アニエス



『な、藤原……オレら、終りにしねぇ?』


寂しそうな、泣きそうな顔で別れを切り出したのは啓介さんの方だった。


啓介さんは身勝手な人だった。
オレを峠に引き込んだのもあの人だった。
付き合わねぇ? と言い出したのも、男同士だからと戸惑うオレをホテルに連れ込んで無理矢理身体を重ねたのも、一夜が明けてどんな顔をすれば良いか分からなかったオレに微笑みかけてきて、オレらってコイビトだよな? と、お揃いの指輪をくれたのも――啓介さんの方だった。



別れを切り出したのも、啓介さんの方だった。


本当に勝手な人だった。


啓介さんに別れを切り出された頃、オレはプロのレーサーとして活動していた。
高校三年生のあの日、啓介さんを秋名の峠で追い抜かなければ、絶対なっていなかった職業。


オレより先に峠に出て、オレより先にプロを目指していた癖に、――啓介さんはプロにはならなかった。


その頃の啓介さんは、その日暮らしの所謂一つのゴクツブシだった。
気が向けば働き、そうじゃなきゃ一日家にごろごろしている。
FDはすっかり埃を被っていた。
だから啓介さんの暮らしを支えていたのはオレだった。


『え、別れるって……それ、どういう……』
『だからぁ、オレら、コイビト解消ってことだよ。二度言わせんな』
遠征から戻ったオレに、啓介さんは寝起きのジャージ姿のまま、面倒臭そうに金髪頭を掻きながら告げた。
『来週にはここ引き払うから……敷金、戻ってきた分は手切れ金でお前にやんよ』
『その後はどうするんですか?』
『さぁ。なるようになるんじゃねーの』
啓介さんが住んでいたのは狭いワンルーム。ゴミのような家財道具に囲まれて暮らしていた。
家賃は最初の内啓介さんの親が、最後の方はオレが払っていた。


『んじゃあな、藤原――出てけ』
しっ、しっ、と手で払われ、オレは問い詰めることも、反論することも、ましてや縋ることも出来ずに大人しく啓介さんの部屋を後にした。

その次の週、啓介さんは本当にワンルームを引き払った。


タバコのヤニで壁紙は黄色く染まっていて、修繕箇所も多くて。敷金は戻るどころか追い金が必要で、それは勿論オレが払った。


――啓介さんはそのまま、FDと共に何処かへ消えた。


別れた日、というのは多分あの日だったのだろう。



あれからもう10年以上が経った。
別れてから7年目に、レース中のケガが元でオレは引退を余儀なくされた。
走りの世界に残る道への誘いもあったけれど、オレはそれらを断って、オヤジの豆腐屋を大人しく継いだ。


もうすぐ、オレは結婚する。
峠どころかレースどころか、車にも疎い平凡な、同い年の女性と。
知り合ったのはイツキの紹介。和美ちゃんの後輩だという。
何度か会ううちに気が合って、オヤジに相談すると早くしろとせっつかれ、結婚を申し出たのはオレの方だった。
彼女は戸惑いながらも、『もうあまり若くないし、初々しさもないけれど』と、はにかんで頷いてくれた。
笑うと笑窪の出来る、今時ブランド物のバッグ一つ持っていない地味な女性だ。
片脚を引きずるオレと、年をとったオヤジと彼女と三人で、豆腐屋を営む日々が始まった。
彼女は峠のオレも、レーサーのオレも知らない。


それが良かったのかもしれない。


過去はもう過去でしかない。


秋名のハチロク、と峠の寵児の様に言われていた頃の倍の年になった。


昔話は昔話でしかない。
今はただの、片脚を悪くした豆腐屋の跡取だ。


それでも、啓介さんが何処で何をしているのか、気にならない日はない。
街角で背の高い金髪を見かけると、つい目で追ってしまう――今も金髪でいる保障なんてないのに。
実家の病院を継いだ涼介さんも、学校の先生になった史浩さんも、誰も啓介さんの行方は知らないという。


最後の日、啓介さんは別れを切り出す前、オレと深夜放送の映画を観ていた。
観ていたというのは正確じゃないかもしれない。テレビをつけたらやっていた。それも、最後の15分くらいだ。
外国映画で、ラスト付近はBGMだけ、セリフはほとんどなかった。それを二人でぼんやりと見ていただけ。
『この子、可愛いよな。藤原みてぇだし』
啓介さんが親指の爪を噛みながら笑った。この子、と啓介さんが言ったのは、多分主役の、茶髪のショートヘアーの外国人の女の子。
オレは照れて恥ずかしくて、
『似てませんよ』と否定した。
『んなことねえよ。可愛いトコ似てる。ほら、あの不貞腐れた顔とか……』
画面の中ではその子が不貞腐れたような顔で、一人部屋で佇んでいた。
『なんていうんだろうな、あの子』
『……さぁ』



映画が終わって、テロップが素早く下から上へと流れた。
細かい字で、キャストも配役もわからなかった。なんというタイトルだったかもわからなかった。あの部屋には、新聞もテレビガイド誌もなかったから。



「ねぇ、拓海さん……後悔って、ある?」
「後悔?」
式まであと一週間と迫った日、配達に出かけるオヤジが運転するインプレッサを二人で見送っていると、彼女が不意に、そんなことを訊ねてきた。
「なんで、そんなこと聞くんだよ」
「え、だって……式まで後一週間だから」
上目遣いで、彼女は「ごめんなさい、ちょっと聞いてみたかっただけよ」と笑って謝った。
「なんか、拓海さんってそういうのあるのかなって思って……」
私は特にないけれど、強いて言うなら拓海さんともっと早く会いたかったな、と彼女は可愛いセリフを口にし、オレは照れた。
「でも、若かったら続いてなかったかもね」
「それはあるかもな」
二人でふふっと笑って、――考えた。
「オレの後悔、かぁ……そうだなぁ……」



後悔なんてありすぎる。
どうしてあの日、別れると言った啓介さんを問い詰めなかったんだろうとか。別れたくないと駄々を捏ねなかったんだろとか。
啓介さんに縋らなかったんだろうとか。



いなくなった啓介さんを探さなかったんだろうとか。



そうだ。
そもそもなんでオレを抱いたんだとか、好きになったんだとか、レーサーにならなかったんだとか……。


レーサーになっても何処か消極的で弱気だったオレは、啓介さんに、結局何も聞かないままだった。流されて、生きてきた。


「そうだなぁ」
「何かあるぅ?」
「――オレさ、昔走りやってたんだけどさ」
「うん……」
「その頃、……オレとすごく仲良かった……っていうか、ライバルっていうか……とにかくそんな人がいたんだけど、……今、連絡取れないんだ」
「ふぅん?」
「行方不明ってヤツだよ」
「え、そうなの?!」
彼女の声が裏返った。
「うん……家族も、友達も誰もその人のいる場所知らないんだ……オレ、最後に会った時に、その人にちゃんと話聞いとけばよかったかなー、って、今でも思ってる……」



インプが走り去った方向をぼおっと見ながら、オレはオブラートに包んでそんな話をした。



「ね、その人と最後に会ったの、もしかして拓海さんなの?」
「多分……そうらしい」
初めて聞く話に、彼女はちょっと驚いていた。
あのワンルームを引き払ったのを知っていたのは、オレだけだった。
「もー、そんな大事な話、なんで隠すかなぁ、拓海さん!」
眉をひそめ、彼女は口を尖らせた。
「え、なんでって……」
口を尖らせた彼女なんか見たことなかったから、オレも驚いた。



その次の瞬間。

どん、と、突然背中を叩かれた。



「うわっ……!」
突然のことによろめいて、不自由な方の足を一歩前に出したオレに、叩いた張本人の彼女はこう言った。
「だったらその人、探しに行けばいいじゃない。今からでも!」


「……え?」
「式までに、戻ってくればいいから」
彼女はにっこりと微笑んだ。
笑窪が可愛かった。


「あ……」
「後悔はない様に生きたほうがいいわよ。私たち、もうそんなに若くないんだから……」



やらない後悔と、やった後悔と。
時が経つに連れて薄れるのは後者、色濃くなっていくのは前者。



「いいのかな……」
「いいわよ。一週間くらいなら、私、お義父さんと切り盛りできる筈だから」
ホラ、早く支度して、と彼女はオレを急かした。




文字通り背中を押された。
「ホラホラ、早く出かける!」
「ちょ、ちょっと……!」
「いいから!」
彼女に言われるがまま、二階の寝室で荷物を纏めながら、オレは色々と考えた。




遅すぎた行動かもしれない。
見つかるかどうかもわからない。
もう生きていないかもしれない。
今更問い詰めたって時間は戻らない。
でも、啓介さんに会ったら言いたい、色んなことを。


どうしてオレと付き合おうと思ったんですか。どうして別れなきゃいけなかったんですか、オレら。


アンタ本当に身勝手ですよ、と。


でもそんなアンタがずっと、好きでした――今でも好きです。勿論、奥さんとは違う次元でですけれど、と。


探さなくてごめんなさい。


そうだ、それと。

あの映画の女の子は、アニエスって言うんですよ、って……。


それはつい最近、彼女が借りてきたDVDが偶然、あの映画だったから知ったこと。


啓介さん、まだ生きていますか?
そして、オレのことを覚えていますか?


ナップザックのジッパーを閉めた瞬間、ハチロクのキーと彼女の声が上から降ってきた。


「行ってらっしゃい」


(終)




home