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午後二時の店に客は居なかった。
照明を半分にした店内で、文太は道具の整理をしていた。朝洗って裏口に干した、菜箸や鍋、杓子に晒しといった細々したものを店に戻し、乾いたのを確認し元の場所に納め、明日の仕込みに備える。
包丁の欠けを確認し、仕舞おうと棚を開ける直前、居間の電話が鳴った。
「おい、りょ……」
思わず口をついて出かけた言葉。
文太はあ、と飲み込んだ。
(そうか……居ないんだったな、アイツ……)
涼介はしょっちゅう来ていたから、手が空かないときの口癖になっていた。
「おい、涼介電話出てくれ」と言えば、いや、言わなくても。いれば涼介はさっと電話に出てくれた。
(仕方ねえな……)
まだ鳴り続ける電話に「わかってるよ」と面倒くさそうに言って。
「はい、藤原豆腐店……」
包丁片手に、文太は仕方なく電話に出た。
『明日からしばらく、この店には来ません』
寂しそうな顔で涼介が宣言したのは、医師国家試験までひと月を切った日のことだった。
当初年明けからほとんど来られなくなるとクリスマスに言っていた。
が、何かと理由を付けてはこの家に来ていた。ただ、年が明けてからの涼介の滞在時間は目に見えて短くなっていった。日付をまたぐことがなくなったなと思うと、二時間ドラマの途中で帰るようになり、夕食を終えるとすぐに帰りはじめた。
そしてとうとう、来ないと言った。
『しばらく?』
『はい……三月の末ぐらいまでは』
つい15分前までの情事の名残をとどめた彼の顔には寂しさが陰っていた。
汗で前髪が張り付いた額を手の甲で拭いながら俯いた。
試験前は言うまでもないが、その後も何かと忙しく、卒業式が終り、合格が発表になる三月の末までは来られない……と、ほぼ丸二月、文太とは会えないことを告げた。
試験が終われば暇になると文太は思っていたが、少なくとも涼介はそうではないらしい。
『そうか』文太は興味なさげにその寂しそうな言葉をかわし、乱暴に畳んだ布団にもたれ掛かり、くわえていたタバコから煙を吐き出した。だらんと伸ばした脚を組み、ふっと笑って。
『お前が来ないと静かになるな……清々するぜ』
続けた言葉は本音のつもりだった。
涼介が来なくなって、藤原家は静かになった。
お父さん、と文太を呼ぶあの背の高い押し掛け息子は、しばらく来れない証に、この家に置いていた自分の茶碗と箸を戸棚の奥にしまい込んで帰った。文太の部屋で使っていた蕎麦殻の枕も押入の奥深くに仕舞い込んだ。
『じゃあ、帰ります……』
頭を下げて、文太に軽く抱きついて。
最後に触れるだけの口づけをして。
それっきり。
涼介からは何の連絡もない。
メールの一つもよこさない。
「……飛竜頭30と豆乳が……3リットル……これにいつものが入って……はい、はい。……はい、了解」
肩に受話器を挟み注文をメモ用紙に走り書きしながら、頭の中で都合をつけていく。仕出し屋からの注文で、納品は数日後。
『無理言ってすまないね……そういえば文太さん、あのバイトの子は?』
最近声聞かないね、どうしたの、と電話口の向こうで、仲居たちの談笑笑に混じった板長の声が心配そうに訊いてきた。
「アイツは……試験とその後色々あって……だから当分来ねぇんだ」
何度目だろう、こう聞かれるのは。
既ににこの界隈で「文太さんとこの涼ちゃん」的な存在になり、すっかりこの店に根を下ろしていた涼介が藤原豆腐店に来ないことをいぶかしがる声は多かった。
『……確かお医者さんになるんだっけ』
「ああ」
『へぇ、……あの子がいないと寂しいんじゃないの?』
「いや……清々するよ。あいつが居ると騒がしくてな」
『ははっ』
酒屋とも八百屋とも同じ会話を交わした。
受話器を置いた後、文太の鼻の奥がつん、と痛かった。
店の冷蔵庫に貼ったカレンダーに、今受けたばかりの注文を書き込もうとして、文太は気づいた。
(今日が試験か……)
涼介の字で「涼介 医師国家試験」と書き込まれていた。
そういえば最後に来た日に、セックスの前に書いていた。
『落ちんじゃねーぞ』
『……努力はしたつもりですけど』
細い背中で答えながら、書いていた。
あの時だって、抱かれる前に今日が最後だと言ってくれれば、もう少し丁寧に抱いてやったものを。知らなかったから、文太の疲れもあってずいぶんあっさりと終わった。愛撫もそこそこだった。涼介に跨らせ、上で腰を振らせた。始末が面倒で中にも出さず何処にも掛けず、涼介を退かせてティッシュに吐き出した。
今頃、どこかの試験会場で涼介は膨大な数の試験問題と向き合っているのだろう。
せわしなくペンを走らせ、頭を掻き、難しい顔をしているのだろう。
六年間、この日のために大学に通っていた。いや、その前からずっとこの日のために涼介は備えてきた。備えさせられてきた。
これを乗り切れば、「医学生」から「医師」になる。
4月からは研修医になり、先生と呼ばれるのだ。
『なりたいんじゃなくて、ならないといけないんですよ。オレは……医者に』
お医者さんになるんですねとお客に言われると、涼介は決まってそう言っていた。
一度でも夢を叶えた自分とは違い、涼介は選択する余地もなく、最初からこれがお前の夢だと示されていた。
敷かれたレールの上を歩くしかない人生。
医者になんて本当はなりたくはないけれどと、あの日、文太が水を掛けた後に言っていた。
自分の人生への不安や不満から逃れたくて、涼介は自分と居たいだなんてバカなことに現を抜かしているんだと、文太は最初の内、思っていた。いや、今でもそう思っている。
けれど、
それでもいいか。
涼介がそれでいいなら、そのバカなことに付き合ってやるか。
文太がそう思うようになったのは何時からだろう。
「……頑張れよ、」
呟いて、届くわけもないのにと苦笑した。
夕食の前に、配達が一件あった。
坂の下の、年寄りの夫婦が住むしもたやだ。豆腐を二丁、二百円足らずの注文でもお客様は神様だ。
酒の入る前にと、会社から帰った拓海に店を任せてビニール袋に二丁を入れ、文太は坂道を下っていった。
冬に比べれば日は長くなったが、まだ寒さも厳しく春は遠い。ジャンパーの前を閉め、肩を竦めて歩いた。
(……涼介にやらせてたな、こんなことも……)
こんなこまごました配達も、涼介が来れば大抵任せていた。
豆腐一丁でも涼介は嫌がらずに行ってくれた。あの通りの見た目と外面の良さで涼介は何処ででも好かれ、百円の注文にそれ以上のお土産を持たされて帰ってきては文太を呆れさせたものだ。
今日は何も貰ってません、と言った口元に大福の餅取り粉をしっかりつけていて、文太が笑ったこともある。
たまに二人で行った。涼介は決まって手を繋ぎたがった。変な目で見られるからそれだけは駄目だと、文太は断固拒否した。
帰りにクレープをねだられて、根負けして買ってやったことがあった。子供の様に、とても喜んでいた。
思い出すことが多くて、感傷的になっている自分に気付く。
しもたやに行くには、坂の下の荒物屋の手前のポストを曲がるのだが、そこを曲がって少し進んだところで文太は足を止めた。
小さな神社があった。
「……まだあるんだな」
なくなるほうがおかしいのだが、思わずそう呟いてしまった。
昔から、何度か縋ったことのある神社だ。この辺りの人間なら皆一度はここに縋っただろう。
四つ葉のクローバーとかいう少女趣味なものは信じない主義だが、ちゃんと社を構えている神様なら信じてもいいだろうという、ひねくれた考えを文太は持っていた。
文太が縋ったのはこれまでに四回。
まだ二つの拓海が高熱を出して入院した時。
女房が逃げた時。
拓海の高校入試の時。
妹の所に住む母親が病気をした時。
女房が逃げた時以外は、ここの神社はきちんと願いを聞き入れてくれた。
(三勝一敗なら、優秀なもんだな……)
「…………」
文太はその小さな神社をじっと見つめ、しばらく考えた。
デニムのポケットを探ると、十円玉が一枚出てきた。
小さな神社の、やはり小さな賽銭箱の前に歩み寄り、硬貨をぽいと放り投げる。小銭は放物線を描き箱の中でチャリン、と音を立てた。
手を二度打ち、顔の前で合わせたまま、細い目を閉じて頭を下げる。
「…………」
そのまま、一分ほど。
文太は動かなかった。
「……四勝一敗で頼む」
聞こえないほど小さく、そう呟いた。
自分がしてやれることなんてこの位しかない、文太にはわかっていた。
手助けをしてやれない領域だから。
だったら、せめて、この位。
どうか、涼介を、と……文太は「神様」に縋った。
鼻の奥の痛さは、まだ取れない。
四勝一敗
(終)
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