|
温泉街の土産物問屋の前で彼女を見かけたのは、信司と会う少し前だった。
髪を後ろに一つにまとめ、地味な事務服を着て運送会社の運転手と立ち話している姿、それが彼女を見た最初だ。
口元に手を当てて少し笑っていた、何気ない日常の一場面。NSXで通りすがる、ほんの何秒か。歳は自分より一回りは上だとすぐにわかった。それでもひと目見た彼女に惹かれたのは、そういう性癖なのが半分と、後の半分は運命だと断言してもいい。
ロマンチスト? そんなんじゃない。それはアニキの領域だ。オレは寧ろリアリストのつもりだ。
信司と出会って、ヤツの母親が彼女だと知った時の衝撃と言ったら。
未亡人だと知った時の心の昂りと言ったら。
待ったのは30分。夕方のこの時間、勤め先の土産物問屋からここまでは結構混んでいる。待つのは苦じゃない。どうしても言いたいことがあった。一年、割と長いことモーションをかけたつもりだ。のらりくらりとかわされ続けた。メシに誘ったり、サイドワインダーの飲み会にも誘った。信司が一緒なら、信司が行くなら――と、信司を楯にされてきた。
この間もオレと彼女と信司の三人でメシを食いにいった。
信司がトイレに立ったときの彼女の視線の泳ぎようは警戒感100%だった。
もう結構限界だ。オレのキャパは自分が思うより随分と少ないらしい。
空のガレージにNSXを停めて、ボンネットに腰をかけて彼女の帰宅を待った。
女手一人といいながらも、旦那の残した家屋敷を手放さなかったのは彼女の矜持なのだろう。母一人子一人にしちゃあ、いい住まいだ。ガレージだって庭だってちゃんとしている。
二本目のタバコを靴先で踏み消して、三本目、と思ってソフトケースが空になっていることに気付いた。買いに行く時間は惜しい。多分買いに行くと入れ違いになる。逃げられるのは癪だから我慢に限る。
今日信司が一緒じゃないのは分かっていた。あいつが学校で居残りをさせられる予定なのは昨日の集まりの時に聞いていた。信司は勉強が苦手で、赤点は頻繁だ。
やがて夕暮れの住宅街に、特徴のあるハチロクのエキゾーストが鳴り響く。彼女の帰宅。同じ車でも、信司の運転とは明らかに音が違う。
「おせーよ……」
一人ごちて腰を上げると、ハチロクのノーズが角を曲がってきた。
ガラス越しの彼女はアッと驚いた顔をして、ガレージの手前で車を停めた。
「……北条さん」
割と作った笑顔で、彼女が車から降りた。
「どうしました?」
会社帰り、事務服の彼女は自分の家のガレージに我が物顔で車を停めているオレにありきたりな問いかけをしてきた。
「信司なら今日は遅いんですよ」
「――知ってるよ」
「……」
そうなのか、しらなかった。そういう返事を望んでいただろう彼女は、オレの言葉に明らかに顔をしかめた。
「何か信司に御用ですか?」
一つに纏めた髪が、首を傾げると跳ねた。
「いや。用があるのは信司じゃない」
一歩、二歩。
運転席のドアを開け、上の縁を握ったままオレと対峙する彼女に向かって歩く。
ドアは全開、いつでも乗り込んで逃げられるって算段かよ。
「じゃあ――……」
「いい加減覚えろよ。オレの名前は豪っていうんだよ」
「北条……」
「豪だよ」
一瞬だった。
オレが飛び掛ったのと、彼女がハッと目を見開いたのは同時だった。彼女は逃げようと、慌ててハチロクに乗り込もうとした。
逃がすか。逃がすもんか。反射的に後を追った。閉じかけたドアの隙間から手を伸ばし、逃げていく濃紺の事務服を掴んだ。
「い、やッ!」
ナビシートに倒れこむ濃紺を掴み、引っ張る。
「豪って言うんだよッ……!」
もう限界だった。
彼女はいつもオレを見なかった。その目は開いていながらもかたく閉じられていた。
その上何度教えても、オレの名前を呼んではくれなかった。いつだってそうだ。北条さん。
ウチの家は全員北条さんだよって言ったのに。
豪って名前があるんだって言ったのに。
教えても分かってくれないなら、見てくれないのなら。
分からせるまで。見させるまで。
「やめて……!」
クラクションを鳴らそうとする手を捉えた。細い指が虚しく空を掻く。押さえつけ、圧し掛かる。
「オレのことはどうして見ないんだよッ!」
あの人のことは久保さんどころか、時々ふざけて下の名前で呼ぶ癖に。どうしてオレのことはいつも遠慮がちに北条さんなんだよ。
信司を楯にするんだよ。
オレの気持ちに気づいているのに気付かない振りをするんだよ。
世界で一番、たちが悪いぜ。
「なぁッ……! 答えろよッ!」
「北条さ…」
抗う声すら北条さん。
「豪、だッ」
言って、北条さんとしか紡がない口を、オレの口で塞いだ。
オレから逃れた彼女の手が、クラクションに辿り着く。思い切り、叩きつける。
夕暮れの住宅街に、ハチロクの甲高いクラクションが鳴り響いた。
『目を開いて名前を呼べ』
(End)
|
home