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窓の外で降り続く雨は、数日前からのものだ。
雨の日の客足は鈍い。
それはこの豆腐屋だけではなく、商品を卸す先の飲食店も同じだった。
雨が続くと客が来なくて、と得意先の居酒屋はぼやく。
明日も雨なら、文太は作る豆腐の数をまた減らすことになる。
天候には気を配って、これでも作る数は調整をしたつもりだ。
それでも売れ残った豆腐をつまみに文太と拓海は晩酌をした。
その間も窓の外では雨がざんざんと降っていた。
「荷物に気を使うから雨はヤなんだよなぁ」とぼやく拓海が、職場の友人の家に出かけるのと入れ違いに、大きな傘を差したもう一人の息子が「こんばんは」と文太を訪れる。
居間から二階の四畳半に舞台を移すと、雨音はもっと近くなる。
文太の部屋の窓は、風向きのせいでいつも雨が叩きつけるからだ。
閉めた雨戸を雨と風が揺らす。
店の前の坂道を、上から下へと水が流れる音がする。
「……何作ってんだよ」
ささくれた畳の上で新聞を読んでいた文太は、窓の際に膝を正しく折って座る涼介の、忙しない手元に目をやった。
「照る照る坊主ですよ」
「……はァ?!」
素っ頓狂な声をあげてしまった文太は、またこいつはそんな子供じみたことを、と呆れた。
いつもなら違うことに使うティッシュの箱を目の前に置いた涼介の手元は白かった。どこから出してきたのか毛糸で縛った、みまごうことなき照る照る坊主が一つ。涼介の手元にあった。
「明日、晴れたらいいなって」
涼介が文太の方を向いて微笑んだ。
「……ああ、そりゃ、晴れた方がいいけどな、ウチは」
文太は涼介の手の中の照る照る坊主を見ながら言った。
雨になると客足が鈍るのは困る。
けれど最近雨が途絶えていて、野菜が随分値上がりしていたから、農家には恵みの雨だ。
文太にしたって、卯の花炒りや飛竜頭に使う野菜が高いのは困る。だから一概に晴れたらいいとは言えない。
「オレも、雨続きだとFCが汚れてしまうから晴れた方が……」
「白はな」
ハチロクも白だが、気を遣うような車ではない。
部屋の隅の文机のペン立てからマジックを取り、照る照る坊主に顔を描きながら涼介は懐かしそうに語る。
「小さい頃、よく照る照る坊主を作りましたよ、啓介と……」
雨だと遊べないでしょう、だから、と涼介は笑った。
マジックのインクのにおいが、湿った部屋の空気と混じった。
一度だけ行ったことのある、あの広い広い家を文太は思い出した。
どれだけ稼げば建てられるのか、あんな大きな家は。
子供なら全力で駈けられそうな廊下だったし、部屋もふんだんにあった。
家の中でかくれんぼでも鬼ごっこでもすれば良さそうだが、金持ちの家にはそれ相応のものがあちこちに飾られていて、高橋兄弟はそうはいかないと厳しく躾られていたらしく、広い家だからどうにでもなるだろうというのは庶民の勝手な思いこみらしい。
あの伽藍としたリビングで親の帰りを待ちながら照る照る坊主を作る、小さな男の子二人を想像すると微笑ましくもあり、哀れでもあった。
「雨だと、庭のブランコで遊べないんですよ」
「ブランコ?」
「はい。庭の木に、父親が作ったブランコがあったんですよ。オレが中学の時に、台風で飛ばされてなくなりましたけど……」
そういえば中庭に大きな木があった。
その木の、横に延びた太い枝に、まな板くらいの木とロープで作ったブランコが吊されていたのだという。いや、あれはまな板だったと涼介は断言する。
兄弟に順番を守ることや譲り合うことを教えるつもりだったのか、それは一つだったという。
そこまで父親にして貰いながらあえてこの中年男に靡くか、と文太は会ったこともない涼介の父親に申し訳なさを覚えた。
自分は拓海にそんなことをしてやった記憶はない。
「……はい、できました」
ホラ、と涼介が文太の目の前に掲げて見せた照る照る坊主。
「……おいっ、涼介」
文太はその照る照る坊主の顔にむっとした。
細い目。目の際に皺のような筋。タバコをくわえている。
「タバコくわえた照る照る坊主がどこにいるんだ。っつか、これはオレだろ!」
「はい、正解です。これはお父さんの照る照る坊主です」
涼介は屈託無く笑った。
”お父さんの照る照る坊主”はカーテンレールに吊された。
電気を消すと、雨戸を閉めた部屋は本当に暗闇になる。
外は見えない。
音だけが頼りだ。
――まだ、降ってますね。
――止みそうにねえなぁ。
――困りますね、明日の大学の実験、晴れていた方がいいんですよ。
――なんでだ?
――精度の問題です。薬品の都合で雨だと誤差がでやすいんですよ、湿気で。
――なるほどな。
――あ、お父さん……そこ……違い、ます。
――違わねぇよ、じっとしてろ。
――だって……。
雨音と暗闇の中、言葉とは裏腹に涼介はひどく大胆に脚を開いた。
文太はいつもより優しい顔をしていた。
もう一人の息子が部屋を後にしたのは、日付の変わる少し前だった。
「……照る照る坊主、照る坊主……か」
寝乱れた布団には、去った涼介の残り香。
その上であぐらをかき、文太は真新しいティッシュで調子外れの童謡を歌いながら、もう一つの照る照る坊主を作っていた。
枕元の塵箱には情事の証の、丸めたティッシュ屑がむぞうさにつっこまれていた。
昔拓海に歌ってやった童謡を、記憶を頼りに口ずさんだ。
照る照る坊主、照る坊主。明日天気にしておくれ。
いい加減な記憶、その後が浮かばない。
文太の作っている照る照る坊主は、涼介が作ったあの照る照る坊主の横に吊される予定だ。
少し細身で、涼介が作ったものより背は高く、きりっとした顔立ち。胸には聴診器をぶら下げているような絵を描いた。
マッチの空箱の両端にペン先で穴を開け、毛糸を通し、それが照る照る坊主より少し長めになるようにして、ブランコに見立てた。雨の日でも遊べるように。
「明日天気にしておくれ、か……」
出来上がったそれを見て、文太はふっ、と笑った。
そっくりじゃねえか、と。
雨音はまだ続いていた。
あしたてんきにしておくれ
(終)
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