Twenty Eight
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店の前まで行きますよと言う運転手の申し出を断って、拓海は坂の下でタクシーを降りた。
大きな荷物は先に宅配便で送ったから、手荷物は肩に掛けたスポーツバッグだけだ。
「……この辺りは変わらないなぁ……」
しみじみ呟いて、拓海はうんっ、と伸びをした。
坂の下から見上げた、自分の育った懐かしい商店街。その装いは、彼がこの町を出たときとどれほども変わらない。
拓海がプロのレーサーになるべく家を出てから、もう十年近く経っていた。
幼い頃から慣れ親しんだこの坂を歩きたかったから、敢えてここでタクシーを降りた。
世界中を飛び回るレーサーという仕事柄、日本にいても群馬に帰ってこられるのはせいぜい年に一度がいいところだ。それでも拓海は時間が許せばなるべく帰省を心がけていた。
文太も年をとった。同じだけ拓海も年を重ね、三十路が近づいている。実家やふるさと、旧友が恋しくなる年になったのだ。
日焼けした顔をきょろきょろさせ、坂道の両側に軒を連ねるよく知った町並みに目を遣りながら。実家と呼ぶ存在になったあの古い豆腐屋を目指して、拓海は歩いた。
平日の昼下がり、行き交う人はまばらだ。
坂の下の荒物屋に始まって八百屋、向かいに魚屋、ハギレ屋。制服を売っていた洋品店はこの間帰った時に携帯ショップに変わっていた。向かいにしもたやを挟んでアパート、同級生の家の蕎麦屋、その隣に……。
「……げ、」
思わず顔をしかめたのは、その懐かしさを濃縮した光景のゴール地点に、あまり得意ではない人がいたからだ。
ボタン屋の隣、黄色と白の庇看板の豆腐屋の前。
古いビールケースをひっくり返した椅子に腰掛けて、ぼーっとしているワイシャツとスラックスの美貌。
「り……涼介さん、」
それでも声を掛けないわけにはいかなくて、その人の名を呼び、拓海は走った。
「……藤原」
綺麗な笑顔で、その人はこっちを向いて、拓海の名字を呼んだ。
「お久しぶりです」
「お父さんは寄り合いに行ってるんだ」
久しぶりだなよりもお帰りよりも、立ち上がった涼介はまず文太のことを言った。その次に、「お帰り、藤原」と。
順番が逆だろう、と拓海は内心突っ込んだ。
この人は、いつもこうだ。
「……はぁ、」
平日の昼下がりにこんなところでボーっとするほど医者というのは暇なんだろうか、と拓海は思った。こんなことをしているから免職にでもなったんじゃないかと心配してしまう。
(相変わらずだなこの人……)
拓海は小さくため息をついた。
「涼介さん、お仕事は?」
「今日は休みなんだ」
「ああ……そうなんですか」
免職にはなっていないらしい。ちょっと、ホッとした。
何度帰ってきても、何時もこうだった。
涼介はこの店に通っていて、文太をお父さんと呼んでいて、文太に寄り添っていた。
この先、拓海が何度ここに帰ってきても、きっとこの構図は変わらないだろう。
それでも、自分が世界中を飛び回るレーサーの仕事に気兼ねなく打ち込めるのは、涼介が文太の隣にいてくれるからだ……という事実があるのを、拓海は最近認めざるを得なくなっていた。
「涼介さん、オレの荷物、昨日辺り届いてると思うんですけど」
「ああ、届いてる。中でお茶にするか」
「はい」
先に立って店に入る涼介の後について拓海は約一年半ぶりに実家に帰った。
(……懐かしいな、)
油と豆が凝縮された店の匂いにつつまれ、拓海はホっとした。昔は豆腐臭いとからかわれるのが嫌だったが、今はこの匂いが懐かしく恋しい。
「あ、ショーケース……」
「ああ。新しくしたんだ。前のじゃ狭くなってさ。商品が増えたんだ」
涼介が真新しいショーケースを軽くたたいた。
ショーケースは幅広のものになっていた。新商品の「枝豆入り絹豆腐揚げ」のところが空になっていて、完売御礼の札が掛かっている。
外見は相変わらず古い豆腐屋だが、文太の腕前がいいのか、最近の本物志向ブームやお取り寄せブームに乗ったのか、どうやらそれなりに繁盛しているらしい。
「へぇ、ウチ結構流行ってんですね」
「まぁな。お父さんの商売っ気のなさは相変わらずだけど」
涼介は肩をすくめて小さく笑った。
大方いろいろ涼介がアドバイスしているんだろうと、拓海には分かっていた。
先に送っておいた荷物や土産の詰まった嵩高の段ボール箱が居間の隅にどんと置かれていた。
「藤原、今度は長くいられるのか?」
居間の明かりをつけながら、涼介が訊いた。荷物の多さにと帰省期間の長さは比例する。
「そうですね、一週間はいられるかな……同窓会とか友達の結婚式もあるんで、ちょい荷物多めなんですよ」
たかが一週間の帰省にしてはずいぶんと多い荷物だが、同窓会で友人たちに配る土産や、結婚式で着るスーツが詰まっているからこの嵩になったのだ。
「そうか。この間は半日もいなかったもんな……」
「この間ったって、一年半も前ですよ?」
靴を脱ぎながら、拓海が苦笑した。
「そうだったか?」
「そうですよ」
この間が軽く一年前になるのは、それだけ涼介も年を重ねたということだ。
拓海は居間に上がり段ボール箱の封をはがし、文太とご近所用のいくつかの土産物の袋を取り出した。
「あ、涼介さん聞きました? イツキ、結婚するんです」
「ああ、聞いたよ。あいつも今じゃ武内土産物店のいい若旦那じゃないか」
「イツキの奴、結局和美ちゃんを口説き落としたんだから、すごいもんですよ。あれはもう執念っていうか……」
「ハハ……」
拓海は先月ドイツ滞在時に掛かってきたイツキからの超早口の国際電話で、二人の結婚を知った。式は半年後だという。今は二人で渋川市内にアパートを借りて住んでいて、夫婦(?)でイツキの家の土産物屋を手伝っている。
「今回の同窓会の主役はオレじゃなくてイツキですよ」
「だろうな」
周りは少しずつ片づいていく。健二は二年前に、池谷も去年結婚した。今年はとうとうイツキだ。
(……執念っていえばこの人もそうだよな)
袋をちゃぶ台の上に置きながら、拓海はちらっと上目づかいで涼介を見た。
寄り添っていると言えば聞こえは良いが、言い方を変えれば文太に執念深くつきまとっている訳だ。文太はその涼介の執念に根負けして相手しているのだ。
「藤原はお茶が良いかな、それともコーヒーに……」
「あ、オレ先に二階に行きますから。お茶、後で良いです」
台所に入りかけた涼介に、拓海が言った。
「ちょっと捜し物があるんで……」
「わかった。じゃあ、藤原が降りてきたらにするよ」
階段は相変わらず古く急だ。
三段目がやけにきしむところも変わらない。拓海が中学の時に階段の壁に貼った、雑誌の付録のガンダムのポスターがまだそのままになっていて、色あせていた。
「……部屋はそのままか」
階段を上がってすぐ右側の自分の部屋に入ると、家を出たときと同じままだった。ベッドも机もそのままだ。
「あー、……さすがにあっちはちょっと変わってるかぁ」
窓から外を見ると、町並みが一望できる。
この辺りはあまり変わらないが、少し向こうを見ればマンションやアパートだらけになっている。全国チェーンの店も増えた。昔は見えていた銭湯の煙突が見えなくなっていた。
「……なんか切ねーな……」
一人ごちて、ふと本棚に目をやると、拓海はおもわず「げっ」と顔をしかめた。
家を出るときにはほとんど空っぽにしていった筈の、拓海の本棚。
半分以上、本が詰まっていた。
下の方から、重厚な本がきれいに並んでいる。
「標準内科学」「カラー人体解剖」「ヒューマンボディ」と、背表紙に書かれた文字を見れば誰のものだか一目瞭然。
(……涼介さん、この部屋使ってんだな……)
この前……一年半前には部屋に入る時間もなかったから確認しなかった。その前、二年前には確かにそんなものはなかった。
どうやらここ二年ほどの間に、涼介はこの家のこの部屋に仕事の本を置くような生活をするようになったらしい。
つまりは、この家で頻繁に寝泊りをしているということだ。
(ま、いいけどさ……あの人たちは今更だし)
自分も人のことはいえた義理ではないからな……と、拓海は自嘲気味に笑った。
拓海は半時間以上も二階から降りてこない。
手鍋に水を入れ、茶菓子の用意をしていた涼介だったが、降りてこない拓海にしびれを切らし、二階へ上がった。
「何、探してるんだ」
涼介が襖を開けて覗くと、背中を向けた拓海が小さな段ボール箱を脇に置き、何かを広げていた。
「ああ、オレの小さい頃の写真ですよ。雑誌の取材で、オレの今までを振り返るって言うのがあって……」
振り返った拓海の手には、アルバムからはがした写真が何枚か握られていた。
レーサーになった拓海は、同じ時期にデビューした啓介と並び、今やひとかどの地位を築いている。
雑誌でもそれなりに大きな扱いで取り上げられるようになり、表紙を飾ったことも何回かある。
「ふぅん……藤原の写真か」
涼介は興味を持ったのか、拓海の側に来てしゃがみ込み、カーペットの上に広げたアルバムをぱらぱらとめくった。
「……これ、お父さんと藤原か?」
涼介が指さしたのは、一枚の古い写真。
「ええ、そうです」
それは今から25年も前のもの。
まだ小さい拓海を店の前で抱っこする文太だ。「拓海3歳」と文太の字で書かれた紙が添えられている。
「オレが三つだから……お袋が死んですぐぐらいですかね」
「へぇ……お父さんって昔からかっこいいんだな」
涼介がうれしそうにぱっと顔を上げ、拓海に「な?」と同意を求めたが、拓海は「……そうですか?」としか言いようがなかった。
「かっこいいじゃないか、お父さん。今もだけど」
涼介の顔はにこにこしている。本気でそう思っているのだ。
「……そう思ってるの、多分世界中で涼介さんだけですよ……」
拓海は呆れながら涼介の言葉をやんわりと否定した。自分の父親を誉められるのは悪い気はしないが、それが男で、そういう関係だと知っているとなんとも微妙だ。
「この時のお父さん、幾つなんだろう」
「……オレが三つだから、28ですね」
「28、か……」
「今のオレと同じですよ」
「藤原、もうそんなになるのか?」
「ええ。だって啓介さんが今年31ですよ、その3コ下だから……」
「ああ、そうか……そういえばそうだな」
出会ったときは高校生と大学生だった上、プロジェクトDの時もまだ拓海は19だったから、未だに涼介は拓海を二十歳くらいにしか思っていないらしい。
「……28にしちゃ幼いな、藤原は。お父さんの28の時の方が貫禄がある」
「悪かったですね」
悪気のない悪口を言われ、拓海はむっとした。女性なら喜ぶところだろうが、職業人の男としては喜んではいられない言葉だ。
年相応に見られた方が嬉しいし、もっと貫禄が欲しい。脂が乗った、と言われたいところだ。
「オヤジの28とオレの28とじゃ、時代も違うから……」
曖昧にごまかしながら、拓海はくだんの古い写真を見た。
確かに今の自分より、幼い拓海を抱いた写真の中の文太は貫禄もあるし堂々としている。今の大人の精神年齢は昔の七掛け、八掛けだと雑誌で読んだことがある。
同じ28でも、幼子を抱え、店を一人で仕切っていた文太と違い、自分には独身の気楽さが表にでているのかもしれないな、と思った。
28の文太は、まさか50を過ぎた時には血も縁もつながらない男がお父さんと呼んでいて寄り添っていることも、拓海がレーサーになっているとも想像はつかなかっただろうかなかっただろうな、と思う。
「そういう涼介さん、今幾つですか?」
「33」
「ああそうか……オレより5つ上でしたね」
33、と言った涼介だが、文太がらみのこととなると、途端に幼くなるところは相変わらずだ。
「涼介さん、オヤジの写真って持ってます?」
「ああ。持ってるよ。そんなに沢山じゃないけど」
試しに聞いてみれば、案の定の答え。スラックスの尻ポケットからパスケースを取り出し、拓海に渡した。そんなにすんなりと出てくるところに持っているのか……と、涼介の文太に対する思いの深さに薄ら寒くなる。
群大病院のドクター用IDカードの裏に、カードサイズに切った写真が入っていた。
豆腐を作る文太の写真だ。
薄暗い店で、文太が湯気の立ち上る竈の中身を長い杓でかき混ぜている。真剣な顔には熱気で汗が玉のように浮かび、シャツは濡れている。
「商店街のホームページを作るのに撮った写真だ。プロの人が撮ってくれたんだ」
「へぇ……」
道理でいいアングルだと思った、と拓海は納得した。これを涼介が持ち歩く用に撮ったのだとしたら、相当怖いところだ。
「……こうやって見たら、ほんとオヤジも年取ったなぁ」
写真を見て、しみじみ拓海が言うと、涼介が「それ、5年前だぞ」と口をとがらせて写真を奪った。
「オレもちょっとだけ、写ってるんだ。ここ……」
涼介は写真の隅を指した。
「あ、ほんとだ」
作業する文太の後ろに小さく写っているのは、目を凝らせば確かに涼介だった。
「……5年前っていうと、涼介さん……」
「オレが28の時だ」
「ああ……」
その写真の涼介は小さいけれど、とても優しい目で文太を見守っていると分かる。
5年前か、と拓海は顔を上げ、涼介を見た。
ニコニコした涼介の顔が、そこにあった。写真は小さいからあまり比較にはならないが、それでもその写真の涼介より、今の涼介の方が少しは年を取っている。
拓海が家にいて涼介をうっとおしがっていた時も、5年前も、今も。
涼介は相変わらず、文太が大好きなようだ。
「……涼介さん」
「ん?」
「あんたほんっとーに、オヤジのこと……好きなんですね」
拓海は心の底から、しみじみと言った。
「ああ。大好きだぞ」
涼介は否定などしない。
満面の笑みをたたえ、拓海の言葉を100%肯定する。
「……さいですか……ハハ……」
そんなにキッパリと言われれば、苦笑いしか出なかった。
下から「拓海、帰ってるのか、涼介、いるのか」と声がした。
文太の声だ。
ワンセットで呼ばれてオレたちは兄弟じゃないぞ、と思った拓海だったが、先に反応したのは涼介だ。
「あ、お父さんだ! 帰ってきたんだ」
ぱっと立ち上がって部屋を取びだし、狭い階段を慣れた足取りでたたたっと駆け降りていく涼介に、拓海は呆気にとられた。
「お父さんお父さんお父さんって、あの人はホント……」
ま、おかげでオレはレーサーに打ち込めるんだけどな、と拓海は苦笑した。
拓海のジャケットのポケットで、携帯が震えた。
「啓介さん……」
北海道にいる啓介からのメールだった。
チームの合宿が終わった、拓海に早く会いたいというメールだ。ストレートな内容の愛しい人からのメールに、拓海は顔がにやけるのを隠せなかった。
(そーゆー素直なトコが可愛いんだよなぁ、啓介さんって)
啓介のことは、まだ文太と涼介には内緒だ。啓介が文太と涼介のことを知ったのは4年くらい前だ。昔から鈍感だった啓介は二人のことを露ほども気づかなかったと大いに驚いた。
そして拓海が三十になったら、二人に自分たちのことを打ち明けようと話し合い、約束した。
(あと二年か……きっとどっちも続いてるよな……)
拓海は二年後のことを考えたが、少なくとも文太と涼介に自分たちのことを反対される筋合いはないな、と思った。
「藤原、ボタン屋さんのお土産どれだ?」
下から涼介が叫んだ。
「あ、今行きます……」
拓海はアルバムを伏せ、部屋を出た。
昔の感覚で急いで駆け降りた階段は思いのほか急で、拓海は脚を滑らせ最後の三段で尻餅をつき、居間にいた涼介と文太に笑われた。
「久しぶりだな、拓海。相変わらずボーっとしてやがるな」
涼介の隣で腕組みして笑った文太の顔は、記憶より更に皺が深く刻まれていて、頭には白いものが増えていた。
「……ただいま、オヤジ……あいてー」
拓海は不恰好を晒し痛みに顔をしかめながら、文太に挨拶をした。
(終)
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さな様・ミラー9559リクエスト
9+5+9+5=28、テーマは28歳、文太さんが28歳でも涼介さんが28歳でも拓海君が28歳でも
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