「いやぁ、拓海が来ると思ってて。あいつは拓海とは面識があるんで、任せたんですよ。まさか藤原さんが来るとは……」
文太も文太で、世紀末救世主が誘拐犯ではないことを悟り、ほっとした。
「アイツは今日の飲み仲間です。栃木のエンペラーってチームのリーダーで、須藤って……あ、ハチロクが赤城でブローしたときにバトってた相手ですよ」
「……ああ……アンタが……」
「池谷、こちらさんもしかして――」
京一が恐る恐る訊いた。
池谷の隣に立っていた中里が、文太と京一の顔を交互に見ている。
「ハチロク……藤原拓海のオヤジさんだよ」
「…………!」


次の瞬間。
「その節はどうも……」
「ああ、いやこちらこそ……」
さっきの追走劇での罵詈雑言はあっさりとなかったことにし、文太と京一は互いにぺこぺこ頭を下げた。
「すまねぇなぁ、兄ちゃんが怖い顔してっからよ……てっきり涼介が攫われちまうかと……」
(悪いこと言っちまったな……)
「いえこちらこそ失礼なことを……面識がないものでつい……」
(人生の時計止めるとか言っちまった……)

勘違いは怖ろしい。
危うく文太と京一は、チキチキ繁華街縦断耐久走をするところだった。
ペコペコ頭を下げあう二人を、立ち上がった中里と池谷は頭の上にクエスチョンマークを浮かべたまま見ていた。



「……おとうさん……」
京一の背中で、諸悪の根源が文太を呼んだ。
京一が振り返り、文太が見ると、眠そうな涼介がぼへーっとした顔をしていた。
「迎えに来て……くれたんですね、」
えへ、と少し笑い、涼介は京一の背中から降りた。京一は重い鞄を下ろし、はぁ、と大息をついた。
「……涼介」
「はい……」
文太の額に青筋が走る。煙草を咥えたまま、ずかずかと京一の後ろに立っている涼介に近づいた。そして。



――ゴンッ!!



生音とは思えないほどの重たい音がアーケード街に響いた。
文太の怒りのオヤジ拳骨が、涼介の頭に落ちたのだ。
「いったぁ……!!!」
頭を押さえ、涼介がその場にしゃがみこんだ。


「「「…………」」」
他の三人は絶句した。
(((高橋涼介が頭を叩かれた……)))
こんな場面、酔いつぶれる高橋涼介以上に滅多に見れるものではない。三人は唖然としながらもその光景に見入ってしまった。


「馬鹿野郎!! こんなフニャフニャになるまで飲みやがって!! 人様に迷惑かけるような飲み方すんじゃねえ!! ガキかてめぇは!!」
しゃがみこんだ涼介に、文太が怒鳴った。
「……ごめんなさい……」
頭を押さえたままの涼介が、蚊の泣くような声で謝った。
「大体てめぇいくつだ!」
「にじゅー……四、です」
「二十四にもなっててめぇのペースもしらねえのか!! 人に偉そうに飲みすぎるなとか言うくせに自分が飲まれてんじゃねえっ!!」
「はい……」
文太は強い口調で怒鳴った。涼介はシュンとしている。
「あの、そんなに怒らなくても……」
京一が恐る恐る止めようとしたが、文太がきっと睨み、京一はひるんだ。
「帰るぞ! とっとと立ちやがれ!」
涼介のシャツの襟を文太の手が引っ掴んだ。涼介は頭を押さえたまま、立ち上がった。
「んじゃあ池谷、コイツが迷惑かけたな」
「あ、いえ別に……」
「すまねえな兄ちゃん。ケツ大丈夫か。こっちのでっかい兄ちゃんも、すまなかったな」
文太は涼介の襟を掴んだまま三人にすまなかったを言い、「ほら行くぞ!」とまだ頭を押さえている涼介を促した。
「……京一」
「あ?」
襟を掴まれたままの涼介が、京一の足元の鞄を指した。「ああ、これ」と京一がそれを涼介に渡した。
その時、涼介が京一の耳元でごにょごにょと囁き――京一は石になった。
「とっととしろ!」文太と、襟を掴まれた涼介は、今走ってきた方向へと去っていった。
その姿はまさにオヤジと悪さをした子供そのものだった。




「なんなんだあれ……」
去っていく二人を見ながら、三人は呆然とした。
叩かれる高橋涼介。怒鳴られシュンとなる高橋涼介。襟を掴まれ連行される高橋涼介。
「夢でも見てンのかな……オレら」
「かもしんねえな」
中里と池谷の感想はもっともだ。エロ本のボカシの中身以上に見られるものではない。
(何だって……?)
京一は、さっき涼介が別れ際に耳元で囁いた言葉が頭の中にぐるぐる廻り、全力疾走後の酸欠も手伝って混乱した。
「須藤、お前カラオケ行くか?」
改めて、中里が京一を誘った。
「……行くかっ。オレはもう帰る。今度こそ帰るぞ!」
京一はむっとした顔で、文太戸涼介が去ったのとは違う方向――ハイエースを停めたパーキングの方へと大股で去っていった。



高崎に向かうインプの中で、涼介は拳骨を落とされた頭をさすった。
「まだ痛い……今日習ったことが全部抜けた……」
「知るか!」
情けない声を上げる涼介に、ステアを握る文太は不機嫌を隠さなかった。
「次は迎えにこねぇぞ。てめぇで歩いて帰れよ」
「はい……」
さすがに酔いが一気に醒め、涼介は決まり悪そうに返事をし、ちらっと文太を見た。
さっき……夢うつつの中、激しく揺れる京一の背中で聞こえてきた文太の言葉を思い出した。


『そいつはオレの……!』


「お父さん」
「何だ!」
「あの……」
怒っているな、と涼介は視線を車窓の外に向けた。
「さっき……京一に、そいつはオレの……って、叫んでましたよね。あれって……」
なんて言うつもりだったんですか、と……訊いてみた。
「起きてたのか、あん時」
「夢と現実の間くらいでしたけど……聞こえてきたんで……」
「そうか。……涼介、そういうのをな」
信号が点滅式に変わった。文太は左右を確認し、軽く減速してから踏み込んだ。
「愚問、っていうんだよ……」
文太は険しい顔で前を見据えたまま、言った。



「……オヤジじゃん」
国道沿いのカラオケボックス前で、路肩に停めたハチロクに酩酊状態の啓介を押し込んでいた拓海は、対向車線を疾走するインプレッサを認めた。
独特のエキゾーストは、文太のインプの音だ。
「ふじわらぁ〜」
拓海を「飲んだんだけど誰も迎えに来てくれないからアッシー頼む」とメールで呼び出した啓介はふにゃふにゃで、やたらハイテンションだった。ハチロクのナビシートで、酒臭い息を吐きながらベルトを締める拓海に絡んだ。
「はいはい、とりあえずおとなしく乗っててくださいね。啓介さん」
「藤原ぁ、オレんちで飲みなおそうぜぇ〜オヤジのとっておきの酒があるんだぁ!」
「んなモン勝手に開けたら院長先生に安楽死させられますよ……ああでも啓介さんちにはちゃんと行きますからね?」
送っていくのと、もう一つ……と心の中で拓海は呟いた。彼の口端がにっ、と上がり、不敵な笑みを作った。
今の拓海にはきっと確実に鍵の着いた尻尾が生えているだろう。


(――オヤジはあんたにあげますから、弟は貰いますよ? 涼介さん……)


文太のインプの助手席にいるだろう人に、拓海は心の中で問いかける。
「ふじわらぁ」
赤い顔で、ドアを閉じようとする拓海に手を伸ばす涼介の弟は、この先一時間後の自分の命運など知る由もなく。
年下の男に、いただきますをされるなど思いもよらないのだろう。平和なへべれけだ。
「あんたらは、勝手にしやがれってね……」
一人ごちて、拓海はハチロクの運転席のドアを開けた。



「……次、左曲がるぞ」
相変わらず怒りを秘めた声で、文太が言った。
「え、」
涼介は驚いた。涼介の家に行くには、その角は右に行かなければならないからだ。
「久しぶりに走ったら疲れちまった。ちょっと、休んでいくぞ」
ウインカーを左に上げる。涼介は、はっとした。
その角を左に行くと……何度か二人で利用したことのある、モーテルがあるからだ。
休んでいく、というのはつまりはそういうことで。
「迎え賃と迷惑料の分、きっちりサービスしろよ」
細い目が、ちらっと涼介を見た。
「……はい。勿論です」
涼介は頬を少し赤らめて返事をし、息を呑んだ。
「二時間丸ごとだぞ」 文太はニヤッと笑い、シフトから外した左手を、涼介の太腿に置いた。



ハイエースで帰路についた京一は、どっと疲れていた。
(明日休めねぇかな……)
ステアを握ったまま、何度もため息をついた。
全力疾走背中に涼介にも十分疲れたが、別れ際の涼介の台詞がとどめをさした。


(この人が、オレの「世界で一番大事な人」だ……)


「嘘だろ……」
涼介の一番大事な人、大好きな人が……秋名のハチロクのオヤジさんだとか。京一は涼介にまたからかわれていると思いたかった。
が……思えなかった。
あのプライドの塊のような涼介が。
文太に拳骨を食らわされ、叱られ、シュンとなり、謝り、襟を掴まれ去っていった。
あんな涼介を見せられては、あのささやきを信じるより他はないだろう。
「冗談きついぜ……涼介」
次に涼介に会った時、どんな顔をすればいいのか。
京一はそれを考えると、ため息しか出なかった。
「……ん?」
左の車線の少し前を、青いインプが走っている。京一の目が自然と向いた。
(……さっきの……)
そのインプは、ついさっきコンビニ前で見た、文太のインプだ。目を凝らせばナビには涼介らしき影が見える。
(……)
なんとも複雑な気持ちで京一はインプを視界の隅に入れていた。
「……?」
インプがウインカーを左に上げ、交差点を曲がった。
(そっち、高崎か……?)
高崎はそっちじゃないだろう、と不思議に思い、交差点を通り過ぎる時にインプが曲がったほうを見た。



「ちょっと待てェェェッ!!」


京一はハイエースの中で叫んだ。
左折したインプは、すぐにウインカーを右に上げて入ったのだ……ピンク色のネオンサインの、いわゆる「モーテル」に。


『はい……ああ、須藤? どうしたんだ?』
京一はハイエースを路肩に寄せて停めると、ついさっき番号を交わしたばかりの池谷に掛けた。
「今何処だ! 池谷!」
『……カラオケだけど』
後ろで中里が歌う声がする。群馬だからか、ボウイの曲だ。
『中里んとこの庄司慎吾……EG6のヤツと合流したんだよ。あと一人、四人いると割引効いて安くなるんだけど』
「……じゃあ行ってやる」
『え?』
「行ってやるから何処の店か教えろ!」
京一は今猛烈に歌いたかった。カラオケは実は得意ではなかったが、思い切り、歌いたい気分だった。
今目の前で見たとんでもない衝撃を、何でもいいから大声を出して忘れたかったのだ。
『さっきの店の裏のシダックスだけど……』
「わかった。すぐ行くから混ぜろ。いいな」
『あ、ああ……いいけど須藤、――歌えるんだよな?』
「ああ。何だって歌ってやる!」
京一は電話を切り携帯をシートに投げると、ハイエースでスピンターンをかました。



(思い切り歌って忘れるんだ……悪い夢だ、あれはきっとそうにちがいない……!!)
ぶんぶん首を振り、京一は息を呑んだ。
何を歌おうか。アクセルを踏み込みながら考えた。
(こないだ清次が歌ってたな……あの歌なら歌えるか……?)
先週、エンペラーの連中と行ったカラオケで、清次が熱唱していた歌がある。
ジュリーの曲。
あれにしよう。



今の京一の気持ちそのままのタイトルだ。




勝手にしやがれ




(終)





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