Lotus



 梅雨は数日前に明けたばかりだ。夏本番という言葉をそのままに、天気は快晴、気温は朝から随分な数値を示していた。
「ねえ、この辺りじゃない?」
 同じ様な景色をぐるぐると回りはじめて、もう十分近くになる。降りてきたインターチェンジはもうあんな遠くに、陽炎に揺れている。
意気込んで家を出たものの、目的地がいっこうに見つからないことにうんざりしかけた頃、助手席の妻が左側を指差した。
「ほら、鳥居……」
 妻の指し示した方には、背の高い蓮の葉に埋もれるようにして、古びた鳥居があった。
「ああ本当だ……」
 唯一ともいえる目印を見つけ、私はほっとした。


 車を降りると、むっとするような熱気が私たちを包み込む。じりじりと焼け付く太陽の光が容赦なく上から追い討ちをかける。雲一つない青空。良すぎる程の天気だ。
「鳥居が見えたらすぐだって言ってたのよ」
「でもそれらしい場所は……」
 私と妻は、蓮根畑のど真ん中にいた。
 いや、ここがど真ん中かどうかはわからないが、なにせ見渡す限り一面、蓮の葉が生い茂っているのだ。未舗装の幅広い道路は四角く区切られた蓮根畑の間を通っている。
 目印と教えられた鳥居は、競うように茂る蓮の葉の間にひっそりと佇んでいた。社はもうなかった。
 
 私と妻は美味しいものに目がなかった。何処そこの何が美味しいと聞けば西へ東へ買いに行き、また取り寄せたりしていた。
 今日も妻が会社で聞いてきた、美味しい豆腐屋の噂を頼りに、土地勘のないこんなところまでドライブがてらに来てしまった。
 昼食は来る途中にあった蕎麦屋に決めたが、肝心の豆腐屋がなかなか見つからない。わかりにくい場所にあるからと聞いてはいたものの、本当にわかりにくいことこの上ない。蓮根畑の中はどれもこれも同じに見える。まるで迷路だ。
 その上、この暑さのせいなのか人っ子一人いやしない。
 唯一の目印と言われたのが古い鳥居で、それが見えたらもう近くだといういい加減な情報だけが便りだった。
「あれじゃ分かりにくいね」
 私は帽子を取り、汗ばんだ頭をタオルで拭った。背の低い古い鳥居は、蓮の群れに殆ど隠れてしまっているのだ。ぱっと見た遠目にはわからないだろう。
「鳥居の東とか西とか、聞かなかったのか?」
「教えてくれた人も迷ったらしいの」
 妻は肩をすくめた。今日探している豆腐屋の豆腐を、私たちは一度口にしていた。
 この豆腐屋を教えてくれた妻の会社の同僚からお裾分けをして貰った。豆の味の濃いその豆腐の美味しさは格別で、すっかり虜になった私たちは、こんなわかりにくい場所をわざわざ探してまで買いにきたのだ。
「青い車と白い車が停まってるって」
「これだけ蓮だらけだと車なんてわからないんじゃないか」
 乾いた砂利道をだるそうに歩く私たちを、7月の太陽が焼く。首の後ろが焼けるように熱い。額から背中から、汗が流れていくのがわかる。

「何処かお探しですか」
 よく通る低い声が後ろから私たちに投げかけられた。妻と二人、同時に振り返ると、数メートルほど後ろに一人の青年が立っていた。
「お探しですか?」
 青年は再び私たちに問いかけた。
「あ、ええ」
 人っ子一人いやしないと思っていたから、急に声をかけられて私たちは面食らった。
 彼はとても男前だった。二枚目俳優のように整った顔とすらりと高い背。この暑さの中、涼しそうに佇んでいた。
 清潔そうなカッターシャツとスラックス、よく磨いた革靴という格好。蓮根畑のど真ん中、こういう場所はこの青年にはあまり似合わない――様に見えた。
「あの、この辺りに、美味しいお豆腐屋さんがあるって聞いたんですけど、」
 妻がおそるおそる、彼に訊いた。
「――はい、ありますよ。ご案内します」
 切れ長の目を細めて彼が微笑んだ。ご案内しますと言われて少し戸惑ったが、断ったって自力で辿り着ける自信はないのだからと素直に彼について行くことにした。

 青年は踵を返した。私達は彼の後をついて歩いた。
 灼熱の砂利道を、三つの足音が熱気に反抗する。青年は小脇に真新しい雑誌――車の雑誌――を抱えて先に立って歩く。
 蓮根畑は水に満ちている。ここを吹き抜ける風があればきっと涼しいのだろうが、それもない。
 ただ、息も出来ぬほどに暑い。いや、熱い。


 少し歩くと、私たちと青年が出会った場所からほとんど畑一枚向こうの通りに、なるほど平屋の小さな家があった。
 少し広めの敷地で、道沿いには粗末な楯看板が一つだけ。
『藤原豆腐店』
 平屋のその隣には教えてもらった通り、青いスポーツカーが、太陽を反射してまぶしく光っていた。そしてその隣に、真っ白なスポーツカーが同じ様に。
 車のことはあまり詳しくはないけれど、どちらもよく手を入れて弄ってあるものだと、ひと目でわかった。
「ここ、うちなんです」
 青年は店の前で振り返り、再び微笑んだ。
 私と妻は顔を見合わせ、笑った。
 どうぞ、と案内された薄暗い店内は外とは違い、ひんやりとしていた。
「お父さん」
 青年は父親を呼んで、店の奥へと消えた。暖簾一つ挟んだ向こうで話し声がする。
「あら、懐かしい」
 妻は店内をぐるりと見渡して呟いた。私もうなずいた。郷愁を誘うような、古い佇まいの店内は一昔どころではなくふた昔ももっと前の装いだ。
 色あせたポスター、タイル張りの水槽、濡れたコンクリートの床。小銭を入れるプラスチックのかご、古びた小さな丸椅子、カウンターの上のラジオ。油と豆の匂いが満ちていた。
「昔はこんなお豆腐屋さんが町のあちこちにあったものだけどね」
「そうよねぇ、あったわね」
「お豆腐売りのおじさんが回っていて、買ったもんだよ」
「私の住んでいた辺りは、おばあさんだったのよ」
「へぇ」
 古い鍋と小銭を持ってお使いに行かされた子供時代を二人で懐かしみ、ショーケースに並んだ商品を品定めする。
 分厚い、濃い色の厚揚げや、具沢山の卯の花炒り、絹揚げと書かれたトレーは売り切れなのか空っぽで、その隣の刻み揚げはもう残り僅かだった。
「どれも美味しそうね。あなた、どれにする?」
「そうだなぁ……絹と、卯の花入りがいいな」
 ショーケースの隣のタイル張りの水槽には、冷たそうな水の中に真っ白な四角い群れが沈んでいた。売れてしまったのか、数はそれほど多くはない。

「どうも、いらっしゃい」
 暖簾を潜り、目の細い、店主とおぼしき中年男性が出て来た。その後を、さっきの青年が続いた。
「ここのお豆腐が美味しいって、聞いてきたんですよ」
 軽く会釈をし、妻が嬉しそうに言った。
「ああ、そりゃどうも……」
 照れたように頭を下げる店主に、後ろの青年が「お父さんのお豆腐は美味しいですから」と首を傾けた。息子の様だが、あまり似てはいない。


 散々迷った挙句、片っ端から買った。卯の花炒り、絹豆腐、木綿豆腐、厚揚げ、刻み揚げ、おぼろ豆腐に豆乳。
 注文した品を袋に詰めていく店主を、隣で息子の青年がじっと見詰めていた。
 その様子は、とても幸せそうに見えた。
「入りきらないな。涼介、紙袋」
「はい」
 涼介と呼ばれた息子は店の奥に再び消え、少し大きめの紙袋を手にして戻ってきた。店主はそれに私達の買い物を丁寧に詰めていった。
「分かりにくい場所でしょう」
 店主が申し訳なさそうに呟いた。
「いやあ、分かると思って来たんですが、なかなかこれが……」
 いいえと言いたい所だが、本当に分かりにくかったから、お世辞も言えない。
「息子さんに声を掛けてもらわなかったら、まだ探していたかもしれませんね」
「はは……」
 私は店の外に目をやった。真夏が店の外には広がっている。
 青々とした蓮の葉が競い合って背伸びをしている。その間に、蓮の花がぽんわりと、夢の様に咲いていた。
「御主人、ここはもう、長いんですか?」
「ん? ……いや。……三年位、かな」
「へぇ、三年ですか?」
 少し驚いた。なにせ店は古びた建物だったから、何十年も、ずっとここで営んでいるのかと思ったのだ。
「豆腐屋自体は長いんだけど」
 つまりは、何処かで豆腐屋をやっていて、此方に店を移したということだろう。そうだ、そういえば外に停めてあるスポーツカーが……と、ふと思い出した。
「御主人、群馬の方なんですね」
 私はそう聞いてみた。
 ここは群馬ではない。なのに、外に停まっている二台の車はどちらも群馬ナンバーだった。
「……まあ、一応」
「越してこられたんですねぇ、こちらまで」
「ええ、まあ」
 何故か店主はきまり悪そうに答えていた。
「この辺りのお水が宜しいんですか?」
 豆腐は水が命だと聞いたことがあった。だから、そう聞いてみた。
「それもありますがね…………それだけじゃないんですよ」
 店主が、寂しそうに小さく笑った。


   私たちの会話を遮るように、店の外で車のエンジン音がした。唸るような、激しい音だ。
「……涼介、」
 店主が顔を上げた。気付けば妻と、店主の息子の青年がいない。
 二人して外に出ると、熱気がまた包み込んでくる。なるほど白い車のドアが開けられ、青年がセルを回していた。
 けたたましい音に、妻は凄い車ね、と彼の白い車を褒めた。青年ははにかんでいた。
「一体、何時の間にそんな話になったんですかね」
「ははっ……」
「あれはお二人のお車でしょう?」
 訊ねると、私の隣に立つ店主が頷いた。
 白いほうが息子の車で、青いほうが店主の車なのだという。車に疎い私でも、青いほうがインプレッサで白いほうがFCだというくらいはわかった。
「ここが良かったんじゃなくってね……」
 唸りを上げるFCを私と並んで眺めながら、店主が話を続けた。
「――ここしか、なかったんですよ」
 
 店主はそう言った。
 なんだかとてもおかしかった。


 豆腐屋での買い物にしては重い荷物を手に、私たちは来た道を戻った。どうせ買いに来たのだからあれもこれも、美味しいものはおすそ分けするに限る、と欲張って買い込んだのだ。
 蓮根畑の中は相変わらず焼けるように熱い。靴が跳ねた石が脚に当たった。
「――あ、そうだわ」
 私の後ろを歩いていた妻が思い出したように立ち止まった。
「お店の住所と電話番号、聞けばよかった!」
「あ、」
 妻の言うとおりだった。折角来たのだ、聞かない手はなかった。この時期だから名入りのうちわ位あるかもしれないから貰えば――と、私達は店への道を戻った。
 しかし、おかしなことにあの店は見つからなかった。
「え、だってこの辺りだったわよね」
「おかしいなあ……」
 二人で首を傾げた。キツネにつままれるとはこのことだろう。
 何せ私達は、店を出てから真っ直ぐ道を歩いていただけなのだ。なのに、それをそのまま戻って見つからないとは、一体どういうわけなのか。
「おかしいわ、確かあの蓮の花が店の目の前にあったんだもの」
 二輪の蓮の花を指差し、妻は訝しがった。
「おかしいな」
 確かに真っ直ぐ来たはずなのだ。
 なのにあの豆腐屋は見つからない。
 ただその豆腐屋があった場所には、他と同じく蓮根畑が広がり、背の高い蓮の葉が青青と伸び、夢のような花を咲かせているだけなのだ。
 遠くには、目印の鳥居がやはり蓮の葉に埋もれていた。
「何処に消えたのかしら」
 私と妻の目の前には、妻が店の目の間に咲いていたと言う蓮の花が咲いていた。
 白い蓮と、珍しい青い蓮。

「おかしいわよねえ」
 私の手の中の豆腐屋の買い物は、ずっしりと重かった。ここしかなかったという店主の言葉が思い出され、私は二重に不思議がった。
 とにかく、おかしかったのだ。何もかも。

(終)


2012.8 『生ものにつきなるべくお早くお召し上がり下さい〜夏〜』より(完売)。
プロローグ『冬枯』は『生ものにつきなるべくお早くお召し上がり下さい〜ふたり〜』にて。





home