臆病者の恋



「もしもし、渉だけど」

気まぐれに掛かってくる電話の切り出しはいつもこうだ。
低く落ち着いた声が受話器の向こうから聞こえてくると、オレの胸は高鳴る。
臆病者の恋の時間が始まる。
「あ……はい。藤原、です」
答える臆病者のオレの声は、とても上擦っている。


「アレ、流れねーかな」
渉さんが指さした星は大きくて、ほかより目立って光輝いていた。
「そんなに都合よく流れちゃくれませんよ……」
オレは言うと、すぐ隣にある精悍な横顔をちらりと見た。
気まぐれな電話の数時間後、オレと渉さんはどこかで落ち合って二台のハチロクを走らせるのが常だ。
バトルではない。けれど、互いの成長と手の内を僅かに見せ合うような走りをする。
流すような走りから始まって、徐々にスピードを増し、少しだけ本気を出し、ここぞと思うポイントでこれという技を繰り出す。勝ち負けは特にない。
オレがプロDの遠征の度に成長しているように、渉さんも走り込みやバトルを重ね成長している。会うたびに互いのコーナリングやブレーキングは進化し、タイムは縮む。


走りこみの後、夜の峠の展望台に止めた、二台のカーボンネットのハチロク。
渉さんのレビンのボンネットに二人で背中を預け、満天の星空を見上げた。


ついさっきまで二台のハチロクがスキール音を響かせ疾駆した峠には、それまでさんざ付けられていた上に真新しいブラックマークが幾筋か仲間入りした。
「でっけえ流れ星だったら、でっけえ夢が叶いそうだろ?」
「その発想はなかったです」
「夢ねーな、お前……」
渉さんの言葉を即答で否定すると、苦笑いが返ってきた。
いつもどこか醒めているオレに比べて、渉さんはなまみで生きていてギラギラしている。
オトナなのにどこか子供っぽくて、熱くて、そうかと思うと車のことには詳しくて。オレも今まで渉さんには散々教えてもらった。ハチロクの新しいエンジンは、渉さん抜きには使いこなすには至らなかっただろう。
オヤジに言われて渋々ハチロクに乗り始めたオレと、最初からハチロクに目を付け、働いて働いてやっと手に入れた渉さんと。
なにもかも逆だった。なのに、なぜかオレ達は気が合った。
凸凹っていう字がある。あんな感じなのかもしれない。


気まぐれな電話は、オレの心をざわめかせる。
”もしもし、渉だけど”
渉さんはそんなこと、勿論知らないだろうけど。


「夢くらいありますよ……オレ、プロのレーサーになりたいですから」
「そういうことじゃなくってな、藤原……」
渉さんが起きあがった。オレも続いた。
「お前はもうちょっとギラギラしてもいいんじゃないかって思うんだよ、オレは」
おどけた渉さんの両手がオレの両頬をむにゅっと摘んで離れた。
「ギラギラですか……」
軽い痛みともいえない残感。
「いいですよ。そーゆーのは……渉さんだけで。見てるだけでおなかいっぱいですから」
オレはまた空を見上げた。


なまみで生きている。
ギラギラしている。
オレの隣にいるこの人は、彼が指さしたあの星のようだ。
「見てるだけでいいんです、オレ……」
とても眩しい


こんなに側にいるのに、言い出せない。
臆病者だな、オレ。
「欲、ねぇな」
ははっ、と渉さんが笑った。
「そういうわけじゃ……」


(見てるだけでいいんだ、オレ……)


気まぐれに掛かってくる電話。
渉さんの家の電話番号も知っているのに、オレから掛けることはない。
たまにはお前からかけてこいよと言われるけれど。
臆病者にはそんな勇気はない。



この幼い憧れを、これ以上の思いにしてはいけない。
オレが欲を出してなまみで生きてギラギラしたら、きっと渉さんのいろんなものを奪ってしまうだろうから。
渉さんが流れ星にすらなれないくらい、きっと、全部。


こんなに側にいるのにと、打ち明けられない思いでくすぶっているくらいが多分、丁度いい。


「お前、やっぱり変わってるな。ま、そこがいいんだけど……」
渉さんが笑う。
夜の峠に、昼の太陽のような笑顔だ。

臆病者は、その傍で黙って俯いているだけ。

言い出せない思いを胸に秘めて。


(終)





home