サクラ、サク 3



涼介が医師国家試験に合格した翌々日は、大学の卒業式だった。
晴れの日に相応しい晴天と、前の暇での寒さが嘘のような暖かな春の日だった。
会場となった公営のホールには華やかな袴姿の女子学生、スーツ姿の男子学生、そしてその保護者で溢れ、それぞれが新しい道へ進むことへの喜びと、長く苦楽を共にした学友との別れを惜しんでいた。

「うちのゼミは今年も全員合格か」
「まーな。あんだけやって合格しない方がどうかしてるぜ」
何時までに受付をお済ませくださいというアナウンスが流れる中、ホールの隅で涼介は友人のスーツの胸のリボンを直してやった。
「厳しさじゃ群大イチのゼミだしな」
「そうだけどさ……な、高橋、なんかまた曲がったんじゃねえ?」
「そうか?」
直したつもりが、友人には余計に曲がったように見えるらしく、涼介は「ちょっと待ってろ」と今つけたばかりのリボンを外した。
祝卒業と書かれた既製品のリボンだ。しかし既製品でも、気持ちは引き締まったし心から嬉しいものだ。
「教授のほっとした顔見たら、なんかこっちまで泣けてきちまったな」
発表の日の午後、涼介の所属するゼミの6年全員で合格を報告に行った。教授はほっとして、目元を拭っていた。
「鬼の目にもなんとやらだろ……と、こんな感じか?」
今度こそちゃんと付けられたことを確認して、涼介はうん、と頷いた。
「おっ、いい感じ。これからもヨロシク、ドクター高橋」
友人は卒業後、涼介と同じ群馬大学病院で同じ科で研修医になる事が決まっていた。
「こちらこそだ。ドクター橋村」
「腐れ縁だな」
「まぁな」
拳同士を軽くぶつけあって笑いあい、今日という日を迎えられたことを互いに心から喜んだ。
「四半世紀生きてやっとスタートラインだぜ」
「人様の命を預かるんだからな、四半世紀でも短いくらいだ」
切ったばかりの、涼介の黒髪が風に靡き、綺麗な顔が笑った。
「まあでも高橋はあれだよなー。ここ一年くらい、憑き物が落ちたみたいな感じだったよな」
「オレが?」
「そ、他の連中は国家試験のプレッシャーで病みかけてんのにさ、お前だけだぜーさっぱりした顔しやがって!」
腕組みをして口を尖らせる友人に、涼介は「そうかな」ととぼけて見せた。
(ここ一年は確かに大変だったけど……幸せだったからな)
6年になって、学業の忙しさ、プロジェクトDの大変さは確かにあった。限界まで睡眠時間を削っていた。
しかし、文太と出会えて受け入れてもらえて、心から楽しい、嬉しいと思える日々を得られた。
学業もDも、文太との日々があったから乗り越えられたのだ。
昔は何時もつまらなさそうな顔をしていたとよく言われる。実際、そうだったのだろう。いつもどこか、物足りなかった。
自分の居場所を探していた。
けれど今は文太を、本当に欲しかった「お父さん」を、その隣という場所を得て、涼介は満ち足りていた。
ここ二ヶ月は流石に文太と会うことを自粛したけれど、試験も終わり、無事に医師になった。もうすぐまた元の様に会える。
「もう、角帽やだって!」
同じゼミの女子学生の桑村が、学部代表の印の角帽とローブ姿で現れた。
「おっ、出た出た医学部代表の桑村女史」
「才媛の角帽は似合うな」
「何がよ、高橋君がすればよかったのよっ。もー、折角アップにしたのに頭崩れそうだしっ」
彼女は折角の髪型が角帽で台無しだと訴えた。
「着物も袴も祖母が誂えてくれたのよ。なのにローブを着たらなんだかイマイチだし、今から代わってよ、高橋君」
愚痴りながら、彼女が涼介の背中を叩いた。着物の古典柄がローブの下できりりと鮮やかだ。
本来なら学部代表として証書を受け取るのは涼介に話が来ていた――成績や素行が優秀だからだ。しかし涼介は彼女にその役を譲ったのだ。
「痛っ、オレはもういいよ、そういう目立つのは。これからの時代は女性だから桑村は適任だろ、華やかでいいじゃないか」
「よく言うわ、高橋君っ!」
「おいっ、桑村っローブ破れちまうぞ!」


新人医師たちの笑い声は、三月の暖かな空気に吸い込まれていった。


日付の変更まで、二時間を切った。
ゆっくりとしたスピードで、涼介のFCがとある公園の駐車場に滑り込んだ。
運転する涼介は少し火照った顔だ。車を駐車場の隅に停め、イグニッションを切った。
卒業式の後はゼミの送別会、その後も二次会三次会、と予定が立て込んでいたのだが、二次会の途中で何とか抜け出し、FCを走らせた。友人たちの、彼女が待っているんだろうという冷やかしの言葉を浴びながら、居酒屋を後にし、少し走ったところに公園があり、駐車場があいているのを見てFCを停めたのだ。
アルコールを一滴も口にしなかったのに、身体は随分と火照っている。口にしたメニューの辛いもののせいだろう。
(遅くなってしまったな……)
ナビに置いた鞄から携帯を取り出して、文太のナンバーを選ぶ。
二次会を抜け出した理由は他でもない。
文太に電話をかけるためだ。
発表の日、文太からおめでとうというメールが届いた。その返信に、『卒業式の日に、飲み会が終わったら連絡します』と涼介は打ったのだ。卒業式が終わるまでは電話をしないと、文太と会わなくなった日に自分に科したのだ。
自分で言った割りに遅い時間になってしまい、文太が待ち草臥れているだろうかと不安に駆られながら、通話ボタンを押す。
ネクタイを緩めながら携帯を耳に当てると、5コール目に、懐かしくて大好きな声が聞こえてきた。
『はい、藤原です』
「……も……もしもし。お父さん、ですか」
涼介の声は上ずっていた。
『……涼介か?』
「はい、」
久し振りの文太との電話。
およそ二ヶ月ぶりだ。
「お久し振りです……」
『そうだな。久し振りだな』
電話の向こうの文太が笑った。
『今日卒業式だったんだろ。今、何処だ。まだ飲んでんだろ?』
「あの、飲み会は途中で抜け出しましたから……」
『そうか。じゃあ、もう家か?』
「いいえ。Y町のコンビニの近くの公園です」
『ちょっと待ってろ、掛け直すからな。店の片付けの途中なんだよ。さっきまで政志んとこに寄ってたからな』
「わ、わかりました……」
20分位したら掛けなおす、と文太は言って電話が切れた。
(お父さん、元気そうでよかった……)
政志のところに寄っていたということは、またあのインプレッサに手を入れるのだろうか。
この冬は寒かった。体調を崩していないか心配だったが、息災なようだ。
20分の暇を潰すため、涼介は車から降りた。冷えた3月の夜気が心地良い。公園の近くにあるコンビニエンスストアに入った。
火照った身体を冷まそうと、棚から冷えた缶を取る。
(今日は電話だけにして……明日か明後日なら一日空いているし……)
その缶を掌で弄びながら、予定を頭の中で繰った。文太の都合次第だが、明日か明後日に文太のところで少しでも過ごせたら……と、涼介は思った。
店の手伝いをして、配達にもついて行って、一緒に食事をし、インプレッサを洗車したい。
きっと自分の居ない間、店は兎も角居宅部分は大して掃除も片付けもしていないだろうから、それらもきちんとして……。

――ここ二ヶ月、涼介自身が禁じていた、文太と一緒に過ごす時間。
ロマンチックなことはいらない。
涼介はただ、文太と一緒に居たいのだ。

時間があれば、FCと軽く、峠で流して貰えたら。車のことも沢山語り合いたい。そうだ、卒業証書を文太に見せなければ。それから……。
(あ……)
涼介の鼓動が早まっていく。
レジに並ぼうとして、涼介は気付いた。
コートの下で、己の下半身が明らかに形を変えようとしていることに。
無理も無い。ここ二ヶ月、国家試験や卒業のあれこれで、殆ど性処理などしていなかった。それがやっと解放され、文太の声をさっき聞いた。早ければ明日か明後日にはまた文太に元の様に抱かれる……と考えると、涼介の下半身が自己主張し始めるのも自然なことなのだ。
(こら……治まれっ……)
自然と荒くなっていく息を整えながら、己の理性に反して固くなっていくペニスを戒めるように念じながら会計を済ませた。冷たい缶一本を手にまたFCに戻ると、涼介はコートの前を開いた。
「……っ、」
スーツのパンツの股間が堅く盛り上がっている。
鼓動も息も、治まれと念じても逆効果だ。頭の中ではもう、文太に抱かれている妄想がひとりでに歩いているのだ。

(全く……オレは……っ、)

もうどうしようもなかった。
コートの袷で隠すようにし、涼介はそろそろとジッパーを下ろし、勃起した己を取り出した。
薄暗い車の中にむっとした雄の匂いが充満する。ふた月も禁欲していた男の匂いは濃い。
(お父さんっ、)
ここが覗き見できる範囲には誰もいないことを確認し、涼介は堅い己をゆっくりと扱き始めた。

文太を思いながら。

「ぁ、……ッ、ふぅ……」
扱き始めて間もなく、先端からはトロトロと粘液が滴り落ちる。ナビシートのティッシュボックスを手繰り寄せてとろみを拭いながら、俯いて、涼介は自慰に耽った。
軽く抜けばきっとスッキリする、そう思って。

だが、扱き始めて1分も経たぬ間に、スーツのポケットに入れた携帯が震えた。
「……!」
明らかに着信は文太からだろう。
涼介は扱く手を止め、携帯を取り出すとシェルを開いた。やはり、文太だ。
通話ボタンを押し、耳に当てた。
「あ、はい……」
『悪かったな、遅くなっちまって』
文太が詫びてきた。腕時計を見ると、25分経っていた。
「いえ、大丈夫です。コンビニに寄ってたんです」
『そうか……とりあえず、あれだな。合格と卒業、どっちもおめでとう、だな』
照れくささを隠すような文太の口調に、涼介は小さく笑った。
「ありがとうございます……」
涼介は礼を言い、視線を落とした。
股間の己はまだ勃起したまま露出している。
まだ治まらないのだ。
『大変だったんだろ、試験は』
「ええ、でもそれは皆同じことですから……オレだけが大変じゃないんで……」
『お前の発表の日なんて、オレぁ知らなかったんだがな。たまたま秀司の店でそんな話になったんだよ。秀司の店のはす向かいにある眼科の娘さんがお前と同い年らしくてな、アイツは発表の日を知ってたんだ』
「あ、後藤さんでしょう? 高校の頃予備校が一緒だったから知ってますよ……」

一度は手を離した己自身が、また物欲しそうに先走りをツゥ、と垂らした。
耳に流れ込んでくる文太の声が、何時になく優しい。
ふた月の不在を埋めるように、話題はお互いに尽きない。
『雪ちらついてたけど、大丈夫だったのか? 試験の日』
「少しですけど降ってましたね。中は暖かかったから全く平気でしたよ」
その優しい声に、少しだけ冷めかけた性欲が、またむくむくと頭を擡げてくる。
「お父さんは風邪も……ひかなかったん、ですか?」
涼介の、携帯を持っていないほうの手が、またペニスへと伸び、握り……。
「今年は寒かったから……っ」
文太の声をおかずに、再び自慰を始めた。

『オレは元気なだけがとりえだからな。まあ、その辺は大丈夫だ。そういや金物屋の婆さんがインフルエンザでちょっと入院してたな』
「そ、うなんですか……お年寄りのインフルエンザはすぐに、命に関わってくるんで……」

大好きな文太の声。
記憶の中のものになりかけていたそれが、再び、涼介の耳に優しく暖かく、流れ込んでくる。
(お父さんっ……、お父さん……)
理性の箍が、今にも外れそうだ。それに抗いながら、涼介は必死に文太との会話に相槌を打ち、ペニスを扱いた。
強く柔く、根元から先まで……。
(お父さん、早く……)
『明日も明後日も空いてるぜ。まあ、いつでも来いよ』
(会いたい……ッ!)

文太の声を糧に、涼介は車内で自慰を続けていた。








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