勘違い×勘違い(かんちがいのじじょう)



何となく気になるエキゾーストが聞こえたと思ったら、案の定店の前で止まった。
気になる、というより心配な、といった方が正解だろうか。
ドアを開け閉めする音、足音。そして、耳慣れたよく通る声が店の扉を開ける音に重なった。
「よぉ、文太。久しぶりだな!」
居間の上がり口に腰掛けていた文太は、訪問客が予想通りだったことにタバコを歯がみしたまま苦笑した。
「……久しぶりだなぁ、アニキ」
「いやぁ、相変わらずだなあこの辺も……どうだ、文太、儲かってるか!」
豪快に笑う訪問客は、文太の兄の元太だった。今は群馬を離れ、東京で手広く商売をしている。
文太より2つ上で、背格好は似ているが文太より目はやや大きい。そして文太より愛想が良く、商売気もあった。
ずかずかと店に入った元太は文太の隣にどっかりと腰掛けた。
「どうしたんだよアニキ。連絡もなしに」
なんでもない日に、元太が里帰りするのは珍しいことだった。
「いや仕事で近くまで来たんでな。ちょっと顔見せだよ。商売繁盛のお礼にご先祖様に墓参りもしときたいしな」
「盆暮れにも戻らねぇアニキが墓参りなんざしたら、オヤジや爺さんが何事かって化けて出るぜ?」
「ひでえなあお前」
「だったらちゃんと盆暮れ彼岸にゃ顔出せよ、こないだも姉貴が愚痴ってたぜ」
「仕事が忙しいんだよ、オレは! それよか一本くれよ、文太」
文太が手にしているタバコを催促する元太の仕草に、仕方ないアニキだと一本をくれてやった。
「アニキ、よくタバコ切らすよなぁ」
「こちとら儲かってっから買いに行く暇もなくてな。おまえと違って」
「うるせー……」
顔を合わせると、文太は元太に一度はタバコを催促される。皮肉を言えば皮肉で返され、「アニキにゃかなわねえな」と肩を竦めた。
確かに自分で言うだけあって、元太は儲かっているようだ。いい腕時計がはまっているし、身なりもきちんとしている。裸足にサンダルばきの文太とは偉い違いだ。
「で、車見てくれってんだろ?」
訪問の真意を見抜いた文太は紫煙を吐き出しながら当てにいった。
「ご名答」
白を歯噛みし、元太がふふっと笑った。
「なんか最近、コーナー曲がる時にたまぁーに妙な音がするから文太に見てもらおうって思ってな。丁度前橋の得意先に来る用事があったんでな」
「――だろうと思ったぜ。ちょっと音変だったからな」
「え、わかったのか? さっき店の前に停めるあんだけの時間でか?」
「ああ、わかるっつうの……」
昔からこうだった。ラリーストにまでなった文太と違い、元太は車には疎かった。
「ここじゃ邪魔だから、よそでちっと見てやるよ」
よっこらせ、と文太は立ち上がった。
「文太。駐車場に二台あるけど誰のだ、あの青いの」
「ああ、新しいの買ったんだよ」
「へぇ? 拓海のか」
「いや。オレ用。ハチロクを拓海にやったんだよ」
「ええ……あんなボロいのやったのかよ」
拓海の峠での活躍など当然知らない元太は眉をひそめた。そのボロの中に搭載されているエンジンの値段を知ったら、きっとこのアニキはひっくり返るだろうな……と、文太はほくそ笑んだ。
「拓海がそれでいいって言ってんだからいいんだよ。ほら鍵よこせ」
「ん、」
文太は元太から鍵を預かると、店の隅に置いてあった工具箱を手にした。
「おでん屋の裏でいるからな。ちょっと店、見ててくれ」
「了解」
「木綿90円の絹100円だからな」
「はいはい」
手をひらひらさせる元太を残し、文太は店を出た。
元太の愛車の外車に乗り込みセルを回すと案の定で、「どこのディーラーかしらねえが雑な仕事しやがるなぁ」と苦い顔をした。



その日、レポートをゼミで一番最初に提出し、仲間より多い余暇をもぎとることに成功した涼介が、浮かれた足取りで向かったのは藤原豆腐店。
商店街のある坂の下の更地――藤原家が来客用に借りている駐車場――にFCを停め、古い店が両脇に軒を連ねる坂道を長いコンパスで早歩きした。
お父さんに会える、と思うと涼介の気持ちは急いた。最近密かにゼミ内で「高橋君がどうもおかしい」と噂されていたが、そんなことは涼介には関係のないことだった。
黄色と白の庇看板が見えると、涼介の幸せボルテージは一気に急上昇する。
ゼミのレポートと遠征と実験で三日「も」、来れなかった場所だ。
勝手知ったる何とやらで裏口から入り、台所を通って居間に至ると、上がり口に座ってタバコを吹かす文太の後ろ姿が目に入った。白めの服を着ることが多い文太にしては珍しく、今日は濃紺のポロシャツを着ていた。
幸いなことに、店に客はいない。


「お父さんっ♪」

後ろから、涼介はいつものように勢いよく文太に抱きついた――つもりだった。


「……ん?」
抱きついた相手の口から発せられた「ん?」という声は、文太のものではなかった。文太の声より、少し高かった。
文太とは違う整髪料の匂いがした。
なにより、抱きついたときの感触が違っていた。文太よりやや肉付きが薄い。首筋に小さな黒子なんてなかった。耳の形が違う。鬢の形も、違う。
(……え?)
その人に抱きついたまま、――涼介は固まった。


抱きついてから「……ん?」までの僅かな瞬間に、涼介は自分が抱きついた「文太」が、大好きな「文太」ではないと気付いた。
「……アンタ、誰だ?」
涼介に抱きつかれたまま、ゆっくりと振り返ったその人の顔。

顔は似ている。そして目も細い。

が、やはり文太ではなかった。

「おいアニキ、タイヤつるつるじゃねえか…」
タイミングと言うものは怖ろしい。
丁度その微妙な空気の中、”本物の文太”がレンチ片手に店の入り口から帰ってきた。
「アニ……」


本物の文太も、涼介と同じく固まった。


「……何やってんだ、涼介……」

「お父さん……」

文太が見たものは、自分の兄の元太に抱きついたまま固まっている涼介の姿だった。

――5分後、藤原豆腐店の居間は非常に気まずい空気になっていた。
ちゃぶ台についた元太と文太は、天と地ほどの機嫌の差があった。
「いやぁ、女子大生なら嬉しいけどなぁ、あっはっは」
と、涼介に抱きつかれたことなど大したことだと思っていないのか、頭を掻いて笑う元太に茶を出しながら、涼介はきまり悪そうに俯いた。
「す、すみません……」
元太に茶を出し、続いて文太に茶を出した涼介は、そっと上目遣いで文太を見た。
(……どうしよう、お父さん怒ってる……)
口をヘの字に曲げた文太は、腕組みをしてぎろりと涼介を睨んだ。細い目は明らかに怒っている時のそれだ。
いつもなら涼介が茶の一杯でも出せば、ありがとうよの一言もあるところだが、今日はそれがなかった。
「ま、勘違いはよくあることだからな、気にすんな、うん!」
ポンポンと涼介の背中を叩く元太に、文太は複雑な気持ちだった。
(何でオレとアニキを間違えやがるんだ、アイツは……!)
口には出さないまでも、文太のそれは明らかな嫉妬、ジェラシーだった。
(ま、抱きついただけで済んだからいいのか……)
涼介が元太に抱きついた時、勢いでキスでもしていようものなら、口の軽い元太のこと、文太はあらぬ疑い(でもないのだが)を掛けられるだろう。姉や、妹の所に住む母親にも速攻で話は行き、危うく親戚の集まりにも出られなくなるところだった。
(いや、そういう問題だけじゃねえな……)


涼介は普段、あれだけお父さんが大好きです、世界で一番、だなんていう癖に、勘違いで赤の他人(とまでは言えないのだが)に抱きついてしまった自分の不甲斐なさに落ち込み、文太の怒りに怯えていた。
(……なんでお父さんと他の人を間違えるんだろう、オレ……)
ちらりと上目遣いで見た二人は、確かに似ている。血を分けた兄弟だからだ。自分と啓介が似ているようなものだろう。
(ああ、オレってバカだ……)
はぁ、とため息をつくと、「ただいまぁ」と、間の抜けた声が店の方から聞こえた。
「拓海か!」
「あ、伯父さんお久し振りです」
会社の制服を着た拓海が戻ってきたのだ。元太は拓海を見ると立ち上がり、「久し振りだな、逞しくなったんじゃないか」と目を細めた。
「伯父さんこそ、また白髪増えました? あ、就職祝いありがとうございました」
帽子を脱いで頭を下げる甥っ子に、元太は「いや、あんな安物で申し訳ないよ」と手を振った。
拓海は元太から就職祝いにと腕時計を贈られていたのだ。
「……どうかしたの? オヤジ……涼介さん」
拓海は、元太の後ろで苦虫を噛み潰したような顔をしている文太と、その傍でがっくりと俯いている涼介に気付いた。
「べつに……」
低く、唸るように文太が何でもない、と拓海の疑問を否定した。
「べ、別にっ……藤原、早く手を洗って来い」
涼介も俯いたままで否定した。
「……?」
拓海は首を傾げた。
「ああ、さっきな、このバイトの兄ちゃんがよ、オレと文太を間違えたんだよ」
拓海に自分の隣を勧めながら、元太が先ほどの顛末を語りだした。
「……間違えた、って?」
「オレを文太だと思って、あの兄ちゃんが後ろから抱き付いて来てな、まぁ女子大生に抱き付かれたんならそのまま押し倒しちまうんだけどなァ、あははは」
「…………」
元太の話に、拓海は横目で涼介を見、目が据わった。
(アホですかアンタは……)
拓海は内心、涼介に毒づいた。
よりによって文太と元太を間違えるとは。拓海もうんと小さい頃、親戚の法事で間違えて元太の膝に座って元太を父ちゃん、なんて呼んだことがあったが、それとこれとは明らかに性格の違うものだ。

(ま、ここでオヤジがあらぬ誤解を受けるのもオレ的にまずいしな……仕方ねえな、フォローしといてやるか)
拓海はため息を一つつき、ぱっと笑顔で元太に振り返った。
「伯父さん、涼介さんは小さい頃海外で生活していたんで、そういうスキンシップ過剰な所があるんですよ、だからあんまり深い意味もないんで、気にしないで下さい」
「おお、そうか、いや、あっちの人は挨拶って言うと抱きついたりするからなあ、オレもハワイに行った時、モテモテになった気分だったよ。あっはっは」
モテモテって古っ、という突っ込みはさておき。
拓海の思わぬフォローに、文太と涼介は内心、「助かった」とホッと胸をなでおろした。


「……貸しイチですからね、涼介さん」
あっはっは、と笑う元太の傍で、拓海はトイレ、と席を立つ際、涼介に囁いた。

(……この借りは大きすぎる……)
涼介は命拾いをした代わりに、偉く大きな借りを作ってしまった、と思った。


居間で4人が茶を飲みはじめて、もう半時間になる。
涼介と文太の間の空気は相変わらず微妙だった。
そんな二人をよそに、上機嫌の元太と、拓海が世間話やあれこれを話していた。
「社会人一年目なんてそんなもんだ、拓海。もっと苦労しといて損はないぞ」
「そういうもんなんですかねぇ?」
何かと厳しい会社の先輩への不満を口にする拓海に、元太が人生の大先輩としてアドバイスをする。
「学生時代のバイトとは明らかに違うもんだからな、100円を給料で貰うなら、100円の働きをしたんじゃダメってことだ。その先輩だって、新入社員時代は拓海とそう変わらなかった筈だ」
「はぁ」
「理不尽だとか納得できないと憤る前に、自分の行動を見直すんだよ。そうじゃないと進歩しないんだぞ。仕事の手際はどうだ、先輩の方がいいだろう」
「ええ、まあ確かに」
「見習うべきところは見習うもんだぞ」
商売人として大成した元太は身振り手振りを交えて拓海に持論を展開する。
「文太、父親がこういうことは言っとくもんだぞ!」
「……ん? あ、ああ……」
考えに耽っていた文太は、元太に急に振られて思わず生返事をした。
「うちのオヤジは基本、ほったらかしですから」
軽くない拓海の皮肉さえ、文太の耳には入っていなかった。
代わりに、お茶を入れ直しますと台所にそっと消えた涼介の後姿を文太は追っていた。心なしかしょんぼりとしていた、後姿を。
(……アイツ……)


「……オレってダメなヤツ……」
ため息を一つ、シンクの縁を握って、涼介は台所でしゃがみこんだ。
暖簾の向こうの居間からは、元太と拓海の笑い声が聞こえてくる。
「お父さん、怒ってるし……」
文太の不機嫌が、涼介の心にとげの様に刺さっていた。
「だってあんなとこであんな風に座ってたら、お父さんだとしか思えないし……」
口を尖らせて言い訳を一人ごちた。
あの場所は文太の特等席なのだ。いつも文太が座っているのだ。
だからそこに、あんな風に座っていれば――ましてや背格好が似ていれば、文太だと勘違いするのは当たり前じゃないか……と涼介は思った。
「涼介」
そのお父さんに名前を呼ばれ、涼介ははっとして顔を上げた。
「あ、……」
見下ろしてくる文太はやはり不機嫌そうな顔だ。
「コーヒーにしてくれ」
「え、あ、……はい」
「アニキは甘いのがいいからな。全部入れとけ。客用のカップは棚の奥にあるだろ」
しゃがんだまま、涼介は文太を見た。
さっきのはもういい、と言ってくれるのを期待して。
「あの、……オレ、」
「……気ィつけろよ」
「お父さん、」
「――間違われていい気はしねぇよ……ったく、よりによってオレとアニキを間違えやがって」
 コツン、と文太の拳骨が軽く、涼介の額に当てられた。
「ごめんなさい……」
力なく謝り、涼介は拳骨をそっと手に取り、やっと立ちあがった。
「……てめえは」
面倒なことばかり起こしやがって、と文太は難しい顔をしたまま呟いた。
「ごめんなさい、」
文太の手を握って、涼介は謝った。
「次間違えたら、承知しねぇからな……」
「はい……」
居間にいる元太が笑いながら、文太ぁ、と呼んだ。


散々喋繰って、元太は上機嫌で藤原豆腐店を後にした。
元太の車は、文太が少し弄ったが最終的には政志の店にもって行け、という話になった。
勘違いの小さな事件はそれで終わったかに見えた――が、それだけではなかった。




それから、一週間ほどが過ぎた。
元太からは、あの後政志の店に持っていったら、あちこち不具合があることが分かったという電話が文太にあった。
文太と涼介は拓海には(以前より)頭が上がらなくなってしまった。
拓海の、二人に対する視線や態度は以前より冷たいものになっているような気がする。


そんな折、二つ目の事件が起きた。


「お父さん、明後日の日曜なんですけど……」
「あん?」
文太が昼過ぎに店の掃除をしていると、昼食の片づけを終えた涼介が店に下りてきて、恐る恐る文太に声をかけた。
あの日以来、涼介は心なしかしおらしくなった。この家に来ても文太に甘えたりしないし、肉体関係を求めてくることもない。元太を文太と間違えたショックと、拓海にフォローされた事実が涼介に遠慮させているのだろう。
「どうした」
シンクを洗っていた文太は手を止め、涼介を見た。
「お店番、出来ると思ってたんですが、出来なくなってしまって……。うちの両親が親類の法事に行く予定だったんですが、どちらも仕事で行けなくなったので、弟とオレが代わりにー―」
「ああ……別に構やしねぇよ。日曜は暇だからな。行ってこい」
この日曜は文太が商店街の集まりがあって店にいない。だから涼介が、店番をすることになっていたのだ。
「どうせ誰も来やしねぇよ。明日から張り紙出しときゃ大丈夫だろ」
「はい――すみません」
ぺこり、頭を下げた涼介は「集金、行ってきます」と電話の下にぶら下げてある通い帳を手に、店を出た。
「ああ。頼んだぞ」
今日は坂の上の民宿の集金日だ。通いを手にした後姿が、心なしか……しょんぼりとしていた。


 トボトボと歩く後姿を、文太はシンクを磨きながら見ていた。
「…………まだ引きずってやがる……女か、あいつは……」
 もう、一週間も経っているというのに。
 ちっ、と舌打ちをし、力任せに水道栓を捻り、研磨剤を流した。



(……オレってダメだな……)
 通いを手に、坂道を歩く涼介は項垂れていた。
 あれから一週間。思ったより、心の傷は深い。文太を間違えてしまうなど、あってはいけないことなのだ――涼介の中では。人違いは一般的にはよくあることだろうが、誰かと「文太」を間違えるのは――涼介の中では、尤もやってはいけないことなのだ。
 文太はあの日少し怒っただけで、どこかのイヤミな教授の様に、そのことをいつまでもネチネチ言ったりはしない。恐らくはもう、気にしていないのだろうが、涼介はまだあの日のことを引きずっていた。
「アニキっ!」
後ろから掛けられた、聞きなれた声に涼介が立ち止まって振り返った。
「ああ……啓介」
「やっぱアニキだった! 家にいないから、こっちかなって思ったんだ!」
 少し息を弾ませて坂道を駆けてきたのは、弟の啓介だ。
「ちゃんと、行って来たんだな」
 涼介は啓介を頭の上からつま先までまじまじと見、うん、と頷いた。今朝、日曜日に二人で親の名代として法事に行くことが決まり、涼介は啓介に行けと命じた場所があったのだ。
「ああ、行って来た。だからこうなんだよ。な、アニキ、どう?」
 啓介はニコニコと、自分の頭を指差して尋ねた。
「うん――いいんじゃないか」
 涼介はそれだけ答えると、踵を返して「じゃあ、オレはバイトの途中だから」と坂道を登り始めた。
「ええーっ、反応それだけかよぉっ! アニキっ」
「オレは今仕事中なんだ!」
 背中に投げかけられる声に、涼介は冷たくそう言い放った。
「ちぇっ! アニキのケチー」
「法事の度に大騒ぎするようなのは困るんだがな、大学生として」
「いいよッ、オレ藤原に遊んでもらうから」
 啓介は涼介が構ってくれないと分かると、元来た坂道を下っていった。


「何だよアニキ……最近つれねーのっ……」
 頬を膨らませたまま、啓介は坂道を下っていった。その先に拓海の家――藤原豆腐店がある。最近、啓介がよく訪れるようになった場所だ。
 その理由はきわめて簡単で――要は拓海と、男同士だが「恋人」になったからだ。藤原豆腐店に行くと、兄の涼介がしょっちゅういる。どういう訳かは知らないが、涼介は拓海の家で「バイト」として働いているのだ。
「お邪魔しまーす……」
 啓介が覗き込むと、店の中には誰もいなかった。が、啓介は勝手しったるなんとやらで、裏口に周ってそこから上がり、居間を抜け、拓海の部屋に入った。
「藤原、まだ仕事だっつってたし……待ってるとするかぁ」
 拓海の部屋のベッドにごろんと横になり、啓介は目を閉じた。何度も来ているから、すっかり慣れていた。
「……あー……ねむー……昨夜もオールしたしなー……」
 軽い睡魔が、啓介を襲った。目を閉じたまま、啓介は知らずに――眠りに落ちた。


「涼介? 帰ったのか?」
啓介が店を覗き込んだ時、裏口から居間に回った時。文太は店の隅の大型冷蔵庫の整理をしていた。階段を登る、トントンという足音に文太が気付いて居間を見ると、涼介らしい長身の黒髪が階段を登っていくのが見えた。涼介、と声を掛ける前に、パタンと襖の閉じる音がした。
「なんだ、ただいまも言わねぇで……」
涼介らしくない、と文太は「涼介」の後を追い、居間に上がって階段を登った。
「おい、涼介――」
集金したならカネはレジに入れろ、と言おうと文太が自室の襖を開けたが、――涼介はいなかった。
「……あ?」
狭い四畳半、あの大男が隠れるスペースなどあるわけもない。
「涼介?」
まさか、と思って今度は向かいの拓海の部屋の襖を開けると――。
「なんだ、こっちにいやがったのか……」
文太はふん、と息を付いた。
「涼介」は、拓海の部屋で、窓際にあるベッドに横になっていた。
「こら、涼介」
 文太は「涼介」に近づいた。目を閉じ、静かに寝息を立てて「涼介」は眠っている。
「……仕方ねえやつだな……全く」
 何のつもりで拓海の部屋で眠ったのか。涼介が自分の部屋で寝ていると知ったら、拓海はあまりいい顔をしないだろう。ただでさえ、拓海は涼介に(そして文太にも)冷たいのだから。
「しゃーねーな……あっちに寝かせるか……」
文太は「涼介」の膝の下と背中に手を入れると、うんしょ、と持ち上げた。上背は文太よりあるが、体重は思いのほか軽いのだ。豆腐屋は以外に力仕事だから、この位は大したことはない。
(あっちに寝かせて……ちょっと位は可愛がってやるか……)
静かな寝顔を見て、文太はこの後のことを考えた。
元太と文太を間違えた日以来、涼介は反省しているのか遠慮しているのか文太を求めてこなくなった。
(そんなに怒ったつもりはねえんだけどなぁ……)
文太の部屋に寝かせて、店の掃除に仕舞いをつけたら半じまいをして、それから寝ている涼介の服を脱がせて――と、考えながら足で行儀悪く襖を開けると、


「お父さん」
「……あ?」


通いと封筒を手にした「涼介」が、もう一人――そこに立っていたのだ。
「……え?」
文太は軽く混乱した。
今、文太が抱き上げているのは、確かに「涼介」だ。しかし、目の前に立っているのも、また「涼介」なのだ。
「涼介……? あ……え? ちょっと待てよ、お前……え、オレは今……ん?」
文太は、目の前にいて不思議そうに首を傾げる「涼介」と、腕の中で眠る「涼介」を何度も見比べた。
「いや、待てよ、なんでお前がそこにいるんだよ、え、だってオレは今お前を……」
こうやって抱き上げているのに、と。
混乱する頭で、しどろもどろになりながらも文太はこの状況を理解しようとした。
「――あの、お父さん……」
目の前に立つ「涼介」が、申し訳なさそうに、文太の腕の中の「涼介」を指差した。



「それ……オレじゃなくて、オレの弟の、啓介なんですけど……」

「何ぃ?」 

だって黒髪じゃねえか、と文太が言い掛けた。
「啓介、髪を……黒く染めたんです。法事に行くから……」
涼介が先に理由を述べた。
そうだ。
「……法事、か」
二人で行くと、言っていた。



文太は腕の中の「涼介」をまじまじと見た。
確かに、涼介に似てはいる。が、よく見れば――涼介ではなかった。

「ホントだ……」

髪は黒いものの逆立っているし、顎が涼介より少し尖っている。耳の形も違うし、睫の長さも違う。
そう、涼介によく似てはいるけれど――涼介ではなかったのだ。
「あ……」
文太が間違いに気付いた時、階段の下から「あああっ!!!!」と、拓海の絶叫が聞こえた。
「オヤジっ! 何啓介さんにまで手ェ出そうとしてんだよっっっ!!!」
二人が振り返ると、階段の下で額に青筋を立てた拓海が真っ赤な顔をしていた。



「……何だ、その……悪かった……な」
「いえ……別に……」
 文太の腕の中でぐーすか寝ていた啓介は、拓海によってたたき起こされた。まだ寝ぼけて状況が上手く飲み込めない啓介を、「大事なもんなくしますから、早く行きましょう、啓介さん!」と失礼な言葉を残し、拓海が引っ張って行き、ハチロクは唸りを上げて坂道をダウンヒル。何処かへ行ってしまった。
 残ったのは、お互い人違いをした文太と涼介。
 きまり悪そうに背中合わせで、居間の畳の上に座っていた。
「悪かった、本当に……」
「そんな、最初に間違ったのはオレですから……」
謝罪の言葉は交互にエンドレス。



勘違いは二度、重なった。
二人とも、一番大切な人であるべき存在と、他人を間違えてしまった。
お互いに対する申し訳なさで、暫くの間二人はぎこちなかったという。
勘違いにまつわる、藤原家の小さな事件、二つ。

(終)





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