聖域(サンクチュアリ)



藤原豆腐店に来る郵便の種類は限られている。
請求書とダイレクトメールと、お取り寄せをした遠方の客の「美味しかった」という礼状が殆ど。
今日はそれ以外の郵便が届いた。ドイツからのエアメール。差出人は拓海。
薄い便箋にぎっしりと詰まった近況報告と何枚かの写真。
家を出る前は表情の薄かった拓海も、海外での暮らしが長くなったせいか近頃の写真は外国人のチームメイト達と同じように、思い切り笑った顔になっていた。


「お父さん、」
近所の洋品店への配達から戻った涼介は、ただいま、と言いかけて口を噤んだ。 居間でこちらに向けた背中を丸めている文太が目に入り、その脇のエアメールの封筒に気づいたからだ。
拓海からのエアメールだ。


今は、ダメだな……と思った。


試しに涼介がもう一度「お父さん」と呼んでも、文太は振り返ることはなかった。


実の息子の拓海には、敵わない。
彼は文太の聖域だから。
涼介はきびすを返し、そっと店を出た。


極薄の便箋には5枚に渡って、拓海の字で近況が記されている。
有料放送やインターネットで拓海のレースは見ているし、結果も分かっている。買っている雑誌にはインタビューもよく載っている。
文太は店があり、拓海のレースをまだ一度も見に行ってやったことはない。
拓海は文太に自分で結果を知らせたいらしく、「遅ればせながら」と前置きをした上で、ここ最近のレース結果を順番に、その時の状況も詳しく報告してきた。
家を出てすぐの頃に寄越していた手紙には、海外の暮らしに不慣れで戸惑うことばかりだという内容が殆どだった。
最近はそんなことにもすっかり慣れた様子だ。「豆腐が食べたい、こっちのは豆腐もどきで味がしない」という、最初の頃の手紙に必ず入っていた文面が最近はないのがいい証拠だ。口に合う豆腐を見つけたのか、それとももうあの味を忘れたのか。
日本語に置き換えるのが面倒なのか、近頃の手紙には地名や店、スタッフの名前が現地語の綴りの筆記体でさらさらと書いてあって読めないこともある。前後のニュアンスで判断出来するが、何ホテルなのか何さんなのか、文太は時折頭を掻く羽目になる。



「あ、高橋涼介……」
「やあ。忙しそうだな」
涼介は温泉街の方に足を向け、観光客で賑わう武内土産物店で時間を潰すことに決めた。
古いけれど広い店では、関西弁のおばちゃん達が楽しそうに買い物をしている。店の隣には、観光バスが停まっていた。
エプロン姿で店番をするイツキに声をかけると、椅子を勧められて遠慮なく座った。
イツキは最近、長年勤めたガソリンスタンドを辞めた。家業のこの店を継ぐためだ。温泉街でも非常にいい場所にあり、客は多い。
「今一人なのか?」
「あ、はい。オヤジ、駅の売店に納品に行ってるんですよ。そんなのオレがやるって言ってんのに、聞かなくて……」
腰が痛い、膝が痛いと口癖の様に言ってんのに、ね、とイツキは苦笑いした。
まだまだ息子に全てを任せたくはない、父親の矜持なのかもしれない。
困ったオヤジですよ、というその顔は、いつもこの店にいるイツキの父親とよく似ていた。
「……」
涼介はうん、うん、とイツキの話に頷いていた。


拓海からの手紙には他にも、今度は何時何時帰る予定だ、一週間は滞在出来ると思う……と書かれていた。
「ほぉ」
壁掛けのカレンダーに目をくれて日付を追う。あとひと月後だ。
同封されている写真の拓海の顔は、昔より日焼けしている。心なしか、若い頃の自分に似てきたように思える。
血は争えないものだ、と思う。


そして手紙の最後には、いつもお決まりの言葉。


”酒とタバコはほどほどに。涼介さんがいるから、まぁ大丈夫だろうけど!”


「……抜かせー……」
文太は呟いて、頬を緩めた。
拓海がこの家を出ても、文太は一人ではなかった。
もう一人の……拓海の様に血ではなく、縁でもなく、けれど情では深く繋がった押しかけ息子がいる。


文太にとって、拓海とは違う次元でとても大切な存在が。


「……涼介? 帰ってねえのか?」
その涼介がいないことに気付き、文太は「涼介」と呼んでみた。
さっき任せたのは、すぐそこへの配達だ、とっくに戻っている筈なのだが。
「……またサボってやがんな、アイツ」
やれやれ、と手紙を封筒に仕舞い、行方不明の押しかけ息子を探すべく立ち上がった。



イツキの店で温泉饅頭を一つ買って、行きかう観光客に紛れ歩きながら食べていると、「こら、サボんじゃねえぞバイト!」と後ろからワイシャツの襟を掴まれた。
「……お、とうさ……」
振り返ると、涼介のワイシャツの襟を掴んでいたのは、咥えタバコの文太だ。
「油売ってんじゃねえよ、涼介」
「あ……ごめんなさい……」
だって、と涼介は家を出た理由を言おうとして……やめた。


文太の聖域を汚したくはないから。
それを口にしてしまえば、自分が酷くみじめだと思って。


「ほら、とっとと帰るぞ。まだ配達はあるんだぞ」
「はい」
180度方向転換、藤原豆腐店へと足を向ける。
「また武内の倅ンとこか?」
涼介の手の中の、半分齧った温泉饅頭が何よりの証拠。
「ええ」



半歩前を歩く文太を焦がれた眼差しで見つめながら、涼介は残りの温泉饅頭を一口に頬張った。男前らしからぬ仕草に、すれ違う観光客が涼介を見た。
拓海からの手紙を読んだからだろうか、文太の足取りが弾んでいるように見える。


(藤原には敵わないけど……オレは、オレなりに世界で一番お父さんが好きだ)
広い背中を眺めて、涼介は心の中で呟く。


自分もまた文太の聖域だと涼介が気付くのは、この三十分後。
あの家の狭い二階の四畳半で、文太にいつも以上に優しく抱かれ、言葉ではない文太の態度の片鱗で、そのことに気付く。
そして涼介は、自分の矮小さを知る羽目になる。



おとうさん、と甘えた声に、何も言わず頭を撫でてくれる、涼介の聖域。

(終)





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