Jealousy&Palpitation in a Mirror



「こんにち……」
は、の最後の文字は、驚きに包まれてどこかに消えた。
「何だ、お前か」
いつものように藤原豆腐店の勝手口から入った涼介が見たものは、糊の利いた白いワイシャツを羽織りスラックスをはき、ネクタイを首に掛け、風呂場の前の洗面所の鏡の前に立つ文太の姿だった。
(お父さんの格好がいつもと違う……)
涼介の驚きは尤もだ。
文太の格好はデニムにTシャツが常で、襟付きといえばポロシャツがいいところだ。
仕事の時にはゴム長靴や前掛けが加わったりする程度で、ネクタイ姿を見るのは初めてだった。


「どこかにお出かけですか?」
手にしていた鞄を床に置いた涼介は、固いカフスボタンを留めようとしている文太の隣に立ち、糊のせいで堅いそれを両方填めてやった。
「明日、な」
「明日?」
「ああ。商店街の役員やってるだろ、それでな……」
「……寝てる間に役にされたって言う、」
「それだ」
文太は眉をしかめた。
今年から、文太は商店街の役員の肩書きがついている。
以前から周囲には是非役員をと言われていたが、面倒はバイトの涼介だけで十分だと言い訳をし、かわしていたのだ。
が、とうとう、年貢を納める羽目になった。
前々から文太に目を付けていた役員の金物屋に、商店街の寄り合いではない飲み会の時にすっかり飲まされ、泥酔中に役員就任届けに拇印を押されていたのだ。目的のためには手段を選ばない、怖ろしい商店街である。
「ちょっと畏まった会があってな。背広にネクタイで来いだとよ」
「へぇ」
やはり糊の利いたワイシャツの前ボタンは留めにくく、涼介が手伝って留めてやった。
「明日なのに、今着るんですか?」
「こんな格好、拓海の卒業式の時以来だからな。……もし着れないなら買わねぇといけないだろ。確かめてんだ」
「ああ、それで」
一番下まで丁寧にボタンを留めると、文太は軽く腕を上に上げ、「大丈夫そうだな」と得心した。
「こういう格好は得手じゃねえんだよ。ゴム長なら魚屋にゃ負けねえがな。このネクタイだっていつ買ったもんだか」
不満を口にしながら不慣れな手つきで樟脳のにおいのするネクタイを締めようとする文太に、涼介がふっと笑った。
「ネクタイ、いい色だと思いますよ?」
思ったままを口にして、いつもと違う文太の格好に顔をほころばせ、ネクタイも手伝った。
(お父さん、ネクタイ姿も似合うな……すごくカッコいい……)
ときめくというのはこういう心境なのだろう。心がいつもよりわくわくと落ち着かない。
こんな格好の文太と、ドレスコードのある店に食事に行けたら……と涼介は叶いそうにないことを想像してみた。
涼介が慣れた手つきでネクタイをきゅっと締めると、文太が「ん」と苦しそうにしたから、少しゆるめた。
「お前はネクタイもワイシャツもしょっちゅうだな、涼介」
「ええ」
涼介は時々、ワイシャツにネクタイという姿で来る。大学や家の用事でそういう格好を求められる場所に行くことが多いからだ。
逆に、啓介のようなジーンズやジャージのようなラフな服をあまり持っていない。だから、豆腐屋のバイトのくせに、ワイシャツとスラックス革靴で店番をしたりして、拓海に「変です」と言われたりするのだ。
「ああ、それでいい……ま、こんなもんか……」
ネクタイの締め具合を決めると、涼介が退いた。 
文太は右を向き左を向き、久々に出したワイシャツやスラックスがまだきつくはないことを一通り確認した。
最後に居間の鴨居に掛けてあった背広を羽織った。これも大丈夫なようだ。
「よし。大丈夫だな」
文太がネクタイに手をかけた瞬間、涼介は「あ、」と言いそうになるのを堪えた。
「涼介、ハンガー取れ」
文太に言われて、居間の畳に無造作に置かれているハンガーを拾い上げながら、涼介は心の中で残念がった。
(お父さんのスーツ姿、もうちょっと見ていたかったな……折角素敵だったのに)


文太が脱いだ一式はそれぞれハンガーに吊るされ、鴨居の下に並んで明日の出番を待っていた。
「明日はどんな集まりなんですか?」
店で売れ残りの商品を整理しながら涼介が訊いた。
「ん? なんか知らねえが、交流会みたいなもんらしいな。よその商店街の婦人部だの、女子大の経済学部の学生だの……あと、商店街再生ナントカってのを後押しする企業の連中だとか」
色々だ、と文太は興味なさげだった。
居間にごろんと横になり、時代劇の再放送を見ながら伸びをし、「面倒だなぁ」と心底面倒くさそうに言った。
「主催は女子大だ。活気のある商店街、ってのがテーマでそういうとこばっかりが招かれてるらしいんだがな」
「…………」
厚揚げを挟んだトングを手に、涼介はむっとしていた。


涼介が思い出したのは、数日前の不快な出来事。
飲みに出た文太を迎えに近所の居酒屋に行ったら、文太は奥の席で若い女性数人に囲まれていた。みな涼介より五つは年上のOL風で、あろうことか文太を引っかけようとしていた。
遊んでいこうよ、だの、おじさんかっこいい、だの。猫なで声が代わる代わる文太を誘い、長い爪の手が文太の腕を撫でていた。
文太は面倒くさそうに『オッサンなんか引っかけんじゃねえよ、よそ当たれ』と軽くあしらいながら猪口にちびちび口を付けていた。猪口が空になると隣の巻き髪の女がすかさず注いだ。
おじさんがいいのよぉ、と一人の女が言った。若い男なんか食い足りなくてぇ、と違う女が言った。
『……すみませんが、退いてくれませんか』
文太の腕にすがりつく巻き髪の女を、涼介は丁寧だが怒りを含んだ声と睨みで威嚇した。
彼女たちは一斉に涼介を見、そそくさと文太から離れ、逃げていった。
『んな怖ぇ顔で睨むなよ。お前の真顔はシャレにならねえぞ』
文太は笑い、その後で言った。
『妬いてんのか?……女か、お前は』
と。



シャッターを閉め鍵を掛けると、この小さな家は密室になる。
だるいからしたくないと渋る文太に、涼介がしつこく強請った。
仕方なく文太は涼介を二階の四畳半に迎え入れ、ささくれ立った畳に彼を転がした。
強請る側が敏感で快楽に従順なのは常だ。自分から次々と服を脱いでいき、文太の服に手を掛け引っ張った。
文太の指が這った涼介の肌は粟立った。
半勃ちの文太自身を涼介がたっぷり口で奉仕し、これ以上は堅くならないまでに導いた。自分から文太に跨り、体重を借りて奥深くまで迎え入れ、いいところに当てると涼介はひどく乱れた。
「あ、っ、はぁー……っ、」
律動に合わせて切ない声を吐きだしながら、涼介は額に汗を浮かべ、仰臥した文太の上で揺れた。
「お父さんっ、おっき……ぃ、ぁ、あー……っ」
腹につくほど反り返った涼介自身は、先端から涙をぽろぽろとこぼしていた。
「涼介、」 最初気乗りはしなかった文太だが、煽られて一度波に乗ってしまえばあとは最後までいくまでだ。涼介に煽られるのは毎度のことだ。
弾けそうな涼介自身に触れた文太の手が鈴口を軽くひっかいてやると、ひっ、と涼介がのけぞった。
「下になれよ」
文太が命じ、繋がったままで上下を交代した。長く細い涼介の両足が文太の腰に巻き付いた。
「ひ・あああっ……! はぁ、あぁあ…っ!」
身体を中から抉られるような感覚に、涼介ははしたなく声を上げ、腰に回した両足同士を絡め、文太をもっと深く迎え入れようとする。
(やけに乱れてんな……)
文太は苦笑する。
今日の涼介は、必要以上に乱れているような気がした。
文太的に、そんなに濃密にしているつもりはない。寧ろあっさりしている方だ、と思う。



涼介の頭の中には、数日前のいやな出来事と、さっきの女子大だの婦人部だのという言葉と、文太のスーツ姿が交錯していた。
(お父さんを取られたらいやだ……)
モヤモヤとしたものが、心に湧き上がる。
明日は女が多いらしい。
素敵な、と涼介がときめいた、スーツ姿の格好良い文太を沢山の女が見るのだ。
どこかの女が文太に目を付けたらどうしよう、声をかけたらどうしよう、と涼介は不安に駆られた。
おじさんかっこいい、と言いながら文太にすがりついていたあんな女のような人間に、もし……。
(いやだ……そんなの、いやだ……!)
「あ、はっ、あ、あー……っ!」
喘ぎながら、涼介は口にはできない不安が快楽に溺れる心の中で膨らむのを感じた。
(取られたくない……!)
文太の背中に回した指に、その気持ちが形になった。

ぐっ、と文太の背中に爪を立てたのだ。

「っ……!」
次の瞬間、文太が顔をしかめた。


(やりやがった――)
行為の後、洗面台の前で、文太は背中を鏡に映し舌打ちした。
涼介が爪を立てた痕がくっきりと残っていた。
痛みもまだある。若い男の指の強さは言うまでもない。四本の赤い筋が、背中を斜めに流れていた。
洗面台の反対側は浴室で、水音が勢い良く響いている。涼介が湯を使っている。
(アイツはどうしてこう、分かりやすいんだかな……)
涼介がいつもより乱れていたのも、ネクタイを付けた自分を見て目を輝かせていたのも、数日前に居酒屋で女に囲まれていたときに嫉妬を丸だしにしていたのも、文太にはお見通しのことだった。
まるで子供だ。
(いくら押し掛けでも、息子が妬くか普通……)
疑問に思ったが、涼介に普通を求めることが間違っているのだろう。
風呂の蓋を閉める音がし、擦りガラスの向こうで背の高い肌色の人影が動いた。
「上がりました、お父さん。お次、どうぞ」
折れ戸を開く音とともに、涼介が顔を出した。
「涼介。どうしてくれんだ、これ」
文太が少し不機嫌な顔と声で、背中を指した。
「え、……あ、ごめんなさい。感じすぎて、つい……」
濡れた顔が俯くが、そんなのは後付けだと文太にはわかっていた。
「アレであんなに感じてこんな引っかかれるんなら、こないだ峠でヤった時はオレぁ血塗れになってなきゃいけねえんだがな?」
「…………」
わざとだろう、という言葉をオブラートに包み、文太は涼介の意図を見抜いたと告げた。
もし明日、誰かが文太と懇ろになっても、涼介が付けた痕で文太には特定の相手がいると分からせる……。
涼介の浅はかな思惑など、文太には最初からわかっていた。
「すみません……」
濡れた前髪からぽたぽたと滴をこぼしながら、涼介が謝った。半開きの折れ戸に顔を半分隠した。
「心配なんざしなくても、引っかかったり引っかけたりなんざしねえよ」
文太は頭をかいた。
「……最近、な」
洗面台の下からタオルを一枚出し、涼介に手渡すと文太は言うまいかどうするか迷っていた事実を口にした。


「お前にしか勃たねーんだよ……」
「――は?」
「だから。最近、オレのここがお前にしか反応しねーんだよ!」
文太はデニムに隠された自分の股間を指した。


「っつーことで、だ。おっぱいでっけえ美人の姉ちゃんが部屋の鍵ちらつかせてすり寄ってきたって、オレぁ付いていかねえよ……行けねえだろ」
文太の言葉に、タオルを手にしたまま、涼介はポカンとした。
「お前のせいだぞ、涼介……どうしてくれるんだ」
背中の痕も、涼介にしか反応しなくなった身体も。
「明日はなぁ、会合終わったら政志や祐一と温泉いく約束してんだぞ。こんなもん見られたら何言われるか……ったく」
ちっ、と文太が舌打ちした。
「……あの。お風呂に入っても剥がれない湿布があります。肌色の……それを貼れば……」
「今持ってんのか?」
「高崎の家に……オレ、すぐ取ってきます!」
涼介はタオルで濡れた身体をあわてて拭った。



洗い髪のままFCを高崎の自宅に走らせながら、涼介の頬は湯に浸かりすぎたわけでもないのに真っ赤になっていた。
(凄い……嬉しい……)
お前にしか勃たない、だから大丈夫だという文太の言葉は、涼介の気持ちに対するこれ以上ない位の答えで、涼介の足は必要以上にアクセルを踏み込んだ。


(今度はネクタイ姿のお父さんと、ホテルに行きたいな……)
またおねだりしてみようかな、と涼介は小さく笑みを浮かべ、ウインカーを右にあげた。


「ホントにうんともすんともいいやしねぇ……」
涼介を待つ間、文太は手にしたアダルト雑誌……拓海のベッドの下から出したものをパラパラと捲り、ため息をついた。これで隠した気になっている拓海に呆れるのは、後の話だ。
何処で手に入れたか無修正のその雑誌の写真のどれを見ても、文太の股間はまったくもってどうにもならなかった。
「責任取れよ……涼介」


(終)





さな様・ミラー6226リクエスト
文涼、テーマは鏡、幸せな涼介さん

home