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ドアートリムに放り込んでいた携帯がピリリと鳴り始めた時、文太の運転するインプレッサは目的地まで後数百メートルの地点で信号待ちをしていた。この信号を超えて角を曲がれば、今宵の目的地、日付変更までの数時間を涼介と過ごすホテルがある。
「あ、電話」
ナビシートに浅く腰掛けて、さっきドライブスルーで文太に買わせたシェイクのストローを咥えていた涼介が電子音に気付いた。
「ん」
特に何も考えず、文太は携帯を取り出した。
どうせ電話の相手は拓海からか、政志辺りだろうと思ったからだ。
しかしシェルを開いてディスプレイに表示された番号を見た瞬間、文太の顔は一気に複雑なものとなった。
「……」
相手の名前は登録していない。しかし、番号は記憶していた。
「お父さん?」
鳴り続ける携帯を手にしたまま、信号はとっくに青なのに固まったままの文太に、涼介が心配そうに声を掛ける。
何時までたっても動こうとしないインプレッサを、クラクションを鳴らしながらシルビアが追い越していった。
――どうしてこのタイミングなんだ……。
ち、と舌打ちをしたいのを堪え、文太は仕方なく通話ボタンを押した。
インプレッサはゆるゆると走り始めた。
「――もしもし」
低く、唸るように切り出すと、
『あ、もしもし……文太さん? あたし、だけど』
僅かな間だが、情を掛けた女が、昔と変わらぬ優しい声で文太の名を呼んだ。
「……」
漏れ聞こえた女の声。
文太さん、と呼ぶその声に反応したナビシートからの視線が痛いのは、文太の気のせいではなかった。
インプレッサは当初の予定を変更し、前橋インター近くのファミレスの駐車場へと向かうこととなった。
ファミレス自体に用があるわけではない。その駐車場で、文太は先ほどの電話の相手と待ち合わせをすることになったからだ。
気なんか遣うな、と断る文太に、電話の相手の女はどうしても、と縋る様に押し切った。
通話を終えた文太はため息を一つ零した。
そして実に歯切れ悪く、ナビシートの"息子"に、ホテルより先に行かなくてはいけない場所があることを告げた。
「直ぐに終わるからな」
厚い手が涼介の頭を撫で、そのまま頬と顎のラインをなぞり、シェイクで冷たくなった唇を掠めた。
涼介は微笑んで「いいですよ、別に。まだ早い時間ですから」と了承したものの、――文太の態度に心中穏やかではなかった。
電話の前はあれこれと会話があったのに、ファミレスへ向かうことになった途端、文太は無言になった。
心なしか、表情が険しい。
淡々とギアを変える文太を横目で伺いながら、涼介は(何かオレに言いにくいことでもあるんだな)と、……ストレートにそのことを聞けないもどかしさに、ストローをきつく噛んだ。
シェイクはとっくに空っぽだった。
平日の夜のファミレスはそれほど客もおらず、駐車場は空いていた。
一番端にインプレッサを駐めると、文太は「待ってろ」と、涼介の頭を撫でて車から降りた。
涼介は頷いた。バタン、とドアが閉まり、文太と暫く隔絶される。
靴を脱いでダッシュボードに片足を行儀悪く掛け、後姿の文太を見送る。
店へ続く階段の所に、人待ち顔で立つ四十くらいの女性がいた。
細身で、少し髪が茶色くて、歳の割には派手目の格好をした女性だ。
ジーンズのポケットに両手を突っ込んだ文太はずんずんと歩いて、彼女に声を掛けた。
彼女は振り返り、『文太さん』と大きな声で文太を呼び、懐かしそうに笑い、身体を二つに折ってそして――文太の肩に手を置いた。
(……)
ストローを噛んだまま、涼介はその光景をじっと見ていた。
文太もさっきはあれほど無言で険しい顔をしていたくせに、肩に置かれた手を払うこともしない。
彼女と話す内に表情は和らぎ、照れくさそうに笑っている。
(あの人……誰なんだろう……)
置いてけぼりにされた涼介の心中には、嫉妬と寂しさが鬩ぎ合う。あれは、豆腐屋の客ではない。時折聞こえるイントネーションが、群馬の言葉ではない。
自分の知らない文太の過去にいた女だ、そのくらい、涼介にだって分かる。
涼介は文太と知り合って高々一年にも満たないのだ、仕方ないと分かっていても――穏やかにはいられない。
嫉妬を形に、噛み続けたストローはもうボロボロだった。
二人の会話は、10分近くに及んだ。
何を話しているのかは涼介にはわからない。けれど、悪い話ではなさそうだ。それが証に、二人ともずっと笑みが絶えなかった。
途中、彼女が文太に何かを渡した。文太はそれを一度は押し返したが、彼女が押し付け、渋々受け取った。
最後に彼女は文太に頭を下げて、階段脇に止めた赤い栃木ナンバーのフィアットに乗り、去っていった。文太は彼女の車を見送り、手を振っていた。
「待たせたな」
車を降りる時よりも穏やかな顔で、文太は運転席に戻ってきた。
「――……あれはな、」
これ見よがしにドリンクホルダーに置かれたシェイクの容器。刺さったストローの先端がボロボロに噛み砕かれている。
ぷい、と外を向いたままの涼介。片足はダッシュボードに掛けたまま。こら、と文太が叱り、その長い足を軽く叩くと、涼介は不貞腐れたように足を下ろした。
わかり易すぎるくらいの態度に文太は小さくため息をついて、種明かしをすることに決めた。
「昔……拓海の母親が逃げた後に、少しの間だがな……付き合ってた女だ」
「……」
そっぽを向いたまま、涼介は予想通りの答えに唇を噛み締めた。
(やっぱり……)
「15年くらい前か。温泉街のスナックで働いててな。あっちも、丁度旦那が女作って逃げちまって……おまけに病気の母親抱えててな。気が合った、ってのかな。半年くらい、続いたんだよ」
昔話をしながら、文太は胸ポケットからソフトケースを取り出し、一本を咥え、火をつけた。
「最初はアイツの母親を病院に入れるのに、保証人になってやったんだよ。後は……まぁ、そういうこった」
「……」
そういう、という言葉に込められた意味を理解し、涼介は目を閉じた。
女房に逃げられた男と、旦那に逃げられた女。何となく親しくなり、所謂そういう仲になった。
「オレも、なんだかんだで寂しかったんだな……オレの方に金がねえから、店に通うことはあんまりなかったけどな。あっちがウチに来てたな。一度、拓海が動物園に行きたいって言うんで、アイツが弁当拵えて三人で行ったことがあるんだ。親子みてぇにな……ま、拓海は覚えていないらしいけどな」
文太の吐き出す紫煙で、車内が薄く煙る。
涼介は相変わらず文太の方を見ようとせず、その昔話を聞いていた。
「アイツ、ちゃんとした弁当拵えてきてよ……こんな美味いいメシ作れるのに、なんでお前は捨てられたんだろうな、って言ったもんだよ。アイツも、こんな可愛い息子がいるのに、なんで旦那を捨てるんだろうねって言ってたな――」
動物園の芝生の上で、小さなおにぎりを頬張る幼い拓海を挟んで、女房に捨てられた男と、旦那に捨てられた女は涙を流した。
お互い、強がりと勢いと若さで生きていたが、僅かな間でも傷を見せ合う相手が欲しかったのだ。
「別に喧嘩して別れたわけじゃねえんだよ……アイツとアイツの母親が、母方の里を頼って栃木の方に行くからってんで、そこで終わったんだ。それからも時々電話は掛けて来てたけどよ……」
短くなったタバコを、アッシュトレイに押し付けて文太はふ、と笑った。
「今は栃木で結婚して、三人もガキがいるらしい。アイツの旦那の弟が日光でスタンドやっててな。プロDの……拓海の噂を聞いたらしいんだ。丁度用事でこっちに来るからってんで、電話を寄越してきたんだ。拓海にこれを渡してくれって……」
文太は彼女に押し付けられた熨斗袋をひらひらさせた。綺麗な字で「就職祝い」と書かれている。
「……別に、」
か細い声がした。文太は涼介の方を向いた。
「妬いてませんよ……? オレ」
精一杯の強がりを着て、涼介は微笑んで文太の方を向いた。
「あの人は、大変な時のお父さんを支えてくれた方なんでしょう? 藤原も世話になって……だったら、妬くのは違う気がします……」
「……」
「お父さんだって、あの人の大変な時に支えてあげたんだったら、それは……別に、いいことじゃないんですか……」
「……涼介、」
過去はどうしようもない。それは、分かっていることだ。
妬きたいけれど、妬くのは御門違いだと涼介は自分に言い聞かせた。
妬いたってどうしようもないのだ。
自分の昔を文太が知らないように、文太の昔を涼介は知らなくて当たり前なのだから。
涼介は文太の手の中の熨斗袋を奪い取り、「これ、飲み代にしちゃ駄目ですよ?」と冗談を言った。
「涼介」
文太の手が、涼介の頭を引き寄せた。
「……――」
涼介の唇に、文太の唇が押し当てられた。きついタバコの味と、甘く冷たい唇が重なる。熨斗袋が足下に落ちた。
「……ッ、」
優しさが唇を通して伝わってくる。それを感じ、文太の背中に、涼介の手が回る。広くて温かな背中を細い指がなぞる。
(お父さん……)
舌を絡め合う、少しだけ長い口付けを交わした。
「……強がってんじゃねえよ」
唇を離すなり、文太はふん、と笑った。
「……ぁ、」
強がりを見透かされて、涼介は瞼を伏せた。
落ちた熨斗袋を拾い上げ、きまり悪そうにナビシートに深く座り直すと、頬を赤く染めた。
「さて、すっかり遅くなっちまった……行くか?」
「……あ、はい、」
「早くしねぇと、宿泊になるな」
キーを挿し込んで回すと、インプレッサは唸りを上げる。そして当初の目的地へとノーズを向けた。
少しだけ幼さから抜け出したナビシートの"息子"のいじらしさに、文太は細い目を更に細めた。
(息子が妬くってのもなぁ……)
熨斗袋を膝に置いて外を眺める涼介に、文太はさっき彼女に言われたことを思い起こす。
文太さん、なんだか幸せそうね、やっといい人が出来たのね――と。
そう言った彼女は、ホッとした顔をしていた。
その言葉を、文太は「まぁな」と否定しなかった。
それはまだ、涼介には内緒にしておくことにした。
抱いた後で言ってやろうと――決めた。
妬くのは違う気がする
(終)
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