サクラ、サク 2



何と切り出そうか。

凡そふた月。
無沙汰にしていた期間は、過ぎて振り返れば思いの外長かった。
リビングのソファに行儀悪く横になった涼介は、携帯のメールの画面を開いたまま考え込んでいた。頭元では愛犬が寝そべっていて、いい具合に涼介の枕になっている。
メールの送信画面、宛先は文太だ。
送る相手はとっくに決まっているのに、タイトルも本文も決まらない。
(何て言おうかな……)


今朝もたらされた朗報を、文太にどう伝えようか。
国家試験の日はあの家のカレンダーに書き込んできたが、結果発表の日は、知らせていなかった。
『ええ、六時には私が迎えに行くから、……いいわよ、玄関まで付けるから』
廊下にある固定電話で、今日のためにわざわざ仕事を休んだ母親が背を向け、涼介の合格を親類に連絡していた。今電話をしているのは母方の祖母だろう。
夜には父方母方双方の祖父母を招き、高橋の家が贔屓にしている料亭へ行くことが決まっている。涼介の医師国家試験の合格と大学の卒業を、そして啓介の大学卒業とプロレーサーへの進路決定を祝う食事会をするのだ。啓介の卒業は涼介より一足早く、3月の上旬に式が終わった。
家政婦は食事会で祖父母に渡す手土産を買いに行かされ、啓介は美容室に髪を染めに行かされている。食事会に間に合う為にと、父は今頃猛烈に働いているだろう。
『そりゃ、心配するのは当たり前よ』
いつになくくだけた母の声に、涼介はおや、と思った。
さっき父方の祖父母へ電話した時、母は『涼介は出来る子だから心配などしなかった、何でもございませんでした』という口調だったのが……あれは嫁としてのプライドだったのだろう。実の親には本音を打ち明けていた。
涼介は小さく笑った。
あれほど、受かるのが当たり前だ、涼介なら落ちるわけはないと日頃から言っていたのに、実のところはかなり心配していた様だ。
『あの子、去年の今頃は体調を崩して寝込んでいたでしょう、車にもずっと入れ込んでいたし……』
母の口から出た言葉に、涼介は、あ、と思った。
そうだ。去年の今頃――文太と知り合った頃、文太に思いを打ち明け、拒まれ、ショックのあまり寝込んでしまっていた。
一目見て好きになった人。
この人しかいないと思った。
(そうか…あれからもう一年か)
なのに拒否され、蹴られ、そして初めて人前で声を上げて泣いた。大好きな人の前で。
去年の今頃は飯も喉を通らぬ日が続いていたのだ。
(嘘みたいだな……)
遠くなったあの日々は、もう過去のものだ。受け入れてもらえるようになってからは、お父さん、と呼べば、文太は何も言わずに頭を撫でてくれる。
目の細い、頭に白いものの混じった、涼介の「お父さん」
目をつむればお父さんの体に染み着いた、煙草と酒の匂いが漂ってくるようで懐かしい。
早く、会いたいと思う。


「涼介、あのスーツ用意しておきなさいよ」
電話を終え、リビングの扉を開けて母が顔を出した。
「あ、はい……」
明後日に控えた卒業式用に誂えたスーツのことだ。今日の食事会にもそのスーツを着ていけというのだ。
「躾糸は取った?」
「ええ」
「もう、そうやってゆっくり出来るのも今月一杯よ」
ソファで寝そべっている涼介に、母は眉をひそめた。がやめろとは言わなかった。
来月になれば、研修医としてこれまで以上の多忙な日々が始まるのだ。学生の身分とは違い、文字通り患者の命を左右することになるのだ。
「ひと段落してゆっくりしたい気持ちも分かるけれど、今から出来ることはしておきなさい」
そう言い残すとドアを閉め、母はまた他所へ電話を掛けた。
『もしもし、本家ですけれど……』


「ま、確かにそうだけどさ……」
医師として先輩である母の言い分も分からないではない。
分かっているけれど、今日くらいはゆっくりさせて欲しい。
国家試験と平行し、卒業のことでも忙しかった。プロDの頃以上に睡眠時間を削っていたのだ。
そのほかにも、プロDの後始末、そして啓介や拓海のプロ入りの話も進めていた。主には史浩に任せていたが涼介が出ざるを得ない場面もあった。試験の三日前にも啓介が入るチームとの話し合いで深夜にファミレスに出向いた。
合格発表にほっとしたのもつかの間で、明後日には大学の卒業式だし、その後も就職のことで立て込んでいる。来月など、すぐ目の前だ。

「さて、と……」
涼介は再び、メールの画面を睨んだ。
言葉は無限にある。
晴れのこの日を、どう文太に伝えようか。
窓のサッシが風で音を立てた。
何気に窓の外を見ると、家政婦が丹精してくれている庭が、この季節らしく色とりどりの花で賑やかだった。
黄色いフリージアが花壇で風に揺れている。
チューリップもそろそろ花開く頃だ。
「……あ」
毎年見ているはずなのに、今年は忙しさに、それに目を向ける余裕はなかった。
そして庭の隅では気の早い桜の木が、もう散り始めている。三月の中旬だというのに。
それを見て、涼介はメールの文章を決めた。
飾ることはやめた。


”桜が咲きました”


たったその七文字を送信するのに、二時間は悩んでいた気がする。
「ジョン、久しぶりに散歩に行こうか」
送信を確認すると涼介は起きあがり、枕にしていた愛犬に呼びかけた。ジョンは久々の涼介との昼寝から目覚め、眠そうな顔を向けて鼻を鳴らした。
「お前と散歩するのも久し振りだな。リード、どこやったかな……」
今日はいい天気だ。とびきりの、散歩日よりだ。
何度目かの電話を終えた母に散歩に行くことを伝えてリードを用意をしていると、携帯が鳴った。
「あ、……」
文太からの返信だ。
はやる気持ちを抑えて中身を見ると、文太にしてはめずらしく優しい言葉が書かれていた。
「お父さん……」
大好きな文太からの、お祝いの言葉。
涼介は思わず顔がほころんだ。
足元で愛犬がリードをくわえて促しているのにも気づかず、涼介は届いたメールを何度も読み返した。

”おめでとう”

七文字への返信は五文字。

涼介は、それにさらに返信した。

”早く会いたいです”と。

文太から、すぐに返信があった。

”いつでも来いよ”と。

長い冬が終わり、春になった。
新しい日々が始まる。しかし、変わらないものもある。
文太の隣で、これからも居てもいいのだ。
大好きな人と、また一緒にいられる。


桜が咲いた。









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