スムージータイム

「涼介、まだ終わらねーのか?」
襖を開けながら中に声をかけると、文太の部屋の文机に向かっている背の高い人影が、こちらを向いた。
「あと一時間くらいかかりそうなんですが……すみません、お父さん。お部屋お借りして」
「いや、いいけどよ」
疲れた顔の涼介の周りには、分厚い専門書や辞書がうずたかく積みあがっている。
さっきまで赤城でプロジェクトDの打ち合わせをしていたようだ。それが終わって、涼介は拓海について藤原家に来た。と思ったら、勉強が残っているから机を貸してくれと言われ、文太は自室を貸してやった。
勉強があるなら家に帰れといいたいところだが、そうまでしても、自分に会いたいという涼介の気持ちを無碍にもできなかった。
文太が店を閉めて明日の準備をしても、涼介の今日の勉強はまだ終わらない。
走りと勉学を両立することは傍から見るよりもはるかに大変なようだ。爪を噛みながらノートに書きつけていく涼介を、文太は不憫だと思った。

「根つめるのも大概にしとけよ、拓海なんかもう……」
拓海は向かいの部屋で、とっくに夢の中だ。
「はい、ありがとうございます」
軽く礼をして、涼介はまた机に向かい、ペンを走らせ始めた。
「……ちょっくらガソリン入れてくる」
「お気をつけて」
そのままそばにいるのも気が引けて、かといって居間でテレビをつけるのもはばかられ、文太はインプレッサに乗り込んで、宛もなく走り始めた。


ガソリンといったものの、祐一の店はもう閉まっているし、そもそも昼間にインプレッサのオイルは満タンにした。
だから、向かったのは……いろいろ考えた挙句、秀司の店だった。

「悪いな遅い時間に」
「いや、気にすんなよ。水臭ぇ」
すっかり一人になった店の厨房で、秀司は道具のチェックをしていた。こんな時間に突然たずねても嫌な顔をしない、数少ない親友の一人だ。
「昼間は店の連中が居るから車の話もしにくいしな、この時間の訪問は大歓迎だ」
「そうだな」
肩を揺らして笑う秀司に文太も思わず笑みがこぼれる。
「ま、たしかにな……」
昼間に店を訪れると、有名店の仲間入りをしているこの店の厨房は戦争に近く、車の話を持ち出せる雰囲気ではない。
勧められたパイプ椅子に座ると、秀司が「コーヒーでも飲むか」と聞いてきた。
「ああ、悪いな」
甘いにおいのしみついた厨房で、文太はふ、と息をついた。
「ほい、インスタントだけどよ」
かわいらしいカップに熱々の黒い液体が注がれ、目の前に置かれた。
「すまないな」
「なに水臭いこと言うなよ! それより、車どうだ。インプレッサ、大分いじったか?」
「ん? いじりだしたらきりがないから今は最小限だな。拓海も乗ってるからなーいろいろやりたいことはあるけどよ、あんまり変えちまうとなぁ」
「随分息子思いだな。ハチロクと交代で乗ってんだろ?」
「まあな。それよりお前もそろそろスポ車に戻らねえのか?」
「それがよ、かみさんが許してくれなくってさ! 目ぇつけてる車はあるんだけどさー」
今はファミリーカーに乗っている秀司は、独り身の文太とは違い、スポーツカーを買うには「妻の許し」という高い壁を乗り越えなければならないようだ。
「二号店も出すしなー、そこが上手くいったらオレだってエイトくらい買うぜ?」
「ほぉ」
「ま、二号店が上手くいったら三号店って言われそうな気もするけどなぁ。文太がインプ買ってぶん回してんの見たら、こちとら黙ってられねえよ。祐一も次はそれなりのにするって言ってたしな」
「あいつの店は車好きが集まってるからな。刺激もされるさ」
文太の隣に椅子を持ってきて腰を下ろすと、秀司は「だな」とうなずいた。
「そうだ秀司、なんでもいいんだけどよ、持って帰りたいんだがケーキかなんか売れ残ってねえか」
「あ?」
「オレじゃねえよ。うちに今涼介がいるから、あいつに土産でもと思って……」
「なんだ、宗旨替えかと思った」
甘いものは嫌いを公言する文太からケーキの在庫をたずねられて一瞬びっくりしたと秀司はまた笑った。
「悪いな、あいにく生菓子は今日は全部売り切れなんだよ。クッキーとかマドレーヌくらいしかないんだ」
「そうか……そりゃ残念だな。なんにもねえのか?」
ぐるりと見渡した厨房は甘い匂いが漂っている。探せばケーキの一つくらい出てきそうな雰囲気なのだが。
「ああ、なーんにも、だ。今日駅前の青空市に頼まれてちょっとのつもりで出したんだけどよ、思いのほか売れ行きがよくてさ。根こそぎ買い上げられちまったんだよ」秀司は膝をたたいた。
スイーツ系を出店したのが秀司の店だけだったらしく、おまけに有名店ということもあり、売り切れて店から追加を持っていったがとうとう全部売り切れたというのだ。
「いつもならババロアとかシュークリームくらいはあるんだけどな……」
「ないなら仕方ねえな。コンビニでなんか買っていくさ」
帰り道にはコンビニはいくらでもある。
涼介の好きそうなケーキを幾つか買って帰って、と文太は算段し始めた。
「……コンビニ寄るとか言われちゃあ本職は黙ってられねえなあ」
ぽん、と膝を叩いて立ち上がった秀司はおもむろに隅の冷凍庫に行き、扉を開け、「あった」と声をあげた。
「文太、お前んとこ豆乳あるだろ」
「ああ、そりゃあるさ」
「ミキサーは」
「もちろんある」
「じゃあ、材料やるから、家で作れよ」
「……オレが?」
「そ」


空のタッパーウェアに、秀司は冷凍庫の中身を入れていった。
凍ったもの特有の、カラカラという音がする。
「おいおい、秀司。オレは菓子なんて作れねえぞ」
「大丈夫だって、菓子っていうほどのもんじゃねーから」
凍った何かが半分ほど入ったタッパーウェアの蓋を閉めると、秀司はそれを文太に渡した。
「ほい。簡単なもんだから、お前でも作れるぜ」
「……あぁ?」


それから半時間ほどして、文太は帰宅した。
案の定、涼介はまだ二階で勉強をしているようだ。
(うまくいけばいいんだがな)
秀司に渡されたタッパーウェアを手に、文太は台所に入った。
棚の奥から出してきたミキサーに、タッパーウェアの中身……凍った、、カット済みのフルーツを入れる。完熟のフルーツは、そのまま食べても美味しいものばかりだ。帰るころにはちょうどいい溶け具合になるだろうと秀司が言っていた通りだ。
冷蔵庫から、店の売れ残りの豆乳を取り出して、フルーツの上に注ぐ。そして蓋をして、ミキサーのスイッチを入れる。
唸りをあげながら、ガラス容器の中でフルーツは砕かれ、豆乳と混ざり合う。
「ほぉ」
なるほどな、と文太は納得した。
昔、拓海が小さいころに缶詰のフルーツと豆乳をミキサーで混ぜてミックスジュースらしきものを作ってやったことはあった。
凍らせたフルーツなら、スムージーというものになるらしい。
秀司が出そうとしている二号店でスムージーを提供したいという案が出ているようで、試作を重ねているらしい。だから冷凍庫にはその材料があった。文太がもらってきたのは、それだ。
大ぶりのガラスのコップにスムージーを注ぐ。
もったりとした、固い液体はとぽとぽとガラスコップに移りながら甘いにおいをさせている。
スムージーならこれだ、と秀司がくれた、やや太めのストローを刺した。


「涼介、どうだ」
襖を開けると、出かける前と変わらない風景があった。
いや、さっきよりも涼介は熱中しているのか、参考書の類が畳の上に散らかっている。
「お父さん、お戻りですか」
「まあな。甘いもん飲めよ。作ったから。下にある」
「ありがとうございます。……作ったって、お父さんが、作ったんですか?」
「ああ」

文太に言われるがままに下に降りた涼介は、居間のちゃぶ台の上に置かれた、真夏の色をしたスムージーの入ったグラスに、声を上げた。
「これ、お父さんが?」
「ああ。秀司んとこで教わったんだよ」
教わったというにはかなりざっくりとしたものだったが。
少し味見をしたが、甘いものがそれほど得意ではない文太でも旨いと思える味だった。さすが本職というべきか、秀司が集めてきた完熟のフルーツはそれだけでも十分な美味しさで、砂糖などいらない。そこに文太の作った豆乳が加わるのだ。
美味しくないわけがないのだ。

早速膝を正しく折って座ると、涼介はグラスを両手で持ち上げて、ストローに口をつけ、ひと吸いした。
「……あ……すごく美味しい」
疲れが見えていた顔が、ぱあっと明るくなった。
「そうか、そりゃ良かった」
文太の顔がしぜんとほころんだ。
可愛い涼介が喜んでくれたから。
「実は少し疲れていたんです。だから、甘いものは本当にうれしいです」
涼介はグラス一杯のスムージーを嬉しそうに飲んだ。

今夜は暑いからな、冷たいもので頭も冷やした方がいいだろうし、甘いものは頭を使った後にいいから――と秀司の言ったことはなるほど間違いではなかったようだ。

「お父さんがおやつを作って下さるなんて、思ってもみませんでした」
「オレだって思わなかったぜ。秀司の店で買うつもりだったからな」
あっという間にスムージーは空になり、涼介はおかわりをした。


「……なにこのいい匂い……」
「おう、拓海か」
「藤原、起きたのか」
早くも寝癖で大変になった頭を掻きながら、拓海が降りてきた。スムージーの甘いにおいに誘われたようだ。
「なに飲んでるんですか、涼介さん」
「お父さんがスムージーを作ってくれたんだ。お前も飲むか?」
「……オヤジが? へえ……珍しいこともあるんだ」
涼介の隣に座った拓海は、涼介が手にしているグラスと文太の顔を交互に見比べた。
「ま、オヤジが涼介さん相手に珍しいことばっかすんのは今に始まったことじゃねーけど……」
「なんだよ拓海、その言いぐさは」
「べつにぃ」
皮肉丸出しの釘を刺され、文太が眉をひそめた。
「オヤジ、オレにも入れてくれよ」
「自分で入れろよ」
「なんだよー、ケチっ」
「仕方ねえ奴だな……親こき使いやがって」
「あ、お父さん、オレもお代わりを頂けたら」
涼介が便乗する。文太は仕方なしにという感じで、よっこらせ、と立ち上がった。
「涼介さんとは態度違うのな」という拓海の声を背に、台所に入った文太だった。

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