幾ら「車にしか興味はない」と公言していたとしても、世間一般の常識として今日という日が何の日なのかを知らないわけではない。
そしてその日に、隣の県とはいえ遠路はるばるを会いに来たことの意味を分からない唐変木でもない。
いつになく冷え込んだ日だった。
この日を狙ったように雪が降り、仕事は開店休業。出勤はしたものの、この天気では現場はどうにもならないから、とすぐに帰された。
その代わり、でもないのだが、事務員は「どうぞ」と、見るからに義理の形をした、赤いかわいらしい箱をくれた。
軽い重みはチョコレートのものだ。
雪道は好まない。
赤い箱を手に、さっき降りたばかりの通勤用の箱バンに乗り込むと、もう中の空気は冷えていた。
「……暇、だな……」
しんしんと降る雪は、空を、会社の駐車場を、あたり一面を白く染める。
雪は今夜も明日も降るという。
しばらくはエボを走らせることは出来ないだろう……エンペラーの集まりも天候次第だ、と――ため息をついた。
バレンタインに相手の居ない野郎ばかりが集まるのがエンペラーだ、と清次は今日の集まりにいつになく熱が入っていたが、これだけ降ってはどうしようもない。
(まあ、あいつも諦めるだろう)
ナビシートにおいた赤い箱に目をくれ、帰宅した後のことを考える。
DVDでも借りて帰るか――それともいっそ映画館のほうがいいだろうか。
インターネットカフェでだらだらと時間をすごすのも悪くはないかもしれない……。
中身を見たくなって、赤い箱を手に取った。
甘いものは好きじゃないが、だからといってこんな義理を、ただの形式を断るような馬鹿でもない。
一応はありがたく貰っておくのが、仕事を行う上での潤滑油だ。
「……あ、」
その下になっていたスマートフォンに、不在通知の四文字。
藤原拓海の名前。
昼間に会うのは、思えば初めてかもしれない。
不在通知から三時間後、オレは映画館でもインターネットカフェでもない、幹線道路沿いのファミレスで、こんな雪の日にわざわざ群馬くんだりから来た藤原と差し向かい、大してうまくもないコーヒーを三杯も飲んでいた。
「仕事お休みになったんですね、オレもなんですよ」
雪道は平気です、豆腐の配達で走り慣れてますからと藤原はいつもよりも饒舌だった。
雪が降った。
退屈をしていたから会いに来た。
藤原の理由は割りと軽かった。
オレもちょうど時間が空いていた。
ただ、今日という日は、女には重たい日だ。
2月14日。バレンタインデー。
手の中で、空になったデミダスカップを弄ぶ藤原の頬がほんのりと赤いのは、外の雪のせいでこのファミレスがエアコンを利かせすぎているせいだろうか。
ここに来る前に食べたというカレーのせいだろうか。
着込んだセーターのせいだろうか。
「……京一さん」
「なんだ」
「甘いものって……お嫌い、ですよね?」
前にそんな話をしたのかどうかは分からないが、藤原はそう聞いてきた。
「まあ、見てのとおりだ。好きじゃないな。そういうお前は好きなんだろう?」
「そりゃ、女の子はフツー好きですよ、甘いもの」
藤原の左側、テーブルのすみで、空になったパフェのグラスがぽつねんと佇んでいる。
「京一さん」
もう一度、呼ばれた。
「今日が何の日だか、知ってますよね」
藤原は微笑んで、言った。
「ああ」
知っている。
バレンタインデーだろう? そう答えた。
そこまでは、正気だった。
いかがわしいホテルに、昼間から入った。
ベッドに腰掛けた藤原の、硬く閉じた太股の間に、なみなみと注がれていく琥珀色の酒。
その匂いが、狭い部屋にむっと立ち込めた。
藤原の、髪と同じ色の淡い陰毛が、酒の中で揺れる。
「どうぞ……」
空になった酒瓶を手に微笑む藤原に、オレは、うなずくことも忘れてその前で跪いていた。
「飲んでいいですよ」
下は全部脱いだくせに、上は春色のセーターをしっかりと着ている藤原の、そのセーターの中ではちきれそうな胸が、軽く揺れた。
「ね、……京一さん、どうぞ」
蜜に誘われる蜂のように、その琥珀色の出来合いの池に、そっと顔を浸そうとする己の愚かさに気づく理性は、この時もう、どこかへと消え去っていた。
代わりに、顎を濡らしながら、わざと舌で腿を、淡く揺れる茂みを舐めあげる、男の本能はどこからともなく頭を擡げはじめていた。
「っ、」
腿を舐められ、藤原が軽く跳ねる。
「零すなよ」
「ふ、」
誘ってきたのは、そちらだ。
「いい味だ」
「……でしょう?」
頬を赤くそめて、藤原は笑んだ。
藤原の味のするきつい酒が、オレの喉を通っていく。
窓の外では、まだ雪が降っている。
こういうのを「試されてる」っていうんだろうな。
わかってるよ、自分でも。
いい年して試されてるの分かってて黙ってる自分が馬鹿だってことくらい。
でも、わかっているのに止められねぇんだ。恋愛って、そういうもんだと思う。
「……何でだよ」
既読のつかないライン。幾ら発信しても電源が入っていないか電波の届かないところにいるという音声案内。
どうしてこういう日に、藤原と連絡が取れねーんだよ。
二月十四日。バレンタインデー。
雪がちょっと積もった日だ。
藤原とは朝から連絡が取れない。
なんで、オレから逃げんだよ。
藤原とは恋人ってほどじゃないけど、友達よりは頭一つ抜けてると思っている。
個人的に会ったりするし。
メシ食ったり遊んだりドライブしたり。
キスもするし。
セックスだってする。
ナマでもする。
オレのこと、好きだって言ってくれるし。
ただ、決まった相手一人に縛られたくないというあいつの意思をオレは尊重しているつもりで、オレだけのものになれとは言わない。
ほかに相手がいるっぽい雰囲気はある。
けどオレとはちゃんと言わないだけで、限りなく恋人に近いハズだ。
なのになんでバレンタインデーに連絡取れねえんだよ。
どういうつもりなんだよ。
一向に既読のつかないラインには、オレの一方的な「今どこ?」「なにしてんだよ」の文字が並ぶだけ。
メールも一杯送ったし、着信も残した。
ここまでして何もないってことは、きっと電源切ってんだ。
何処にいるんだよ。
誰といるんだよ。
「藤原は誰にチョコあげんだよ」
「え、オレですか……」
一週間前、二人で飯食った後に歩いたデパートには、バレンタインのチョコがたくさん並んでいた。ごく当たり前のように、藤原とそういう会話になった。
「会社の先輩とか……あと毎年、イツキにあげないとあいつ拗ねるから。あとはオヤジにタバコ、と……」
と、の後はフェイドアウト。
チョコ、オレにもくれんだろ、とは聞けなかった。
けど、そのあと、オレの家でセックスしたんだぜ?
一杯キスもしたし、オレのこと好きかって聞いたらうなずいたんだぜ。
当然、十四日は会えるし連絡取れるしチョコくれるって思ってた。
何年も引きずっていた、この関係。
今年こそはけじめつけるつもりでいた。
バレンタインデーなんて、いい機会だから、ちゃんとさせるチャンスだと思ってた。
「……何してたんだよ」
日付が変わって、やっと藤原と連絡がついた。オレの部屋に呼び出したのは十五日の夜。
「だから、携帯の電源切って、家に忘れてたんですよ」
仕事の研修があって県外に行ってて、と藤原は言い訳をしていた。
でもその目は嘘ついてるときの目だった。
藤原はよく嘘をつく。その割に、ごまかすのが下手だ。
「ほら、これ啓介さんの……」
ちょっと高いチョコの箱を差し出してきた。
「誰と会ってたんだよ」
「……だから、仕事、」
「嘘つけよ。お前の職場に電話したら、休んでるって言ってたぞ」
「なぁ、藤原。お前昨日一日ケータイの電源切って連絡絶って、誰とヨロシクやってたんだよ!」
自分でもガキだと思う。
藤原を押し倒して、離してくださいともがく細い体を、無理やり組み敷いて。
「そんなの、やってな……!」
「嘘ばっかりつくんじゃねぇよ!」
首筋に赤い印だとか。
見せつけるようなことしやがって、何がナニモシテイマセンだ。
馬鹿にしやがって。
「い、や、だっ……!」
もがく藤原の足の間にオレの足を入れて、いやだという口を口でふさぐ。
なんでタバコの味がするんだよ。お前の口。
誰とキスしたんだよ。
オレにしては、割と我慢はしていたほうだと思う。
けどもうそれも限界だった。
バレンタインデーに一日、放っておかれて、堪忍袋の緒が切れた。
意外とオレってガキだった。
「やめ……て、…啓介さぁ……っ」
ほら、なんでココ、腫れたみたいになってんだよ。
昨日散々やりまくった証拠じゃねえか。
「うるせーよっ。どうせナマでやらせたんだろ?」
なあ、言えよ。相手は誰なのか。
お前の中に出した後に、ブン殴りに行ってやるんだ。
(終)
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