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これから自分達が乗る予定の観覧車を見上げて、文太は記憶を辿った。
一番最後に観覧車に乗ったのは、何時だっただろう、と。
確か拓海が3年生の時、子供会の遠足で行った遊園地で乗ったのが最後だ。
あれから10年経った。あの時は昼間乗った。もっと小さくて古い、寂れた遊園地の観覧車だった。
今日は夜、それもベイサイドエリアにある、やたらと大きな観覧車に乗る。
「大人二枚」
ライトアップされた観覧車を見上げる文太の隣で、涼介は自分より若そうな係員に大人二人分のチケット代を払っている。
遊園地と比べると高い料金だ。
それでも、涼介は随分前からこの観覧車に乗りたがっていた。
ねだったのは涼介で、根負けしたのは文太。
いつもの構図だ。
店を終えてインプレッサを走らせ、遠路遥々この観覧車に乗るためだけに、ここまで来た。
(……ガキの来る場所じゃねえなぁ)
無精髭のざらつく顎を撫でながら、文太は感心した。
テレビで見るより、実物はずっと大きく迫力もあり、なにより見事だ。
仰ぎ見た観覧車は夜空を背景に美しくライトアップされ、ゆっくり、ゆっくりと回っている。
穏やかな凪いだ海の水面は見事なスクリーンとなり、やや歪んで観覧車の幻想を映している。
遅い時間、そして場所柄もあってか、子供の姿はない。
工業地帯のベイサイドエリアに建てられたこの巨大観覧車は、何年か前に出来た時からニュースやワイドショーで度々取り上げられていて文太も知っていた。
お父さんと一度行きたいんです。
無邪気な涼介のおねだりに、文太はまた負けた。
日付変更まで後2時間を切った時刻、このベイサイドエリアは大人の遊ぶ場所だ。
子供にはまだ早い、いや、子供には教えたくない場所だと、大人たちは思っているのだろう。
焼き鳥の屋台とクレープの屋台に挟まれ、生ビールを売る屋台が出ている。
文太がちらりと目をくれると「後で買いますか? 帰り、オレが運転しますから」と文太の気持ちを察した涼介が買ったばかりのチケットを手に申し出た。
「お前はその右側だろ」
文太はチケットを受け取り、微笑を揺らめかせた。
「はい」
涼介は笑顔で頷いた。
「カスタード生チョコイチゴミルフィーユクレープ……が、いいです」
目を細め、屋台の前の『今月のオススメ』の黒板を見て涼介が早くもメニューを決めた。
「……欲張りすぎだろ。なんだかわかんねぇ味になるぞ」
「欲張りですよ、オレは」
開き直った涼介は、文太の服の裾を引っ張る。
「乗りましょう、お父さん」
男二人、それも中年男と美貌の青年というちぐはぐな組み合わせに観覧車の乗降口でチケットをもぎる係員は変な顔一つしなかった。
ここは群馬より都会だから、きっと色んなカップルが来るのだろう。
「足元、気をつけてくださいね」
「年寄り扱いすんじゃねえよ……」
そんなやり取りをしながら遊園地のものよりも少し大きめの籠に入ると、係員が素早くドアを閉めて鍵を掛けた。
籠の中は、密室になる。
すぐにふんわりと下から持ち上げられる感覚がした。
「おい、涼介……」
「ふふっ。いいじゃないですか」
涼介は文太の隣に座った。
「普通は前だろうが。狭いだろ……」
幾ら遊園地のものより広いといったって、大人の男二人が並んで座るには少々苦しい。例え涼介が細いといっても、だ。
「オレはここがいいんです」
そう言ってきかないから、文太はまた根負けすることになる。
「……ったく……」
足も組めないほど密着されて、文太は舌打ちした。
「あ、凄い……綺麗ですよ、お父さん」
「ん? ああ……」
涼介が窓の外を指した。
籠が上昇するにつれて、さっきまでいた場所は、どんどん遠ざかり、小さくなっていく。
誰かが屋台の前で手を振っている。どこかの籠に、同行者が乗っているのだろう。
ここに来るまでに通った工場群がよく見えた。
「あそこを曲がってきたんだな」
「はい」
文太が指したのは、最後に曲がった交差点。赤い街灯がともっていて、道幅は広いがとても寂しい場所だった。
そのすぐ傍で、製薬会社の、むすうのパイプが張り巡らされた建物は白い湯気か煙かわからぬものを上げ、それが夜空に立ち上って消えていく。
「あ――……街があんな遠い……」
繁華街からベイサイドエリアに続く有料道路が、遠くで複雑なカーブを描いていた。あのカーブの向うから来たのだ。
暫くは窓から見える風景に、二人であれこれと話し合っていた。
乗る前は観覧車なんて子供の乗り物だと思っていた文太だが、いざ乗ってみると、なるほどテレビで取り上げるだけのことはある、と納得した。
「そうだ……お父さん」
「ん?」
涼介が何かを思い出したらしく、ぽん、と両手を打った。
「頂上で、キスしましょう!」
「……」
改まるからいったい何を言い出すのかと思えば。
「……涼介、お前なぁ……」
「そしたら、その二人はずっと一緒にいられるんだそうですよ!」
涼介がとても嬉しそうにそんなことを言うものだから、文太は呆れ、ため息をついて頭を掻いた。
(やれやれ……何かあるとは思ったがな……)
涼介と遠路遥々ここまで来て、何もないはずがないのだ。
(帰りにホテル位は想定してたんだがな)
そのために少し多めの金を財布に放り込んでは来た文太だったが、まさかここでキスといわれるとは思っていなかった。
「何処で聞いてきだんだ、そんな与太話」
「大学の……後輩の女の子達から」
「ずっと一緒にって、何処の神様がそんなこと叶えてくれるんだよ」
「さぁ……何かの神様じゃないですか?」
「……っつか、お前は男だろう?」
「こういうのに男も女もないと思いますが」
「……」
涼介の理屈は支離滅裂だ。
したいと思ったら、しないと気が済まないのだ。
論破するのは難しい。
「ね、お父さん。しましょう? キス……」
目を細め、涼介はいつもそうする時の様に、文太にねだった。
涼介の手が、文太の肩に乗せられた。
もうすぐ頂上だ。
涼介の顔が近づいてくる。
「……しねーよ」
不意に、文太がつっけんどんな口調で呟いた。
どん、と涼介の肩を押し、キスを拒んだ。
「お父さん?」
「しねえったらしねえぞ!」
文太が語気を強め、再度拒否した。
てっきりしてもらえるものだと思っていた涼介は、文太からの仕打ちに驚いている。
「……しねえからな」
細い目が涼介を睨んだ。
「……え……ぁ、……」
涼介はどうして、という顔で文太を見ている。
二人はそのまま、無言で相対した。
その間にも籠はゆっくりと頂上に至り、過ぎ、……下りに入った。
「あ……」
頂上が過ぎてしまい、涼介の口からはため息が知らずに漏れた。
(折角ここまで来たのに……)
しょんぼりと、萎れた花の様にがっくりとうなだれた。
(お父さんの意地悪……)
忙しい片付けの後、ここまで連れてきてくれたから、てっきりキスを赦してくれると思っていた。
なんだかんだと言いつつ、涼介の望みを叶えてくれると思っていたのに。
「ンなことしなくたって……」
文太の手が、うなだれたまま黙ってしまった涼介の顎に添えられた。
くい、と顔を持ち上げられた。
「天辺でキスしようがしまいが、お前は何処にも行きゃしねえだろうがよ……」
顔を上げさせられた涼介は、文太のその言葉にはっとした。
(……あ……)
頂上でキスをして、何かの神様に縋らなくとも、涼介は文太の傍から離れはしない。
それは涼介自身が一番良く分かっている筈のことだった。
何故なら、文太と出会った頃、最初に言ったのは涼介の方だからだ。
”お父さんとずっと一緒にいさせてください”と――。
「そうですね……」
涼介は気付かされた。恥ずかしそうにくすっと笑って、文太の肩口に頭を置いた。
「お父さんの仰るとおりです」
そして、文太の胸に手を当てる。
規則正しい鼓動が、涼介の掌に伝わってくる。
「今更ばかばかしい事すんじゃねえよ……」
苦笑しながら頭を撫でてくれる、大きな手。
涼介の大好きな人は、涼介がずっと傍にいると分かっていたのだ。なのに。
「……最後までこうしていていいですか?」
涼介が訊ねると、文太の手が涼介の冷たい耳朶を軽く触った。
「駄目ならとっくに離してるぞ、オレは……」
「そうでしたね、……」
今夜、涼介は二度も愚かな質問をした。
文太と涼介の密室を載せた観覧車はゆっくりと周る。
「後、何分くらいで下に着くんだ」
「5分くらいですかね……」
「5分か……」
後、5分。
それまではずっと、このまま。
ベイサイドエリアにある観覧車の、一つの籠の中で起きた、些末な出来事。
Ferris wheel
(End)
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