連戦連敗ギャンブラー
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とっくに夕食の時間だ。
しかしまだ日は暮れてはおらず、信司も帰宅していない。今日は委員会で遅くなると言っていた。
忙しくキッチンを動き回りながら、信司の母は親子二人には少し多い夕食を拵えていた。
どうせ作るならたくさん作った方が美味しい、というより、それを「作りすぎたから」と言う名目で渡すあてがあるからだ。
一人暮らしの上に食事は片手間だと言い張る久保はいつも適当なものしか食べていない、あのメタボリックなお腹がそのいい証拠だ。
今日のメニューは酢を効かせた煮物と、具沢山のサラダ。少しはあのお腹が引っ込むだろうかと考えを巡らせ、くすくすと笑ってみる。今日のサイドワインダーの集まりの際、信司に持たせて久保に渡させようと考えていた。
これまでも何度もそうしてきた。
自分で行くのは気が引ける。
「彼」に捕まるからだ。
食べ盛りの信司は帰ってくるなり、ご飯まだ? と催促しかしないから、さっさと仕上げなければ……と、コンロの火を強めようと彼女が摘みに手を伸ばした時、玄関のインターホンが鳴った。
「はい、……」
「あぁこれは奥さん……いや、こないな時間にすみませんなぁ」
玄関先に立っていたのは久保だった。暑いのか、しきりに額の汗をタオルで拭っている。
「あら久保さん、」
思いがけない訪問者に、思わず声のトーンがあがってしまう。意味も無く髪を弄ってしまう。
「信司はまだなんです……あ、おあがりになって、」
「ああ、いや、この後も客先に行きますんで、結構ですわ。信司君に言伝を……」
「信司にですか」
この間の集まりから戻ってきた信司が、ハチロクを塗装したいと久保さんが言ってたよと言っていた。もしかしてその件だろうか、と彼女は思った。
「ハチロクのことでしょうか」
「いや、実は今夜の集まりはありまへんのや。中止ですわ」
久保の声は落胆気味だった。
「大将が夏バテで、マンションから動かれへんらしいですわ。まあ、あない一人好きに暮らしとったらそうなりますわな」
自分のことは棚に上げ、久保は「大将」こと豪のことを言った。豪は基本実家暮らしであるものの、金持ちの坊ちゃんらしいというか、峠近くのマンションをセカンドルームとして親に借りてもらっている。
峠で遅くなった日や、友人たちを寄せるためという、しょうもない、金持ちらしい理由だ。
そのくせファミリー向けの間取りのマンションで、贅沢やなあ、と久保はいつも言う。
信司の母もそれがどこにあって、どんな間取りなのかは知っていた。
連れ込まれたことは何度もあった。
「ずっと寝てばっかりみたいですわ……まあこないだも水モンばっかり飲んでましたからなあ」
先日の走り込みの時からすでに豪の体調は良くなかったようだ。
「……わかり、ました」
「ほな、失礼します。次また日が決まったら、連絡しますんで」
ぴっと手を上げて久保は頭を下げてバンに乗り去っていった。
折角作った惣菜を、久保に渡すチャンスだったのに渡せずじまいで。
一人になった玄関先で彼女は目を閉じ、大きくため息をついた。
心配などしなくても良いだろう。あちらは大病院の御曹司だ。
電話一本で北条の病院の医者なり看護婦なりが手配されて、あのマンションへ飛んでいくだろう。
力ない足取りで、キッチンへと戻る。
火を消したコンロをちらりと見遣ると、彼女は逡巡した。
そういえば連絡がないと思っていた。体調が悪かったのか。
(……どうして、)
心配などしなくても良いはずだ。
いや、むしろこのまま野垂れ死んでくれれば御の字かもしれないのだ。
あの広いマンションのリビングで、いつもそうするように、大ぶりの赤い革張りのソファに寝そべったまま。
「もうっ……!」
胸騒ぎにも似た感覚が止まらなかった。
放っておけなかった。
あなたなんて死んでしまえばいいんだと、この間抱かれたときに面と向かって叫んだ相手が、心配でならなかった。
一人でご飯を食べなさいと信司に書き置きを残し、彼女は本来は久保に渡すはずだったおかずを、炊きあがったばかりの白米をタッパーに詰め、ハチロクに乗り込んだ。
女性にしてはかなり手荒な運転で、目指した。
あのマンションを。
途中、ドラッグストアでイオン飲料を買い、栄養ドリンクも買った。
両手にいっぱいの荷物を下げて向かったマンション。最上階の角部屋。
駐車場に入る際、宅配ピザのバイクが接触しかけて、急ブレーキを踏んで声を荒げた。
そして彼女は思い知る。
自分がまた、負けたことに。
「……大嘘つき」
重い荷物を下げたまま、鍵の掛かっていない豪の部屋に入ると、宅配ピザのにおいが充満していた。
リビングの赤いソファに寝そべって、豪はピザをほおばっていた。ソファ脇のテーブルにはコーラの瓶。その横にビールの缶。フライドポテトの袋。
「騙される方が悪いんだよ」
ははっ、と軽く笑い、豪は指についたピザソースをなめた。
あれは嘘だったのだ。
ちっとも病人らしくない。否、はなから病人などではないのだ。
「飛んでくると思ってたよ」
優しい口調で、でも目はそうではなかった。
獲物を捕らえる獣の目で、豪は起きあがって彼女に近づいた。入り口で怒った顔のままで動こうともしない彼女が両手に下げた袋を奪い取ると、
「あ、オレの晩飯」とうれしそうに言った。豪がのぞき込んだ袋の中身は、煮物とサラダと白米の入ったタッパー。三つが斜めになっていた。
「あんたの考えそうなことくらい分かるんだよ」
コレ食いたかったんだよね、と豪は袋をガラステーブルに置いた。
「あんたの手料理」
「北条さん、」
「豪だよ」
「ずるいわ」
「言ったろ、騙される方が悪いんだって」
いい加減学べよ、と豪は言うと、彼女を抱きすくめた。
暑い中をここまで急いで来たのだろう、汗と化粧品の混じった匂いの彼女を。
「こうでもしないとあんたはここに自分から来ないし……オレに料理を食わせてくれないだろ?」
そして、赤いソファに押し倒した。
「……」
「オレのことは嫌いなのに、どうして来てくれるんだよ。こんなもんまで持ってさ。それが、答えだろ? ……あんたの気持ちの」と。
豪は言い放ち、彼女の唇を奪った。
テーブルの隅の、豪のスマートフォンが震えた。
本日の走り込みが中止になったことの連絡が回ったことを告げるメールだった。
また負けたことに、彼女は口腔内を蹂躙されながら、静かに泣いた。
そして認めざるを得なかった。
豪が心配だったことを。
それに伴う自分の気持ちに。
おそらく、豪の言う通りなのだろう。
(終)
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