お父さんと涼介のバレンタインデー。+α
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「プロのラリーストになるから」
拓海がそう言い残して会社を辞めて家を出て、もう何年にもなる。
宣言通りプロになった拓海は最初こそ苦労したものの、着実に実績を残し今やWRCの世界ではひとかどのラリーストとして活躍している。
「藤原さん、お届け物です」
「あいよ」
2月になると、文太一人になったこの豆腐屋に、拓海宛の荷物が連日届く。
配達員が手にした段ボール箱の中身は色とりどりの小さな箱。
「藤原拓海さんに」
この豆腐屋が拓海の実家だと知ったファンからの、バレンタインチョコだ。
所属するチームに送ればいいものを実家に送ってくるファン心理は文太には分からないが、息子を応援してくれている証だから悪い気はしない。
今日も拓海宛のいくつかのバレンタインチョコが藤原豆腐店に配達され、文太は受け取りの判を押した。
「それと、割れ物が一つ……藤原文太さん宛に」
「オレにか?」
「はい」
段ボール箱を文太に渡した配達員は、引き替えに受け取り判を押した半切れを手にし、トラックに戻り縦長の箱を手に戻ってきた。
割れ物注意のシールが貼られている。
その箱の中身にも、送り主にも文太には心当たりがあった。
「ええと、送り主は……」
「高崎の高橋涼介だろ」
送り状を読もうとする配達員に先回りをして言ってやる。配達員は「そうです」と箱に貼られた送り状を文太に見せた。
宛先は渋川市の藤原文太様。
送り主は高崎市の高橋涼介。
2月14日、今日の配達指定。
ワレモノにマルがされ、品名は「日本酒」
几帳面な見覚えのある字で書かれていた。
毎年この日に涼介から送られてくる、文太へのバレンタインプレゼントだ。
拓海宛のチョコが入った箱を、文太は主のいなくなった部屋に置いた。
後でまとめて拓海に送ってやらならけばいけない。
「さて、と……」
大き目の箱にチョコの小さな箱を整理して入れ、階段を降り居間に戻った。
ちゃぶ台の上に置かれた「割れ物注意」の箱を開けると、予想通り桐の箱があらわれた。
蓋を開くと緋縮緬にくるんだ一升瓶。
「過剰包装だな」
苦笑しながらも慎重にそれを取りだし、どんとちゃぶ台に立てる。
地方から取り寄せたという、高価な日本酒だ。
重厚な色の瓶に、和紙のラベル。味のある筆文字。
ほう、と文太は感心した。
店は少し早じまいした。
数日前、やはり涼介からこの日のために送られてきた干物を焼き、青い切り子のグラスに、今日届いた日本酒を注いで日のあるうちからの晩酌を始めた。
グリルで焼いた熱い干物を一口。
ふっくらとして塩気が丁度いい。炭で焼けばもっと旨いのだろう。
それから、切り子に口を付けて、酒をくいっと。
「……今年のも旨いな」
後味をかみしめ、一人ごちてうなずく。
普段は文太の酒をとがめる涼介から、年に数回、「どうぞお飲みください」とお許しが出て……気兼ねすることもないどころか、天下御免でいい酒に酔える。
文太にとってのバレンタインとは、そういう日だった。
否、そういう日にになっていた……涼介と会って、両手を折るくらいの年数になった今。
いい酒は口当たりものど越しも、酔った心地もいい。普段の安酒とは比べるべくもない。
酒に添えられていた小さなチラシをみれば、地方の有名な酒蔵のものらしい。去年送られてきた酒より少し辛口だ。
この切り子も、涼介が学会で関西へ行ったときの土産だ。
普段は使わない。いい酒の時にだけ使う。
「お父さんならこの色だと思って」と、涼介はインプレッサをイメージしたのか青い色の切り子を選んで買ってきてくれた。同じデザインの赤い切り子を自分用にと買ってきてこの家の食器棚に置いているが、並んだ青と赤に「これじゃ夫婦用のペアじゃねえか?」と文太に言われ、涼介は顔を真っ赤にしていた。
酒を滅多に口にしない涼介がこの切り子で飲むのは、もっぱらジュースだ。
こんばんは、と聞き慣れた声が勝手口からする頃には、文太の顔は僅かに赤らみ、いい感じに酔いがまわっていた。
「涼介か」
仕事帰りの涼介が、白衣を片手に台所から顔をのぞかせた。
「届いてたんですね、よかった」
「ああ。今年も旨いな。すまねぇな」
文太が礼を言うと、涼介は暖簾から顔を出したままはにかんだ。
今は群大病院で医師として勤務する涼介は、仕事が終わった後や休日に足繁くこの家を訪れる。
もう拓海も家を出て、滅多に戻らないから誰にはばかることもなく文太との時間を共有していた。
涼介の弟の啓介も、拓海と同じくWRCのラリーストとして活躍している。
拓海と啓介はよく会っているらしく、ツーショットの写メが啓介から涼介にしょっちゅう送信されてきていた。
その写真の二人の距離はやたら近い。
「今日は早く上がれました」
最近運転の時は掛けるようになったメガネを外し、涼介は文太の隣に座った。
「そうか。メシは?」
「帰りに後輩と食堂で」
ちゃぶ台の上の一升瓶を手にし、空になった文太の切り子に注ぐ涼介は、今年も贈り物が文太の気に召したことに安堵と喜びを感じていた。
自称とはいえ押し掛けとはいえ、息子が父親にバレンタインに贈り物と言うところからして普通とはズレているのだが、涼介相手に常識を語っても仕方ない。
見識の高い裕福な家庭で育ったからか、涼介は行事やイベントが大好きだ。
文太は豆腐が沢山売れるわけでもない行事やイベントはどうでもよかった。
十五夜もクリスマスも、文太には涼介公認で酒が遠慮なく飲める日という認識だ。
最初の頃、涼介はバレンタインにハートの形のチョコレートを送ってきて文太を閉口させた。
お前がオレにチョコレートを送ってどうすると文太が叱ると涼介は悄げた。
文太がせめて甘いものはやめろ、酒ならいいと言うと、次の年に涼介はホテルの最上階のバーラウンジを予約した。いやな予感を抱いてそこに着くと、ものの見事に愛を語り合う男女のカップルだらけで文太は頭を抱えた。
紆余曲折の末、ここ数年は地方の地酒とそれに合う干物などを送ってくるというスタイルに落ち着いた。
それでも、普通とは違うことには変わりないのだが。
「明日は?」
「夜勤なので夕方からです」
「そうか」
じゃあゆっくりできるな、と文太が言うと、涼介は頷いて僅かに頬を染めた。
子供っぽさは何年たっても変わらないが、未だにどこかおぼこいところもあって、こんな風に恥ずかしがったりする。
今更、という言葉を文太は飲み込み、代わりに違う言葉でからかう。
「飲んできたのかよ」
笑いながら涼介の額をこつんと軽く小突くと、涼介は「違います」とムキになった。
「……3月14日は何がいいんだ」
コトン、と切り子を置き、文太が訊ねた。
「そうですね……」
涼介は自分の切り子にコーラを注ぎ、口を付け考えた。
病院で貰ったというバレンタインチョコをいくつもちゃぶ台に広げ、つまみながら。このチョコのお仲間が坂の下に停めたFCに大量に入っているという。
酒のお返しに、3月14日は文太が涼介の望むものを贈ったり、何かすることになっている。
要するに、普通にバレンタインとホワイトデーのやりとりなのだが。
「……去年はご飯食べに行きましたよね」
「わざわざ横浜までな」
中華街に行きたい、と涼介に言われ、男二人で出かけたはいいが涼介が迷子になった。
今となっては笑い話だが、涼介が携帯をインプレッサに置きっぱなしにして連絡が取れなかったのだ。
散々探し回った文太がやっと捜し当てたとき、涼介は特大の肉まんを手にしょんぼりとしてい、リュックを背負った外国人観光客に慰められていた。
そのことを政志が来たときに話題にされ、涼介はかたくなにお父さんが迷子になったと言い張っていた。
携帯を車に置いたままにしたのは涼介だから、迷ったのは涼介だと文太は主張する。
「今年は……やっぱり、お父さんの車でどこかに行きたいです」
文太のインプのナビシートは涼介の特等席だ。
自営業と医者という仕事であまり遠出はできないが、年に一度くらいは店と仕事の都合をつけて2人でどこかへ出かける。
普段はせいぜい、近場の居酒屋か秋名か赤城がいいところだ。
出会って何年目かの今、2人の間にはそういうリズムが出来上がっていた。
「迷子になるなよ」
「……それはお父さんでしょう?」
「あれはお前が迷子になったんだ。オレはインプ停めてあった駐車場に戻ってきたんだぞ? お前は第一駐車場がわからなかっただろ。携帯を車に置いて連絡できなくなったのはどっちだ?」
「だってお父さんが早く降りろって急かしたでしょう」
「三十路の男が急かされたくらいで携帯忘れんじゃねえよ」
そんな言い争いも、険悪な雰囲気になることはない。
むきになった涼介が文太の肩を冗談混じりに押した。
その手を、文太の片手が捕らえて。
細い肩をもう片方の手で押せば、あ、と涼介はささくれだった畳に倒れ込む。
かちゃん、とちゃぶ台が僅かに揺れ、空になった切り子が二つ寄り添って、何度も見た主たちの行為を静かに見守る。その後ろで一升瓶が照れた。
文太が涼介の上に覆い被さり、涼介の両手が文太の頭を抱き寄せる。
立てた両膝で文太をくるむようにして、涼介は自分から衣服を脱いでいく。
涼介が来たときの文太の晩酌がきれいに最後まで終わることは少ない。
大抵はこうして中断され、狭い居間は濡れた空気を漂わせ、涼介の鳴き声にも似た喘ぎが、僅かに浮いた壁紙を震わせる。
上になり下になり。
いや、だとか。
だめ、だとか。
思っていることとは逆の言葉を発した涼介が底のない快楽に沈み、文太がそれを追いかける。
カラン、と干物の脇に置いた文太の箸が転がった。
「リベンジ……」
定位置の、文太の左肩に乗った黒髪が、汗ばんだ匂いをさせながら呟いた。
手の中の丸めたティッシュを畳に置いて、文太を見上げる。
「ん?」
「……もう一回、中華街がいい、です」
長い睫が縁取る綺麗な目が、文太を映した。
「今度は迷いませんから」
「言ったな?」
分厚い手が涼介の髪をぐしゃ、と掻いた。
「迷うなよ、今度は」
「お父さんこそ」
ちゃぶ台の上で、切り子の隣に置いてあった涼介の携帯が鳴った。
「……啓介からだ」
人ごとにメールの着信音を変えてあるので、誰からかはすぐにわかった。涼介はけだるい体をゆっくり起こして携帯を開いた。
ぱちん、とシェルが開く。
「藤原……」
「ん?」
小さな画面を見た涼介の藤原、という言葉に、文太も体を起こした。
「一緒にいるみたいですよ、ホラ」
涼介が見せた画面は、啓介からたった今送られてきた写メだ。今は日本にいるらしい。
「……仲、いいんだな」
「そうみたいですね」
ホテルの部屋だろうか、日焼けした拓海と啓介がぴったりと寄り添い、お互いのファンから送られてきたらしいチョコの箱を互いに手にし、見せつけるようなポーズを取っていた。二人の周りには、チョコの箱が沢山散らばっている。
『アニキへ
今東京。藤原も一緒。
ファンの人たちからいっぱいチョコ来た!
走りもチョコの数も藤原には負けられねー。
Happy Valentine's Day!』
写真にはそんな近況報告の文が添えられていた。
「……負けず嫌いだな、お前の弟」
「はい」
写真の中の啓介と拓海と同じく、文太と涼介も寄り添っていた。当たり前の様に。
そう、当たり前の様に。
「ちょっと酔いが醒めたな……ラーメンでも食いにいくか」
「そうですね。オレも小腹が空きました……まだやってますよね? 秋名ホテルの前の……」
「ああ。そこにするか」
文太が立ち上がり、涼介がそれに続いた。
バレンタインの夜は、ゆっくりと更けていった。
(終)
2012.バレンタインSS
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