「こんにちは、配達に参りました。藤原豆腐店です」
よく晴れた、休日の昼前のことだった。
小さなビニール袋を手に、藤原豆腐店のバイトとして涼介が配達に訪れたのは、商店街から歩いて10分程のところにある古い団地の中の家だ。
「あら、悪いわねぇわざわざ」
日当たりの良い縁側に座っていたこの家の老夫人が、杖につかまってゆっくりと立ち上がる。
「こんにちは。今年も見事な藤棚ですね」
涼介は老夫人に豆腐の入った袋を渡すと、縁側のすぐ前にある、小さいが立派な藤棚に目をやった。
何せ団地のこと、どこの家も猫の額くらいの庭しかない。
が、この家には低くて小さいが手入れの行き届いた藤棚があり、今が盛りとばかりに紫の小さな花がいっぱいに垂れ、風に靡いていた。
「ありがとう、でも下手の横好きよ……お恥ずかしいわ」
恥ずかしそうに口元に手をやる老夫人の、年を上手く重ねて丸くなった可愛らしさに、涼介は目を細めた。
「何処かのお寺みたいにもっと大きければいいんでしょうけれどね、うちはこれが限界なのよ」
「そんな……大きければいいと言うものでもないでしょう」
腰を屈め、その藤をそっと手に取ると、涼介は微笑んだ。
この家は藤棚の家、とこの付近では呼ばれていた。丁度団地を南北に隔てる大通りの際にあり、藤棚の家の北側の、などと目印にされることも多かった。
通りに面した庭の藤棚は、道行く人の目を毎年和ませていた。
一昨年、涼介は文太に連れられて配達に訪れこの藤棚を知った。三度目の藤棚は、やはり美しかった。
「ちょっと待ってね。今お金を取ってくるから」
「急ぎませんので、ゆっくりで」
不自由そうに杖を突いて、老婦人は家の奥へと消えていった。
それを見送ると、涼介は再び棚へと目をやる。棚の下には、真新しい、長い縁台があった。
「今年も綺麗だな……」
涼介は腰を屈めて棚の下に入り、その縁台に腰を下ろした。垂れた藤の花が顔に掛かる。藤棚の家の藤が満開になると絹豆腐やざる豆腐が売れ始めると文太は言う。確かに丁度、暑くなり始める頃だ。
見上げると、紫と緑の隙間から昼下がりの日の光が射し込んでいて、いくらか眩しい。むっとするような藤の花と新緑の香りが、この季節の空気に混じって肺にスッと入り込んでくる。
「……絶景。」
呟いて、目を細めた。今日は天気もいい。手を伸ばして顔に掛かる藤の花を掬い、鼻を寄せて匂いを楽しんだ。
もう寒さはとっくに過去のものになり、これからは暑くなる一方だ。
「……」


――不意に、眠気が彼を包み込んだ。無理もないことだ。急患が何件もあって昨夜はろくに眠っていなかったし、今日もここへ来る前に、文太に強請って一度、抱いて貰ったのだ。


「あらあら……」
小銭を握って戻った老夫人は、どうしましょう、と杖に寄りかかって困った顔をした。
藤棚の下、縁台の上。
涼介はその長身を窮屈そうに折り畳んで、横になって眠ってしまっていたのだ。


藤棚の家からの二度目の電話に、すわ注文違いかと文太は慌てた。
が、真実を知るや否や額に青筋を浮かべ、口元をへの字に歪めて家を飛び出した。
あのねぇ、藤原さん。今、あなたの所のねえ、ほら、あの子。あの子じゃないわね、先生ね。配達にきてくだすったんだけれどもねえ、と電話の向こうで藤棚の家の老夫人は困惑と笑いを交互に織り交ぜていた。


小さな門扉を潜ると、件の藤棚が今年も見事に花を咲かせ、その名に相応しい色を枝垂れさせていた。
「おいっ、涼介」
果たして電話の通り藤棚の下で眠っている涼介を見つけ、文太は細く長い身体を揺り動かしたが、余程起きる気配はない。
「お疲れなのねぇ」
藤棚の家の老婦人が縁側に続く和室から顔を出した。
「ああ、奥さん申し訳ない……」
「いえいえ、いいのよ。この間も群大病院にね、行ったのよ。ほら、わたし膝が悪いでしょう。その時見たんだけれどねえ、先生とってもお忙しそうに走ってらしたもの」
老夫人は変に曲がってしまった自分の膝を庇うようにさすった。
白衣姿で病院の廊下をせわしなく走る涼介のことを言われ、文太ははぁ、と頭を掻いた。
そんな忙しい身の涼介に、幾ら自分から申し出てきたとは言え配達をさせた自分のせいもあるのだ。
「先生になら幾らでも休んでいただいていいんだけれどもね、虫が」
「あ……」
藤棚には毛虫がつきもので、老夫人はそれが心配なようだ。
「こっちで寝てくれれば良かったんだけど」
縁側を指差した老婦人に、文太は恐縮した。
「ちょっと待っててね、お茶をお入れするわ」
「あ、いやそんな構わないで下さい」
「いいのよ、年寄りしかいない家だもの。こんなことでもなければお客様なんてないのよ」
文太の断りをあしらい、老婦人は茶の用意の為に台所へと向かった。


「……ッったく、」
老婦人の背中を申し訳なさそうに見ながら、文太は舌を打った。
振り返ると、涼介はまだ身体を折って棚の下で眠っている。
(……来る前にヤッたのもいけねえんだろうなぁ)
涼介が店を出る少し前に抱いてやったのだ。
店も開けていたから文太はあっさりと短くしたつもりではあったが、声を殺して台所で繋がったことに涼介は酷く興奮していた。その証拠に、涼介が出した量はいつもより明らかに多かった。
「涼介」
再び揺さぶったが、まだ起きない。
と、なると――だ。
(こうなりゃ奥の手だな)
文太は仕方ねぇな、と口の中で呟いてしゃがみこむと、涼介の耳元で囁いた。
「涼介、――おい…………」


こんな時の為に、と孫娘がくれた手押しのキッチンワゴンに三人分の冷たい茶を載せて老婦人が和室へ戻ると、文太と涼介が縁側に腰掛けていた。
「あら先生、起きたのねえ」
「ああ、奥さん。申し訳ない」
文太は頭を下げた。その隣で、寝癖を付けた涼介が膝の上に手を置いて、恥ずかしそうに俯いていた。
「美味しいお茶をいれたのよ、どうぞ召し上がって」
にこにこと笑う、藤棚の家の老婦人は知る由もない。風に揺れる自慢の藤棚の下、文太が涼介に何と言って起こしたのか、涼介の赤面の訳など――何も。

(終)




Sleeping Beauty





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