詫び状(後編)
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身体に染み付いた週間という物は怖ろしいもので、目覚まし時計が鳴る一分前に勝手に目が覚めてしまう。
「……ん……もう朝か、」
まだ重い目蓋をパチパチとやりながら、目覚ましのアラームを解除すると拓海はのそのそと布団から出た。
「あ、」
襖に手を掛けたところで、昨日の文太の体調を思い出した。あんな風に体調不良を訴えていて、果たして今日、店が出来るのだろうか。
(涼介さんが仕込みはして帰ったらしいけど……)
もしかしたらまだ部屋で寝ているかもしれないと思いながら襖を開けると、階段の下、居間には煌々と明かりがつき、店の方からはいつもどおりの濃い豆乳の匂いが漂ってきた。
「拓海、起きたのか」
少ししゃがれた文太の声が、匂いに混じって聞こえてきた。
「もう起きて大丈夫なのかよ、オヤジ」
パジャマ姿のまま拓海が店を覗くと、タバコを咥えたままの文太が一通りを終えた店の片づけをしていた。
「あぁ、一晩寝たらスッキリだ」
そう言って、コタツの天板より大きな俎板を束子で磨きながら、「顔洗ってこい」と拓海を促した。
「今日はいつもより運ぶ豆腐が多いんだ。後ろに大分荷重が掛かるぞ。行き、気ィつけろよ」
「うん……」
店の隅には豆腐と水の入った配達用のケースがいつもより多く積まれている。
「なんか昼間っから大宴会らしくてな、一番上に絹ごし一段積むからな。割れやすいぞ」
「分かった……」
「ほら、とっとと用意しろ」
「あ、うん」
一晩休んでいただけなのに、文太が少し小さくなったように見えるのは気のせいだろうか。
(オヤジ、まだ本調子じゃないんじゃ……)
慣れた仕事だから上手くこなしているようには見えるけれど、本当はまだ寝ていなくてはいけないのではないだろうか。しかし、それを指摘した所で文太が素直に寝るとは思えない。
後ろ髪を惹かれる思いで、拓海は用意に取り掛かった。
洗面所に向かおうと台所に入ったところで、ふと気付いた。
「……?」
コンロの脇に置かれた小さなナイロンバッグ。
「なんだ、オレの弁当箱じゃん」
拓海が高校生の頃、学校に持って行っていた、弁当箱用のナイロンバッグだ。
一年の途中から学食ばかりになったからすぐ使わなくなって、戸棚の奥に押し込んでいたはずのものが、どうしてここにあるのだろう。
(何でこんなもの)
疑問を抱いたまま、拓海はそれを持ち上げてみた――重い。
「えっ?」
慌ててナイロンバッグに手を当てた。温かい。
「何やってんだ、拓海」
エプロンを外した文太が台所に入ってきた。
「オヤジ、弁当箱……」
「ああ、それな。今日は弁当作ったんだ。持ってけ」
「えぇっ? 弁当ぉ?」
思いもよらない文太の言葉に、拓海は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。文太は頷いた。
文太が拓海に弁当を作っていたのは、拓海が高校に入った最初の頃だけだ。弁当といっても、店のあまりものがほとんどで、毎日の様におからが入っていて辟易したものだ。
一年の夏休みからは祐一のガソリンスタンドでバイトを始め、小遣いに余裕が出来、学食に切り替えた。その方が温かいものが食べられるし、文太の手間もかからないからだ。
それが何を思って、今更弁当箱を引っ張り出してきたのか。
「毎日コンビニ弁当ばっかじゃ身体壊すぞ。遠征でも外食ばっかりなんだろ?」
「そりゃあそうだけど……」
「わかったら弁当持ってけ。その前に、とっとと用意しろ」
その日、半ば文太に押し切られるような形で、拓海は弁当を持たされた。
「藤原君、今日はお弁当なんだね」
いつもペアを組む先輩が、弁当箱を取り出した拓海に驚いていた。
「ええ、オヤジが何か急に作っちゃって……へへ」
きまり悪そうに頭をかきながら、拓海はナイロンバッグのジッパーを開けた。
昼をかなりすぎた時刻、仕事にひと段落をつけたトラックは公園の駐車場の隅で短い休憩を取っていた。昼食が終われば、公園近くの流通会社の荷受作業が待っている。
「へぇ、お父さんが。いいね」
先輩は菓子パンを齧りながら笑った。
(コンビニ弁当がよかったんだけどな…)拓海は渇いた笑いで誤魔化しながら、まだほの温かい弁当箱の蓋を開けた。
「……あ、……」
弁当箱の中身は。
ぎっしり詰まったワカメご飯。大振りな鳥の唐揚げ。厚揚げの生姜焼き。細かく刻んだ野菜がたっぷり入った厚焼き玉子。キュウリのゆかり和え。
(オヤジ……これ……)
どれも、拓海の大好物ばかりだった。
「凄いね、オトコメシって感じだね」
先輩が弁当箱を覗いてきた。
「そ・そうですかね……」
「ちゃんと味わって食べといた方がいいよ、それ。いつまでも食べられるもんじゃないんだからさ」
「え……」
コトンと軽い音を立てて、先輩が空になったコーヒーの缶をドリンクホルダーに置いた。言葉の意味を理解してないらしい拓海に、先輩はコホン、と咳払いをした。
「藤原君さ、今やってるなんとかいうのが終わったら、会社辞めて家を出て、プロになるんだろ?」
「はい……その、つもりですけど……」
会社にはまだ伝えてはいなかったが、この先輩には心を赦せているから話していた。プロジェクトDが終わったら、会社を辞めてプロのラリーストを目指すのだと。
「だったらなおさらだよ。家を出たら、もう親の作る料理なんて縁がなくなってしまうからね。どんな高いレストランに行っても、食べられないものになっちゃうんだよ」
目尻に少しだけ皺が寄る年齢の先輩は、ずっと昔に家を出たのだという。
「あ……」
言われて、拓海は気付いた。
(そうだ、オレ家を出るんだ……)
拓海が家を出ることに文太は反対していなかった。拓海がラリーストになる夢を初めて語った時、二度返事で頷いてくれた。好きにしろと言ってくれた。昔のオレもそうだったよ、と珍しく笑っていた。
(そしたらもう、これ……食べられないんだよな)
弁当に詰まっているのは、どれも拓海の大好物ばかりだ。高校時代、或いはその前、拓海の為に弁当を作ってくれても店の残り物が殆どだったが、たまに気合を入れて拓海の好物ばかりを詰めてくれることがあった。例えばサッカーの試合。受験や校外テスト。遠足。そんな時、きまってメニューは、今拓海が手にしているものだった。
(オヤジ、忘れてなかったんだなこれ……)
てっきり、文太は全て涼介に取られてしまったと思っていたけれど、そうではなかった。
拓海の好物をちゃんと覚えていて、作ってくれる「拓海の父親」なのだ。
胸の奥から、何かがこみ上げてくる。
それに気付いたら負けるような気がして、拓海は唐揚げに勢いよくかじりついた。にんにくと酒の効いた、おつまみのような唐揚げ。拓海の大好きな味が口の中にわっと広がった。
「そういうものを作ってもらえて、藤原君は幸せだと思うよ」
オレはもうオヤジもお袋も死んじゃっていないからね、と先輩は車の外を見ながら呟いた。
拓海は夢中で弁当を掻き込んでいた。
いつもより早く店を閉めた文太は部屋で横になっていた。
朝、拓海には強がったものの、いざ働き始めるとやはり本調子ではなかった。だから店売りを極力減らして休み休み、一日をやり過ごした。流石に明日にはもういつも通りだろう。
(若くねぇなぁ、オレも)
自分の体力が落ちたことに苦笑していると、通用口の戸を開け閉めする音がして、「ただいま」という拓海の声が続いた。
「オヤジ、どう?」
襖が開き、拓海が顔を覗かせた。
「ん、どうもこうも、大丈夫だぜ」
「その割には店もう閉めてんじゃん」
「今日は昼間に一杯売れたんだよ」
「……そう、ならいいけど。あ、オヤジ晩飯は……」
「ああ、残りモンで食った。お前は」
「今からイツキと約束してっから、外で食う」
「そうか」
「明日もオレ行くから、配達」
「殊勝なこったな。じゃあ頼む」
「レジ、まだ締めてないだろ? 締めとくよ」
「ああ、そういやそのままだな」
「な、オヤジ」
「あ?」
拓海が改まった。切り出す糸口を探していたようにも思える。
「……今日の弁当、ありがと。すげーうまかったから……」
珍しくしおらしい”一人息子”の言葉に、文太は”詫び状”が通じたことを知った。
「あれ、全部オレの好物だよな。オヤジ、弁当のこと覚えてくれてたんだなって……」
「忘れるわけあるかよ。オレはお前のオヤジだぞ」
「うん」
改めて言われ、拓海の心にまたこみ上げてくるものがあった。
涼介がこの家に通い始めてから、いやその前からか。拓海に構ってくれていないようで、文太は拓海を忘れてなどはいなかったのだ。
(そうだよな、オヤジはオレのオヤジだもんな……ハチロクのことだって……)
「それにな、あれは……まだ涼介にも作ってやってねえんだよ」
「……え?」
「弁当。まだ涼介には弁当は作ってやってねえっつってんだよ」
文太からの思いがけない告白に、拓海の顔がかあっと赤くなった。
「そっ……そんなの知らねぇし……」
「これからも、あれだけは涼介には作らねえよ」
「オヤジの好きにすればっ!」
照れ隠しのセリフと共に勢いよく襖を閉めた拓海が、階段を降りながら行ってくるから、と声を裏返らせていた。
「ふっ……」
布団に仰向けになったまま、文太は小さく笑った。
拓海に言った言葉に、嘘はなかった。
腐っても、拓海は文太の”一人しかいない息子”なのだ。
涼介も勿論”息子”だけれど――彼がそうしてくれと押しかけてきた、普通とは違う息子だ。
どちらが大切かなんて、二択で選ぶことなどは出来ない。
次元が違うのだから。
何度か寝返りを打って、風呂をどうするか、銭湯に行こうかと考えていたら枕元で携帯が震えた。手を伸ばしてシェルを開いて耳に当てると、『お父さん、大丈夫ですか?』と、不安そうな涼介の声が聞こえた。
「ああ、もう大丈夫だ……まぁ、本調子までもうちょっとって所か」
『さっき藤原からメールがあって、朝まで出掛けるから時間があればお父さんの様子を見ていて欲しいって……』
「……大げさなヤツだな」
昨日は涼介に当り散らしていたくせに、切り替えの早いヤツだと文太は苦笑した。
「そうだな、冷たいモン買ってきてくれよ」
『……ビールは駄目ですよ?』
「酒は百薬の長だろうが、堅いこと言うな」
『駄目です。あんまり甘くないジュースにしますね。薬も持って行きますから』
「ああ、分かったよ」
役目を終えた詫び状の入れ物は、薄暗い台所のシンクで洗い桶に沈んでいた。
米粒の一つも残さず、拓海は文太の作った弁当を食べた。そして食べ終わった後、先輩に「オレのオヤジ、普段は頑固でケチだけど、たまに優しいんですよ」と言って笑った。そのことを、文太は知らない。
(終)
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