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中秋の名月は、生憎の空模様だった。
折からの長雨は折角の美しい月を隠してしまい、ローカルニュースの女性アナウンサーは寂しそうにそのことを伝えた。
天気というのは嫌らしいもので、翌日からは憎らしいほどの快晴だった。
「あ、」
二人揃って文太の部屋に入って直ぐ、カーテンを開け放した窓から見えた月に涼介が声を上げた。
「凄い……綺麗」
「ん?」
立て付けの悪い、ガラスが少しくすんだ窓。
その向こうには、秋名の商店街が坂道の両側にへばりつくように軒を連ねている。更にその向こう、秋名山の上にはぽっかりと、大きな月が出ていた。
キンと澄んだ秋の夜の空気。雨で何もかも洗い流されたから余計、美しい。満月ではないがきぱっと輝く月に、文太もほぉ、と唸った。
「月か」
「はい」
窓の桟に手を付いて、膝立ちになって月を眺める涼介の後ろで、文太がしゃがんで腕を組んだ。
「中秋の名月は今年は見られませんでしたね」
「そうだったな」
商店街の飲み屋の辺りから、酔客の笑い声が聞こえてくる。
「ガキの頃は月見団子を祀ったりしたなぁ……」
無精ひげの生えた己の顎を撫でながら、文太は自嘲気味に笑った。
文太は四人兄弟だった。団子を四人が奪い合って三方と花瓶をひっくり返し、母親にこっぴどく叱られたことがあった。
もう何十年昔の話か。
文太は拓海にはそういう行事ごとはちゃんとしてやらなかった。してやれなかった、と言うべきか。
月見もクリスマスも、この家には無縁のことだった。
行事ごとをきちんとする家に生まれ育った涼介はその辺りには敏感だ。
今でも高橋の家では、小さい子供がいるわけでもないのに家政婦が団子を拵え、庭の薄を花瓶に挿すのだという。
「――涼介」
「はい?」
文太に呼ばれ、涼介が振り返った。
薄暗い部屋はまだ明かりをつけていないが、文太の顔がよく見えた。商店街の街灯と、月明かりのお陰で。
「台所の水屋の中――見て来いよ」
「……?」
「売れ残りを押し付けられたんだけどな」
突然言われ、一瞬何のことだか分からずに涼介は首をかしげた。しかし、文太が妙にニヤニヤしているのにぴんときたのか、わかりました、と立ち上がって言われるがままに台所に向かった。
「……オレも大概甘いな」
ととととん、と身軽に階段を降りていく足音に、文太は自嘲気味に笑った。
薄暗い居間を通り台所に入った涼介は明かりを点すと、文太が言った通り、水屋の上の段の引き戸を開けた。
秀司の店の袋があり、それを探った。
「あ――……」
袋の中に鎮座していたものは、涼介を喜ばせるのには充分なものだった。
まあるい、大きなクッキー。涼介の手のひらほどもある。餅をつくウサギが二匹、アイシングで描かれていた。
二階に戻った涼介は、文太の膝枕で横になったままクッキーを頬張った。
行儀が悪い、と文太は叱ったけれど、涼介はお構い無しだった。畳に欠片を零しながら、クッキーは涼介の胃の腑に収まった。
「後で掃除しとけよ」
「わかってます」
口の端にまだ欠片をつけたまま、涼介は嬉しそうに文太の膝の上に頭を預けていた。
「でっけえガキだな……」
呆れながらも、文太は涼介の髪をそっと撫ぜた。艶やかな黒髪が、文太の指に絡んだ。
「オレ、幸せですよ」
涼介がそう言って、目を閉じた。
「あぁ……? 安っぽいな、お前は……」
甘いもん食えりゃ幸せか、と文太が笑った。
「違いますよ……そういうのじゃなくって……」
撫でられるのはいい気分だった。涼介は心地良さに目を閉じた。
――大好きな文太の傍でいる。
その文太が、自分のために自分の好きなものを買ってくれる。
わがままを赦してくれる。
だから幸せだ――と涼介は思ったのだ。
幸せも、心から笑うことも、行儀悪いことも、わがままも――涼介は文太と繋がることで知ったのだから。
雨月の後
(終)
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