フェンスの向こう

それが「日常」になり、果たしてどれほどの年月が経ったことだろう。
半世紀近くになるだろうか。
それまでは架空でしかなかった非日常が日常に取って代わった。その時、人は激しく抵抗し、憤り、拒んだ。
それでもそうするしか手立てがないという、国家指導者の懸命の説明を待つまでもなく、そしてそれを裏付けるように次々とこの小さな星に起こった数々の超常現象は、人間が本能的な部分で危機を感じるには十分なものであった。
否、それで危機を感じず、相変わらずシュプレヒコールを上げているような者は悉く袋叩きの目に遭ったのだ−−人々の抵抗を諦めへと、納得へと変えていくにはじゅうぶんなものだった。

人品卑しからぬ老翁が、ある場所に立っていた。かつての町の入り口というべきだろうか。
往時の姿はうかがえないほど高いフェンスに囲まれ、危険を示す看板があらゆる言語で書かれ、あちこちに掲げられている。
「ダメですよ、近づかないでください!」
若い兵士が老翁に気づくと、さっと駆け寄って制した。
「ああ、すみません。入ろうというわけじゃないんです」
訓練されたものの自然な動作として、背負った銃に手をかけた兵士に、不法侵入者ではないのだと、老翁は言い訳をして微笑んだ。
品の良さそうな老翁だった。背筋は年の割りにしゃんとのびているし、着ているものも一流のものばかりだ。
「何か御用ですか、ご存知だと思いますがこのあたりは……」
「ええ、知っていますよ。立ち入り禁止区域だということは、つとに」

老翁は目の前に立ちはだかり、かつての町を隔絶するフェンスを見上げた。


昔このあたりは観光地だった。
有名な温泉と、それにちなむ景勝地があり、田舎だが観光客の絶えない、賑やかな場所だった。


それががらりと変わったのは、老翁がまだ若かった時代。
この国どころかこの星そのものを脅かす外的な存在が確認され、且つ、その存在はこの星へと攻撃を仕掛けようとしてきた。
国同士の争いどころではないと各国の首脳たちは話し合い、頭のいい学者たちが集められ、対策が練られた。
その「結果」が、この立ち入り禁止区域だ。
各国の首脳たちは、外的存在へ地球を挙げて対抗する道を選んだ。
そして、選ばれたのがこの場所だ。学者たちが計算に計算を重ねた結果、外的存在に対抗する「装置」たるもの−−所謂ミサイルを設置するのに最も適した場所が世界中に何十箇所か選定された。
日本ではここが選ばれた。


選ばれたその日から、この町は温泉や観光どころではなくなった。
住人は半ば強制的に移動させられ、町は消え地図は「特定対策地区」と書き換えられ、真っ赤な色で塗られるようになった。そしてここはこの国で唯一その地区に選ばれたことで、ありがたくないことにこの国で一番有名になってしまった。
地区を取り囲む高いフェンスが作られ、許可を得たものでなくては中に入ることはできなくなった。あらゆる言語で書かれた警告の看板と、銃を構えた兵士が二十四時間、そこを守るようになった。



「このフェンスの向こうに、好きだった人が眠っているんです」
老翁は、深い皺を刻んだ顔を俯けて言った。
「好きだった……というと、どなたかのお墓ですか? 墓地はすべて移動したはずですが……」
兵士は眉をひそめた。
住人の移動の際、最大限の取り計らいが行われたからだ。公共の福祉という名目のもと、それまでの暮らしを奪ってしまうことになるため、あらゆるものがそっくりそのまま他の地域へと移動した。墓地もちゃんと移動が行われた筈だ。
「いえ、お墓になんて入らなかったんですよ、あの人は」
被っていたハットを取り、老翁はフェンスの前で深々と一礼した。
フェンスの向こうにかつてあった場所へと。
ゆるやかな坂道の両脇に連なる古い商店街。
その中にあった、寂れているけれどとても美味しかった豆腐屋。
そこにいつもいた、無口で不器用で、車を運転するのがとても上手だった、大好きだった人。
一緒に過ごした、ほんの何年間か。

フェンスの向こうで、トラックのエンジン音がした。

「私は医者をしておりまして」
兵士が尋ねるより先に、老翁は自分から素性を明かした。
「ずいぶん前、ここにまだ人が住んでいた頃……当時私はアメリカに留学をしていたんです。その間に、私の好きだった人はこの向こうにあった町で亡くなったんです」
「……そう、ですか……」
「好きだった、というか……今でも、好きですよ」
若い頃はきっと二枚目だっただろう顔が、無邪気に笑む。
兵士は背負った銃をちらりと気にし、彼の言う「昔」がこのフェンスの向こうに、かつて確かにあったこと思い描いた。兵士が生まれた頃には既にこのフェンスはあった。
「遺言で墓には入りたくないと言っていたので、秋名の峠に散骨をしたんですよ」
大好きだったタバコとお酒と一緒にね、と老翁は昨日のことのように語った。
ハットを被りなおし、老翁はフェンスに背を向けた。
「ああ、それで……」兵士は納得した。
秋名の峠とかつて呼ばれた場所には、今は装置のメインである部分が鎮座していて、かつての面影はもうどこにもない。
「すみません、お騒がせをして……これが私の名刺です。上にご報告が必要でしょう?」 
「あ、はい」
胸ポケットから取り出した名刺を差し出した。
「ご心配には及びません、ID検索をすればちゃんとこの顔が出てきますよ」少しおどけて言い、老翁は「じゃあ」と頭を下げ、去っていった。
老翁の言うとおり、フェンスに近づいた者がいれば、たとえ口頭での警告で済んだとしても上に報告が必要であった。
「まったく、……そんな理由じゃこっちも怒れないよなぁ……」
姿勢のよい後姿が遠ざかっていくのを見送り、兵士は頭を掻き、受け取った名刺を見た。
日本の国民IDと東京の住所、そして
「医学博士 高橋 涼介」と書いてあった。


(終)
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