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”二十年前の、冬の夜の邂逅”
「やっぱ冷えるなぁ」
車から降りるなり、文太はジャンパーの襟を立てて肩を竦めた。
久しぶりに仕事の絡まない遠出をしたくて、文太は祐一を誘って赤城山へと愛車を走らせた。
真冬の平日の夜、それも酷く冷え込んでいるせいか、駐車場には走り屋の車どころか一般車さえ殆どなかった。
「そりゃ真冬だからな」
文太に続いて車を降り、はぁと白い息を吐いた祐一の、首に巻かれた”婚約中の彼女”から貰ったという手編みのマフラー。素朴なモスグリーンのそれは祐一には良く似合っていた。
「文太、お前んとこどっちだか分かったのか?」
ガードレールに並んで腰掛けると、祐一が聞いてきた。
「ん? ああ……男らしい」
文太の妻のお腹には、初めての子供が春に予定されている誕生の日を待っていた。
「そうか、文太は男がいいって言ってたよな。よかったじゃないか」
「……かみさんは女がよかったんだとさ」
「ははっ」
文太はタバコを一本咥え、火を付けた。
「オリオン!」
夜の峠には似合わない、可愛らしい声が少し離れたところから聞こえた。
文太と祐一はその声の方に顔を向けた。
黒いベンツが停まっており、その傍に四十くらいの背の高い父親らしき男性と、彼の息子だろうか、4、5歳くらいの黒髪の男の子がいた。
「そう、あれがオリオン座だ」
暖かそうなオーバーを着た男の子の手には、星座の早見盤があった。男性は男の子の隣で片膝をつき、空を指差していた。
男の子は男性の指差す方を見上げていた。
「子供か」
だったら仕方ねぇな、と文太はタバコを落とし踏んで消した。
文太は釣られて男の子が見上げる方へと顔を向けた。祐一も続いた。
満天の星空。きらきらと、音が聞こえてきそうなくらいむすうの星がめいめいに輝いている。
今夜のような冷え込んだ夜、それも天に近い峠では、空気が澄んで星がとても美しく見える。
「……オリオン座か」
ぱっと目に飛び込んでくる、存在感のある鼓の形をした星座は、天文に詳しくなくとも分かるものだった。
「ねぇパパ、オリオン!」
男の子は得意げに声を張り上げた。
「そうだ、涼介。オリオン座が分かるのか。賢いな、お前は」
パパと呼ばれた男性は、涼介と呼んだ男の子の頭を撫でた。涼介ははうんと頷き、嬉しそうにニッコリと笑った。
「あれ、高崎の高橋クリニックの若先生だな」
祐一は二人を見て小声で言った。
「こないだ政志が足折って入院してたとこか?」
「そう。おやじさんがこないだまで院長やってたんだけどな、群大病院にいたあの息子さんが跡を継ぐとかで帰ってきて院長先生になったんだ。若先生って呼ばれてるよ」
「ふぅん」
「あの子は若先生の子供だな」
文太は涼介、と呼ばれた若先生の子供とやらを見た。見るからにお育ちが良さそうで、賢そうだ。
「やっぱり親が医者だと子供も賢いな。あんな小さいのに星座が分かるんだぜ? オレらアレくらいの時、何してた?」祐一が横目で文太を見た。
「鼻水垂らして、八百屋の犬を追い回してドブに落ちくれてたよな」文太が言った。思い出して、二人してぷっ、と噴出した。
(ウチの息子は間違ってもああはならないだろうな……)
まだ腹の中にいる、顔も分からない息子だが、オヤジが自分だ。大体の未来予想はつく。きっと頑固で愛想がなくて、勉強はそんなに好きではなく、こうと決めたら譲らない性格になるだろう。
「ねぇ、オリオン、だね」
涼介の小さな手が再び空を指し、可愛らしい声がその星座の名を叫ぶと、白い息が夜に淡く滲む。父親の若先生は、うん、うん、と頷く。
(可愛いもんだな……)
文太は細い目を更に細めて、ふ、と笑った。あの子はきっと、利口でいい子に育つだろう。
「ああいう賢い息子だといいな、文太」
「……オレの息子だぞ。賢くなるわきゃねーだろ」
祐一の言葉に文太は彼の脇腹を肘で突付き、「オレのことより、お前は早く式の段取り決めろよ」とやり返した。
「さぁ、もう帰るか涼介。寒いと冷えてしまうしな。啓介も待ってるぞ」
若先生は涼介を抱き上げた。涼介はうん、と頷いた。
「啓君に、おみやげは?」
「さっき涼介がお花を摘んだだろう、あれにしよう」
「うん」
若先生がベンツの助手席のドアを開けた。
「バイバイ、おじちゃんたち」
抱き上げられている涼介がこちらを向き、ニッコリと罪のない笑顔を向けてくれ、もみじのようなかわいらしい手を振った。若先生が頭を軽く下げた。
「……バイバイ」
文太も祐一も、手を振り返した。
涼介と若先生を乗せたベンツはエキゾーストを響かせ、駐車場を後にした。
(ありゃ整備は人任せだな……)
文太はベンツの音でそれを見抜いた。ステイタスで高級車を持つ人の傾向だ。
「おじちゃんたち、だってよ」文太が肩を竦めた。
「お前がな」祐一は自分はまだ独身だから、おじちゃんじゃないと言い張るつもりらしい。
「オレぁまだ24だぞ」
「もうすぐ5じゃねえか。それに、オヤジになるんだから、おじちゃんだ」
「うるせー」
違うと言い合える内が花だ。
身軽な時期は互いにもうそれほど残ってはいない。
「さて、オレらも行くか……」文太はジーンズのポケットから鍵を取り出した。
「ああ。今夜は一杯走るんだろう? 文太」
「勿論だ。チビんじゃねーぞ、祐一」
残り少ない日々を惜しむように、その夜文太は祐一をナビに乗せ、赤城の山を何度も何度も走った。
隣の祐一が、いつもより大げさに怖がっていた気がした。
「あ、」
ラーメン屋を出ると、外は満天の星空だった。
先に暖簾を潜って店を出た涼介が、「綺麗ですよ、お父さん」と空を見上げ、白い息を吐いた。
「ああ……そうだな」
支払いを済ませ、涼介に続いて暖簾を潜った文太も空を見上げた。
ここ数日、冬の雨続きできぱっと晴れた夜空を見るのは久々だった。
「今日は星が綺麗ですね」
「雨で汚ねーもん全部洗い流されたんだろ」
店に入ったときはまだ夕暮れだったのだ。
コートの襟を立て、涼介が何かを探すように夜空をじっと見ていた。
「あった。オリオン!」
満天の夜空にも存在感のある鼓の形をした星座を、涼介の長い指が指し、その声が名前を口にした。
「オリオンか……」
涼介の指す方に、文太も視線を向けた。
「小さい頃、オレ星座が好きだったんですよ。よく父親に赤城の山に連れて行ってもらって……」
「星を見にか」
「ええ。だからお父さん、」
今度、赤城の山に星を見に行きましょうよ、と涼介が続け、文太が「そう言うと思ったぜ」と苦笑した。
(……オリオン?)
文太は、随分と前にオリオン座にまつわる、何かがあったような気がした。
(はて……何だったかな?)
首を傾げたが、どうにも思い出せない。それは奥歯に挟まった菜っ葉の欠片のような、些細なもので。
「オリオン、か――」
記憶と呼べるほど鮮明ではないが、忘れているとも言いがたい……そんな、曖昧な思い出だ。
「お父さん。帰りましょう、早く。時代劇始まりますよ」
涼介に促され、文太は思い出せそうで思い出せない記憶をそのままに、「ああ」と歩き出した。
オリオン
(終)
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