潰された鍵穴、開かれたドア(豪×信司ママ、凛の視点から)



その日は用があり、久し振りに実家に戻っていた。
実家にいた頃自室だった部屋に置きっぱなしの専門書と、学会用のスーツが必要になった。だから取りに戻っていた。


涼介とのあのバトル以降、オレは車を処分し、元の職場に戻り、医者として忙しい日々を送っていた。
医者といったってまだまだ駆け出しだ。教授の鞄持ちの青二才。その上、ブランクも短くはない。毎日は慌しく過ぎていき、それでも充実していた。
あの頃のオレを知る周囲は憑き物が落ちたかのようだ、と口を揃える。
そうだと思う――あの頃のオレはきっと、本物の死神に――とり憑かれていたんだろう。


両親や、住み込みの家政婦ともこの頃は前の様に話が出来るようになった。


「タバコ、買ってくるから」
戻ったついでにと部屋の片づけをし、一通りを終えて部屋の隣の洗面所で手を洗っていると、弟の豪の声がした。
(……居たのか)
静かだからいないのかと、てっきり出かけているのかと思っていた。
昔から、豪が家に居ることは珍しかった。
友達と遊びに出かけていることが多かったからだ。


ちらと見れば、自室のドアを開けっ放しにしたまま、豪はジャケットを引っ掛けて廊下を足早に歩き、階段を降りていった。
(誰か来ているんだな)
部屋にいる誰かに言ったんだろう。あの、「タバコ、買ってくるから」という台詞は。
やがてガレージからは、物騒なとしか言いようがないNSXの爆音が聞こえてきた。
たかが数百円のタバコを買いに、大げさなことだ。


「どうも……」
「……お邪魔しています」
興味半分のつもりだった。
豪が誰を招いているのか、少しだけ興味があった。
部屋を覗くと、車のパーツと雑誌の散乱する部屋の出窓に、一人の女性が腰掛けていた。
オレが声を掛けると、物憂げな彼女は頭を少しだけ下げた。

女性を招いていたのは驚かなかった。アイツは身なりも恋愛遍歴もオレよりはずっと華やかだったから。
ただ、その女性は、豪よりあきらかに一回りは上だった。母親には若すぎる。
美人の部類には入るけれど、玄人ではない。素人。三十、後半だろう。
少し疲れた顔をして、出窓に腰掛て外を眺めていた。
後ろで一つに纏めた髪。左手の薬指に光る、くすんだシルバーのリング。

「……」
「北条さんの、お兄さんなんですね」
「ええ、」
「何度かお話、伺いましたわ……」
「そうですか……」
どうも、の後に続く言葉を選んでいると、あちらから話を続けてくれた。正直、少し驚いた。
豪はいつも派手な女性ばかりを連れていたからだ。
こんな年上の、それもとても地味な女性を連れ込むだなんて……どういう風の吹き回しか。
「あの……貴女は、その、……豪とは……」
どういうご関係で、と訊ねようとした。
不粋な質問だとはわかっていたが。
彼女は寂しそうに小さく笑い、オレを見た。そして、言った。


「息子を、人質に取られているんです」


彼女は語った。
豪が率いている走り屋のチームに、彼女の息子がいること。
走りを生業としていた夫を、随分前に亡くしたこと。
息子は夫の忘れ形見。一人息子だ。勉強もできるほうではないし、人付き合いも上手くはない。夫の血を受け継いだのか、走りが得意で、いや、それ以外、彼に取り得はない。
亡くなった夫と同じ、レースの道に進ませたい。
豪は彼女にこう言ったのだと。
”オレと付き合わないのなら、アンタの息子を走れなくさせるよ”と。
取り柄を取り上げられれば、息子の未来は潰えてしまう。


「仕方ありませんわよね、そう言われてしまっては……」
あの子には、走りしかないんですから。
彼女は目を伏せた。
「……どうして、逃げないんですか?」
そこまでされて。
オレは彼女の肩に、そっと手を置いた。
彼女は首を横に振った。
「逃げられないんです」

ドアは開いている。
鍵穴は潰されていた。

彼女には逃げることなど、赦されないのだ。

なんと狡猾なことか。
「私には、逃げる道なんてないんです……信司のためですから……」
遠くから、NSXのエキゾーストが聞こえる。
「でも、あの人のことは、好きにはなりません」

そう言った彼女の顔からは、諦観の中にも凛とした決意が伺えた。

ドアは開いている。
鍵穴は、潰されていた。

(終)




home