|
声が聞きたかった。
「……もしもし、お父さん?」
校舎と研究棟を繋ぐ渡り廊下はしんと冷えていた。
昨日から降り続く雨は止む気配が無く、窓は濡れ午後の景色は滲んでいた。
大学の休憩時間、遅い昼食を済ませて廊下に出たら、思ったより時間があった。
携帯電話の発信履歴から、藤原豆腐店を選んで、コール十回。
涼介の聞きたかった人の声は、とても眠たそうだった。
『……なんだ、涼介か』
昨日からずっと靴を履きっぱなしで、足が浮腫んでいた。
大学でいつも履いていた楽なクロックスは、買い換えるタイミングを先延ばしにしていたら一昨日とうとう底が割れて使い物にならなくなったからだ。
靴を脱いで、ピータイルに足を置くと靴下越しに冷たさが伝わってくる。
あの家の台所のようだ。
「そうです。涼介です」
『なんだ、こんな時間に……』
電話の向うの文太の声は、今起きた、と言わんばかりのものだった。
「お父さん、寝てたでしょう」
『ああ』
「寝てると思いました」
『なら、起こすなよ』
ちょっと不機嫌そうな文太の声に、涼介は渡り廊下の壁に凭れかかったまま、ふふっ、と笑った。
「今日は和田商店さんと上野屋さんの集金日ですよ……お父さん、ちゃんと集金したんですか?」
『……そうだったか?』
「ホラ、やっぱり忘れてる!」
涼介は肩を揺らして笑った。
「そんな気がしてました」
薄暗い居間で転寝をしていた文太は、涼介からの電話で起こされた。
涼介に言われて、電話の下に吊ってある通い帳を捲る。
几帳面な涼介の字で、二つの得意先の名前と、何月何日集金必ず、と赤いサインペンで書き込まれていた。
『お父さんは商売っ気がなさすぎます』
「うるせーよ……」
『和田商店さんは5時までなら娘さんが居ますから、払ってくださると思います。上野屋さんも早くしないと、他所にお金を回してしまいます』
涼介が文太のところに押しかけてくるようになってから、まだそれほど経っては居ない。が、涼介は元来の頭のよさを発揮し、店主の自分よりもよっぽどしっかりと、得意先のことを把握していた。
そうかと思えば、文太にまるで子供の様に甘えてきたり、構って欲しがったりする。
「そうだお父さん、冷蔵庫にビール冷やしてありますから」
『ビール?…………』
少し間があり、文太がどすどすと歩く音、冷蔵庫を開ける音と、がちゃがちゃと冷蔵庫の中を漁る音がして、
またどすどすと歩く音がした。そして、
『一本しか冷えてねえぞ?』
と、予想していた言葉。
「はい、今日はそれだけです」
『馬鹿野郎、一本で足りるか! 野球見んだぞ、今日は』
今日は文太の贔屓にしているプロ野球チームの中継がある。三連戦の初日だ。
こんな小さな缶一本、先発投手が1イニング投げるうちに終わってしまうだろう。
「駄目ですよ、お父さん。お酒はほどほどになさってください」
床に押し当てていた足が冷えて、少し楽になってきた。涼介はまた革靴を履き、行儀悪く踵を軽く踏んだ。
「そうだ涼介、オレのタバコの残り、何処やった?」
文太は朝から探しているものがあった。
タバコをカートンで買い置きしてあったのに、何処を探しても無い。
戸棚に入れてあったはずなのに、ひと箱抜いただけの残りが丸ごと綺麗に消えている。
こんなことをするのは、一人しか居ない。
『はい、オレのFCに』
にべもなく言う電話の向うの犯人の告白に、文太はやっぱりな、と舌打ちする。
『お父さん、この間血圧測ったら高めだったでしょう。降圧剤の世話になりだしたら事ですよ』
涼介による犯行声明は、きわめて正当な理由によるものだった。
この間、とは先週のことで、涼介が血圧計と聴診器を持参し、文太の血圧を測ってくれたのだ。手際はいつも通っているやぶ医者より余程よかった。
血圧計には、レッドサンズの小さなステッカーが貼ってあった。
涼介は昨日から大学に篭っていたが、今朝方、同級生達が仮眠を取っている中、そっと抜け出して藤原豆腐店に行った。
朝と呼ぶには早すぎる、それでも藤原豆腐店はとっくに一日の営業を始めている時間だった。
文太はレイクサイドホテルに豆腐を卸しに行っており不在で、インプレッサごといなかった。
拓海も早番で出勤した後だった。拓海が半分食べた菓子パンが卓袱台に転がっていた。
お腹がすいていた涼介はそれを胃の腑に収め、冷蔵庫に缶ビールを一本入れ、通いに今日の集金予定先を書き込んで、戸棚の買い置きのタバコをカートンごと攫った。
配達されたばかりの新聞の、ラテ欄をチェックして、文太の好きな野球チームの中継があるのをチェックし、わざと新聞のそのページを広げて、ちゃぶ台の文太の座る定位置に置いてきた。
そして藤原豆腐店を後にしたのだ。
『雨、降ってますね。渋川の方はどうですか?』
「……普通だな。そっちはどうだ?」
『普通、です』
してやられたな、と文太は今更のように思った。
押しかけ息子は無邪気で知能犯だ。
「涼介」
『はい、』
「……次、いつ来るんだ」
『………』
――何言ってんだ、オレは。
文太は自分で言った言葉を後悔し、しかしその後悔を……なかったことにした。
涼介が来れば、うっとおしいほど付き纏われる。
昼寝をしようとすればすり寄って来て、甘えて腕枕をねだる。身体にべたべたと触って来て、車を弄っていればそばにしゃがみ込んで、車より文太をじっと見つめる。
隙を見せればキスをしようとしてくる。
時間があればセックスをせがむ。
渋々抱いてやれば、気が狂っているのではないかと思うほど乱れ、泣き、締め付けてくる。綺麗な顔をして文太のモノを躊躇いもなく咥え、むせ返って、飲み干す。
文太をお父さん、と呼んで、文太のタバコと豆腐と酒の匂いが大好きだという。
いれば鬱陶しいが、いなければ、寂しい。
薬品と甘い飴玉の匂いをさせる、頭一つ背の高い、押しかけ息子。
『……頑張れば、明後日には』
「そうか」
『ふふっ……お父さんが、初めて”いつ来るんだ”って言ってくれた……嬉しいなぁ……』
涼介の声は、いつも甘えてくる時の無邪気なものに変わっていた。
渡り廊下の向うから、友人が涼介を手招きしている。高橋、早く、と急かしている。
腕時計を見ればもう、休憩時間は終わりだ。この後は、時間にうるさい教授の時間だ。
せっかく文太が嬉しい言葉を言ってくれたのに、名残を惜しむ間もない。
「じゃあ、お父さん、電話切りますね」
『ああ』
もっと話していたかった。
けれど時間がそれを許さなかった。
涼介は名残惜しさを振り切るように、受話器が置かれた絵のボタンを、力を込めて押した。
「早くしろよ、高橋! 教授来んぞ!」
涼介と同じ白衣姿の友人はじれったそうに足踏みをしている。彼の眼鏡が少し曇っていた。
「ああ、わかってるさ……」
涼介は携帯を白衣のポケットに仕舞い、革靴の踵を踏んだまま走り出した。
文太は薄暗い居間に再び寝転がった。
今から冷やせばビールは夜には間に合うが、仕方ない、一本で我慢してやろう。タバコも買いに行けばいいが、面倒だから我慢してやろう。
「……集金でも行くか……」
いつもなら左側にあるはずの重みと温かさと、薬品と飴玉の匂いと鬱陶しさが今日は無い。
それがとても、寂しかった。
そんな日だった。
雨の日
(終)
|
home