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居酒屋の壁掛け時計は、午後九時五分前を指していた。
カウンターの向こう、大将の頭越しに見えた壁掛け時計の時刻に、肘をついて温んだビールをちびちびやりながら、遅いな……と文太は内心呟いた。
その呟きが聞こえたのか、カウンターの箸立ての横に置いた携帯が震えた。片手で開くと、メールが一件。
涼介から、『やっと病院を出ました。もうそろそろ着きます』と、やっとの到着予告だ。
「おせーよ」
声に出した途端、文太の心が落ち着かなくなった。
彼のために取っておいた、左側の空き席が気になりだした。
――呑みたいっつったのはそっちだろうが。とっとと来て、早くここに収まっちまえ。
古い布張りの椅子を手を伸ばして少し引き寄せ、文太は涼介の到着を待った。
久し振りに家ではなく、居酒屋で呑みたいと文太にねだって、今日のこの時間を指定してきたのは涼介の方だった。
文太は角皿に一本だけ残った焼き鳥に噛みついた。
肉は堅く、冷えていた。七時から、涼介をずっと待っていたせいだ。最初の一本は、あんなに熱々だったのに。
「大将、中瓶とネギマとつくね」
「あいよ」
大将に追加の注文を告げ、目の前の中瓶の残りをグラスに注いだ。威勢のいい返事と共に、奥に居るアルバイトがネギマとつくね入ります、と妙な節を付けて注文を繰り返した。
「文ちゃん、あの子まだ来ないんだねえ」
「……ん? ……ま、忙しいからな、あいつは」
中瓶の栓を抜きながら大将が時計を見て言った。涼介のことだ。
文太の返事の通り、涼介は忙しかった。
学生のときもそうだったが、医者になってからはそれ以上だ。新米の医師は、こちらが思う以上に時間と仕事に拘束されているようだ。
「そのために先に注文してあるんだよ」
「ご尤も」
大将が手を打って頷いた。
涼介が好きなコーラも、ここに来ると必ず頼む枝豆のサラダも、鮭入りの焼おにぎりも。
大将が気まぐれにしか作らない裏メニューの焼きプリンも――とっくに文太は大将に言ってある。
涼介がいつ来てもいいように。
疲れた涼介が席に座れば、それらはすぐに整えられ、目の前に出るようになっているのだ。
――とっとと来やがれよ。待つのは苦じゃねぇけどな。
九時を示す時計を見やり、文太は差し出された新しい中瓶をグラスに注ぐ。冷えたビールは細かな泡を立てながらグラスに放たれていく。
「ああ、そうだ。大将、手羽先も頼むわ。アイツにな」
「はい了解。小エビのから揚げもあるよ、今日は。いいのが入ったんだ」
「そうか……じゃあ、それも」
思い出して追加した手羽先も、大将が提案した小エビのから揚げも、涼介の好物だ。
「早くくればいいのにねえ、あの子」
大将は笑いながら冷蔵庫を開け、手羽先の準備をする。
「いつものことだよ」
文太は肩を揺らして笑った。
巡り合うまで二十三年も待ったのだ。
一時間や二時間くらい、今更どうってことはないのだ。
「早く来やがれ、バカ野郎」
ほんのり赤らんだ顔で、文太は小さく呟いた。
「ああ、いらっしゃい!」
勢い良く店の引き戸が開く音が、大将のかけ声に重なった。
つられて振り返れば、文太が待ち続けた涼介が、走ってきたのか顔を真っ赤に息を切らして入り口にいた。
「すみません、遅くなりました……お父さん」
遅れてきた微笑みは、文太が待った二時間を埋めて余りある美しさだった。
「遅ぇぞ、涼介」
文太は隣の席を叩き、座るように促した。
待つのは苦じゃない。
(終)
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