お湯が沸くまで



「30円のお返しです、有難うございました」
いつも来る子供連れの主婦におつりと商品を渡して店の外まで見送った後、涼介は壁掛けの時計に目をやった。
午後三時。
店の客足は途絶え、4時までの約一時間、店を閉めても差し支えはない。
「お父さん、お茶にしましょうか」
店の奥で冷蔵庫の整理をしている文太に声をかけると、「ああ」と返事が返ってくる。
涼介はレジの鍵を回して居間に上り、薄暗い台所に入った。
確か頂き物の饅頭があったな、とお茶請けを考えながら水屋を開けると、空の饅頭の箱があった。
「……藤原、」
ため息をついて犯人の名前を呟いて、涼介は空き箱を破って捨てた。
文太は饅頭を食べないから、この家でそれを食べるのは、あと一人しかいない。
空き箱や空き袋になっても捨てないのは拓海の悪い癖だった。
「全く藤原は……」
難じていると、水屋の奥に、ピーナッツの真新しい袋が一つあるのを見つけた。
文太の酒のあてだが、少しくらいならいいだろう。お茶請けはこれにしようと決め、冷蔵庫脇のワゴンの上の盆に置いた。


古い雪平鍋に半分よりちょっと上、水を入れてコンロにかける。二人分のお茶なら、このくらいが丁度いい。
それに、薬缶より雪平鍋の方が早く沸くから、いつもこれでお湯を沸かしている。
この家のコンロは一口しかない。
その一口にボゥ、と火が付く。それから二人分の湯飲みを出して、急須を出して、盆にセットして……お茶の準備をする。


足音がしているな、と思ったら、文太が居間とを隔てる暖簾から顔を覗かせた。
「今、準備してますから」
急須に安物の茶葉を適当に入れながら涼介が文太に微笑むと、「ん、」と短い返事が返ってきた。
「涼介」
「……はい」

雪平の中身は、まだ沸かない。


文太が近づいてきた。
あ、と思ったら、――予告も何もなく、唇を奪われた。
「……ッ、」
涼介の細い腰に回る、文太の力強い手が、その辺りを撫で回す。
茶缶を手にしたまま、涼介は目を閉じた。
撫で方はとても優しく、――いやらしい。
タバコの味のする口付けが続いていた。入り込んでくる文太の舌に、涼介の舌は絡めとられる。
二つのそれが絡みあう。舌の裏側を刺激されると、涼介の背筋はぞくぞくと震えた。
むくむくと、下半身が期待にその形を変え始める……涼介も、文太も。
「は……、」
一瞬、酸素を求めて離れた涼介の口からは吐息とも喘ぎともつかぬ声が発せられる。
そしてまた、文太に奪われる。

茶缶を流しの縁に置き、涼介も文太の背中に手を回した。

自分よりも広いその背中に掌を泳がせる。何かを確かめるように。

口付けはやがて、貪るという言葉が似合うようなカタチに変わっていく。



雪平の中身が沸いた。

「……時間だな」
唇と手をさっと離した文太が、鍋に目をやり呟いた。
「あ……」
「濃い目でな」
茶の好みを言うと、文太は盆の上のピーナッツの袋を攫い、暖簾を潜って出て行ってしまった。


半端な火をつけられた涼介が、赤い顔をしてコンロの傍に立っている。
沸騰直前だったのに――もう少し時間があれば、最後まで出来たかもしれない。


「……水、満杯にしておけばよかったな」
コンロのツマミを切りながら、涼介はそんな子供じみたことを口にした。
そうすればもっとキスしていられたのに――と。


(終)





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