昼食問答
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「いつもどうも、ありがとうございましたァ」
ぺこりと頭を下げ、豆腐の入った袋を手にした若い主婦を見送ると、流石に一区切りだと文太は小さく息を吐いた。
よく晴れた日曜の昼、意外と客が多い。
店の壁に貼った温度計は、なるほど冷たい豆腐が恋しい気温を示している。水槽の中で出番を待つ四角の群は随分と減ってしまった。明日もこれくらい暑くなる予想なら、もう少し作る量を増やしてもいいだろう……と、早くも考えは明日の仕込みに至る。
「なぁ、オヤジぃ」
台所から、フライパンで何かを炒める音に混じって、拓海が呼んだ。
「もう出来るけど、食えそう?」
昼食のことだ。当初の昼食の予定時間は、後から後からだらだらとやってくる客のおかげで一時間は押していた。
「ああ。客は引けたからもう食えるぞ」
店の照明を半分にすると、文太はようやく居間に上がった。
昼食と言ったって、男二人の所帯、それも昼とくればごくごく簡単なものだ。
冷蔵庫にある野菜の端切れと特売の豚肉を炒めて、焼き肉のタレで味を付けたものと店の木綿豆腐。白米が炊きたてなだけが取り柄だ。
小さなちゃぶ台で差し向かい、どちらからともなく食べ始める。
「あのさぁ」
「ん?」
文太が二口目を口にする直前、拓海が切り出した。
「昼からインプ借りていいかな」
「どっか行く予定でもあんのか?」
「うん、ちょっと。イツキんち行って、そのまま秋名」
ハチロクは次回の遠征のため、一昨日から松本の工場預かりとなっていた。
「昼間っから秋名か」
「オヤジ知らねえの? スケートリンクの辺りが夜間工事してて片側通行になってんだよ。だから昼間に行くんだよ」
「ほう」
「な、いいだろ?」
「食ったら直ぐか?」
「うん、そのつもりだけど」
文太は壁の時計にちらりと目をくれた。
約束の時間は迫っていた。
「……メシ食って小一時間ぐらい、オレも出る用事があるんだがな」
出来るだけオブラートに包み、昼食の後の外せない用件を口にした。詳しく言えば、きっと拓海は気を悪くするのが目に見えているからだ。
「一時間くらいなら待つけど。どうせ池谷先輩の上がり待たなきゃ本格的には走らないし」
「そうか。なら、帰って来るまで待ってろよ」
文太は白飯の上に焦げた豚肉を乗せて一気にかき込んだ。
「涼介さんだろ」
「ッ……」
隠したつもりがいきなりストレートに図星を言い当てられ、文太は危うく飯を喉に詰まらせるところだった。
「なんで、」
「昨日電話してたじゃん、オヤジ」
湯飲みで口元を隠した拓海が、上目遣いで文太を見た。この場合拓海の行儀の悪さを注意すべき所だが、文太は図星を突かれてそれも出来なかった。
文太のこの後の約束は拓海の言うとおり、涼介だった。
涼介は今日、ゼミの教授の講演に同行――早い話が鞄持ちだ。官庁街のビルで市の職員向けに行われるイベントに出かけていた。行き先が官庁街ということもあって駐車場が少なく、おまけに姉妹都市提携をしている他県からの来客も多いから自分のFCで行くのは遠慮するようにと教授に言われたらしい。
『行きは教授の車に同乗させて貰えることになったんですが、現地解散なんです。帰り、迎えに来て頂けますか?』
その後のことを期待する声が受話器の向こうから文太に迎えをねだってきた。
ああ、いいぜと口では仕方なさそうに、しかし顔は少し綻んで嬉しそうな文太を、会社から帰ったばかりの拓海はちゃんと見ていたのだ。
「――別に一時間が惜しいわけじゃないけどさぁ」
空になった自分の湯飲みに急須の残りを注ぎながら、拓海はため息交じりに語尾を延ばした。
「……オヤジ、涼介さんに甘すぎじゃね?」
「……」
「オレはオヤジに送り迎えとかしてもらった記憶とか殆どねーんだけど」
拓海が急須を振る。最後の一滴がぽたり、と注ぎ口の先から湯飲みを半分満たす温い水面に垂れる。
「それだけじゃないし」
コトリ、急須がちゃぶ台に置かれた。
「あんまり甘やかしたら、あの人の為にならねえと思うんだけどさ」
拓海の言葉に、文太はぐうの音も出なかった。
淡々と紡ぎだす拓海の言葉は、全くもってその通りだ。
甘やかしているという自覚はある。何もわざわざ文太が迎えに行かなくとも、タクシーでもバスでも電車でも、涼介が出先から帰る手立ては沢山あるのだ。
いや、これに限った話ではないと拓海は言いたいのだ――分かっている。
一昨日、玄関の上がり口に座って文太に買ってもらったクレープを頬張っていた涼介に、会社から帰ってきた拓海は呆れていた。
それだけではない。
涼介のおねだりに悉く文太は弱かった。一度は断っても、いつも最後は根負けしている。
文太が涼介を甘やかしている所を拓海が見て呆れた回数は、果たして両手を何回折る回数になるだろう。
その度に文太は拓海にチクリと嫌味を言われた。オレにはそんな風にしてくんねーのにな、と。
「あの人一応、ウチのバイトだろ?」
「……まぁ、な」
とどめの一押しに、文太はかろうじてそう答えるのが精一杯だった。
「……ごっそうさん」
きまり悪そうに、文太はおかずを半分以上残して席を立った。
「オヤジ、メシ」
「置いといてくれよ。帰ったらまた食う」
白飯だけを空っぽにしたのだ。階段の所に置いてあるインプの鍵を取ると、文太は居心地の悪い視線を背中にひしひしと感じながら上がり口の隅に揃えられたスニーカーを突っかけた。
そのスニーカーも、昨日涼介が丁寧に拭いて靴紐だけだが洗って、整えたものだ。
「とっとと帰って来てくれよな。寄り道はなしで」
刺々しい言葉が背中に刺さり、文太は「ああ」と苦虫を噛み潰したような顔で、振り返らずに返事をした。
甘いのは、自分のせいだ。分かっている。今更。文太は逃げるようにインプレッサに乗り込んだ。
(終)
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