ブランマンジェとケーキ
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それは、ごくごく平凡な水曜日の午前中のこと。
前橋市内の有名なケーキ屋の前に、物騒な音をさせながらインプレッサが停まった。ケーキ屋はまだ開店前で、シャッターが半分閉まっていた。
「何だよ、文太ァ。とうとう車、買い換えたのか」
シャッターの下をくぐり、コックコート姿で店から出てきた文太の古い友人。このケーキ屋のオーナーだった。
「買い換えたっつーか、ハチロクは息子が乗り回してるんでな、コイツ買ったんだよ」
文太はトランクから出した発泡スチロールのケースを抱えた。
「へえ……息子さんて、こちら?」
オーナーはちらりと、文太の隣に立つ、背の高い若い男を見上げる。
文太とは似ても似つかぬ、黒髪の眉目秀麗な青年が、同じように発泡スチロールのケースを抱え、優しく微笑み、おはようございますと言った。
「いや、コイツはただのバイトだよ」
「バイト……」
お前んとこ、バイトなんて雇う余裕なんてあったんか、と言いかけた言葉を飲み込む代わりに、彼は文太曰くの『バイト』を上から下までじっくり見た。
袖を折った、糊の利いたワイシャツ。プレスのきちんと当たったスラックスと、磨いた革靴。どこからどう見ても、育ちの良さそうなお坊ちゃまだ。
どこが豆腐屋のバイトだ。格好からしておかしいだろう。はっきり言って突っ込みどころ満載だった。
「ほら、とっとと行くぞ。涼介」
「はい」
文太に名前を呼ばれ、涼介は嬉しそうに返事をした。
発泡スチロールの中身はおからと豆乳。このケーキ屋の看板商品の材料になる。
シャッターをくぐり、まだ開店前の店内に入ると、巨大なテディベアがソファに座ってお出迎えしてくれた。涼介はテディベアの頭を軽くなで、ライトアップされたショーケースの前に立った。ショーケースの中には販売を待つ色とりどりのケーキやムース、焼き菓子が所狭しと並んでいて、早すぎる朝食を済ませた涼介はお腹が鳴りそうになった。商品には可愛らしい筆文字で書いた値札がつけられ、長ったらしい横文字とキリのいい数字が並ぶ。
しかし、二つだけぽっかりと開いたスペースがあった。
『豆乳ブランマンジェ 300円』
『おからケーキ 400円』
商品の無いスペースに立てられた寂しげな値札に、
「豆乳ブランマンジェと……おからケーキ、ですか」
と、涼介が呟いた。文太と涼介の後から店に入ったオーナーは、涼介の隣に立った。
「そう。その材料がその箱の中身。これから作るんだよ。材料の到着がいつも遅いから、開店に間に合わなくてなぁ、文太」
少しいやみを込めて言うと、文太は「うるせぇ。配達の順番がそうなるんだから仕方ねえだろうがよ。古い馴染みが優先だ」と反論した。
早朝のホテルに始まり、スーパーや食堂、居酒屋と、藤原とうふ店の配達先は沢山あった。このケーキ屋は最近になって藤原とうふ店のおからと豆乳を使い始めたが、配達は昔馴染みの店がどうしても先になる。それゆえ文太の配達ルートでは後のほうに追いやられ、開店時間にブランマンジェとケーキは間に合わなかった。
「……どんなお味なんですか? 評判は如何ですか?」
涼介がオーナーに恐る恐る、尋ねた。
「ああ、甘くて旨いぜ。大好評だよ。うちの看板商品だ。だから早く並べたいのに、文太が遅いから……」
「へぇ……」
食べたいな、と涼介の顔に書いてあったのだろう。オーナーは「今日の分を一つずつのけておいてやるよ、明日の配達の時にあげるから」と約束してくれた。
「そういや文太はまだ食ったことねえな」オーナーが思い出したように言った。文太はふん、と鼻先で笑った。
「甘いもんは好きじゃねえんだよ。それに、豆乳なんてモンは風呂上りに一気飲みするモンで、おからなんておかずに炊くもんだと思ってるからな、オレは」
文太がレジカウンターにケースをどん、と思い切り置いた。
「身も蓋もないこと言うなよ、文太!」
オーナーは笑った。涼介も小さく笑った。
「今日、ブランマンジェとケーキを一つずつよけて置いてくれるそうです。明日の配達の時に、くださるそうです」
インプレッサに乗り込んですぐ、涼介が嬉しそうに言った。
「……明日のお前のお楽しみだな」
「ええ、お父さんのおからと豆乳、どんな味になってるんでしょうね」
子供の様に嬉しそうな涼介を横目に、文太は煙草を咥えて呟いた。
「……甘いんだろ、どうせ」
まるで涼介に対する自分の様に。
文太はギアをローに入れ、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。次の配達先は、老人施設。昼食用の木綿豆腐だ。
(終)
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