彼のポイエーシス

寒さは昨日から幾分かは緩んできた。
手放せなかったダウンコートから、久しぶりにフリースジャケットに袖を通した。そうしたら、袖のところに少しの解れがあるのに気付いた。
二年も着ていれば、安物はどうしたってこうなるし、それに――どうせ夜道だし近くに行くだけだからとその時はさして気にも留めなかった。

白い息を吐きながら、薄暗い家の前の道を、ほんの数分。ポストに、銀行で貰ったアンケートを出すだけの散歩ともいえぬ短い距離を歩く。
解れかけた袖口の、自分の手首。信司の母は不意に、いやなことを思い出してしまった。
だいたい、自分の体の一部を見ていやなことを思い出してしまうというのはいかがなもののなのか。
(あぁ……もう、……)
脳裏をちらつく、赤い特徴ある車体。それ自体がもうあの男そのもののようで。耳元でささやくような、彼の声が今にも聞こえそうだ。
それほどまでに「彼」は彼女の中へ、じわりじわりと染みを作っているのだ。深く、深く。そしてふとした仕草や言葉や動作で自分という存在を彼女に知らしめて忘れられないようにしている。
(なんであんな人っ……)
たかが手首に目をやっただけなのに、彼女の中に、確かな怒りがこみ上げてくる。
赤い車体。特徴あるエキゾースト。そこから格好をつけて降りてくる、豪の姿。


エキゾーストが遠くでやかましい。

『これきっと可愛いよ。こないだ東京行った時に買ってきたんだ』
薄暗い木陰は、夜露が滴りじっとりとしめっていた。

一週間前だ。
ハチロクのことで話があるからと、信司についてサイドワインダーの集会に信司の母も呼ばれ、不本意ながらも出向いた。
案の定、集会は開始早々、豪の提案でフリー走行になり、さなかに豪は彼女を連れ出した。

――いいものがあるからと豪が取り出したのは、ブランドショップの小さな箱だった。その中から取り出したのは、見るからに高価そうな金色のブレスレット。
『プレゼントだよ』
うれしそうに、豪はそれを信司の母の手首に丁寧に巻いた。
『……いらないわ』
『なんで?』
外そうとする信司の母と、それに抗う豪と。軽く、もみあった。
『いいじゃねえか。オレがあんたにあげたいんだ』
『こんな高いもの貰えません』
『遠慮すんなよ』
『貰えません』
へらへらと笑いながら、細い手首を取る豪を、信司の母はきっとにらみ付けた。
『何で』
『嫌いだからよ、それに』
『それに?』 『これはあなたが働いて稼いだお金で買ったものじゃないでしょう!』
『……は、』
『いっつもあなたは、親のすね齧ってばっかりで……』

嫌いという言葉は、この箱根の山を埋め尽くすほど豪に対して吐いてきたつもりだ。
それでも豪は諦めようとしない。


嫌いでいいよ、オレは好きだから。
どうせそのうちオレのことを好きになるよ。

その二つを繰り返して、彼女に近づくのを止めない。

だからほんの少しだけ、嫌いの角度を変えてみた。
『車だってチームだって、湯水のようにお金を使って……でも、あなたが稼いだお金じゃないじゃない。親に貰ったお金でこんなもの買ってもらったって、馬鹿にされてるとしか思えないのよ!』
『……』
『返すわ』
豪の手を振り払い、つけてもらったばかりのブレスレットを外してつき返した。
『ほうじょ……、』
そのとき、はっとした。
豪が、珍しく口をぽかんと開けて呆然としていたから。

逃げるようにその場を離れ、駐車場に戻ると用事があるからと言い訳をして、先に帰る若いチームメイトの車に乗せてもらい、豪が戻る前に峠を後にした。

それで終わりだと思ったら、大変なおまけがついてきた。
信司の母の勤める土産物問屋に出入りしている運送会社のドライバーが、サイドワインダーのメンバーの一人の内藤で、彼から今朝、「おまけ」を聞いてしまったのだ。
『知ってます? 乾さん。豪さん、なんか、バイト始めたらしいっすよ』
『バイト?』
豪のセカンドルームの近くに住んでいるという内藤は、その話を豪から直接聞いたのだという。
『池田さんの……そう、実家がお寺の……なんかその寺でバイトはじめたらしいっすよ』
『お寺……』

あの派手な豪が、閑静な寺に居ること自体がどうにも想像できないのだが、内藤曰くは池田の実家の寺は大きいらしく、掃除や墓地の管理をしているのだという。
『で、なんでバイトするんですかって聞いたんスよ。だってそうじゃないですか、豪さん金持ちだしさ、オレらとはレベル違うし。そしたら、”働かないとカノジョがプレゼントうけとってくれない”って言うんスよ!』
おっかしい、と内藤は腹を抱えて笑っていた。
豪が働くというのは、サイドワインダーの、いや北条豪を知る人間には、想像しがたいのだ。それほどまでに豪は、金持ちのお坊ちゃんとして気ままに振舞って生きてきたのだ。
『そう……』
『よっぽどしっかりしたカノジョさんっすね、豪さんのカノジョって。しっかし見てみたいっすよね。寺の境内に赤いゼットとNSXが並んでるんすよ! マジありえねー』


言った先からこの有様だ。しかも、働く先がどうにも斜め上なのが、豪らしいというか、なんというか。

かたん、と軽い音をさせ、葉書をポストに投函した。
「……どうせ三日坊主に決まってるわ。そう思うわよね? ねぇ」
赤い、物言わぬポストに同意を求めても、金属の函はうんともすんとも言わない。
「決まってるわ、続かないもの……」
豪がお寺で仕事など。続くわけがない、と。

続くわけなどない。 そう決め付けたかったが――もしも、仕事がずっと続いたら、次に何かくれたときには受け取らざるを得ないだろう――と、思った。

踵を返し、元来た道を帰る。
吐く息は白い。
袖口は解れたままで、あのブレスレットの重みが、豪の手の温かさが、不意に懐かしくなったのは、気のせいではなかった。

(終)
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