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水面は凪いでいた。
穏やかな夜の河は幅広で、両縁の土手に連なる車のライトを、その向こうに聳える高いマンションの灯りを映し、きらきらと輝いていた。
いつもならこの時間に、河川敷から竿を垂れる老人も、今日はいない。
凪いだ河を、白い手漕ぎの船が往く。漕ぐ度に、ぎぃ、ぎぃと軋む音がした。
漕ぎ手の拓海は、向かい合って座る、ヴェールに見立てた薄い白布を頭から被った青年に、涼介さん、と言った。
「随分昔の話なんですけど……オレの婆さんは、船に乗ってお嫁に来たんですって」
その頃の嫁入りは夜に行われ、仲人が提灯を手に迎えに来、花嫁は船に乗って嫁したのだという。
車をやとう金もなければ、河に架かる橋もなかった。そんな時代だったという。
「提灯があればよかったな……いや、ランプの方が雰囲気あるかな……」
二人とも車を持っていたが、それはもう手放した。
代わりに、この手漕ぎ舟を手に入れた。
時代と逆行することをしている。
自分たちのしたことに小さく笑って、拓海はふと土手を見上げた。帰宅ラッシュの時間帯ということもあってか、車がだらだらと連なっている。ちっとも進んでいない。
河に架かる橋は、三つ越した。
さっきの橋で最後だ。
「海……に、」
涼介さんと呼ばれた青年は、低い、艶めいた声でつぶやくと、被っていた布を取った。
夜風が冷たく、涼介と拓海の頬に当たる。
「出るのか?」
「ええ、海に出ます」
河から、ぱっくりと口を開いた海への入り口が、そこまで迫っている。二人とも、海の方角を見た。
船は海を目指していた。
白い船は往く。
涼介がかつて乗っていた白い車に見立てたこの手漕ぎ船。何も持たず、ただ涼介のためのヴェールだけを手に、二人で飛び乗った。
なけなしの金で買ったこの朽ちた船に、二人で白いペンキを塗ったのは三日前。
「大好きですよ、涼介さん」
漕ぐ手を止めず、拓海は涼介を真正面に見据えて言った。力強く、言った。
「……ああ、知ってるよ」
涼介は首を僅かに傾げて、笑った。
全てを諦めたように。
「オレもだよって、言ってくれないんですね」
悲しそうに拓海がうつむいた。
「……」
涼介は無言だった。
河は凪いでいた。
ただ、その先にある海は、違っていた。
夜往河(よるゆくかわ)
(End)
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