深い眠りに落ちていた。
目が覚めたら、オヤジが運転する車の後部座席だった。
薄暗さで、ああ、夜なんだ、と気づいた。
オヤジのジャンパーが横になっているオレの身体に掛けられていて、それをぎゅっと握り締めた。
起き上がって、運転するオヤジにとうちゃん、と声をかけようとして、思いとどまった。
なんとなく、声を掛けちゃいけない気がしたから。
だから、そのまま目を瞑って、寝たふりをした。オレの記憶が確かであれば、寝たふりをしたのはあれが最初だったと思う。
ジャンパーのポケットにはオヤジの腕時計が入っていた。こっそりそれを取り出すと、子供にはもう真夜中と言っていい時間だった。
――予感めいたものはあった。
どうしてこんな時間に、オヤジはオレを後ろに乗せて、ハチロクで走っているのか。
ねえ、とうちゃん。どこにいくの?
いつもなら聞けるのに、この夜は聞いてはいけないと、そう思った。
リアシートに横になれるほど、そのときのオレはまだ小さかった。
ハチロクは暫く走って、止まった。
オヤジはオレが寝ていると思っていたようで、こっちをちらっと見ただけで、ドアを閉めて出て行った。
チャイムを鳴らす音。はい、とドアの向こうから人の声。ドアを開く音。
「すみません、こんな夜分に……」珍しくぺこぺこするオヤジの声がした。
「あら藤原さん、どうなさったの……」
あの声は、そうだ。聞いたことがある。母ちゃんの友達だ……。
オレは、オヤジのにおいのするジャンパーをぎゅっと握ったまま、その音を、声を、聞いていた。
予感めいたものは、ずっと前からあった。
昨日も二人は喧嘩していたし、その前から、ことあるごとにぶつかっていたから。
いつかこうなるんじゃないのかな、って、思ってはいた。
でもそれを口にすることは勿論はばかられたし、そんなのはただの気のせいだと、そう思いたかった。
「そうなの、……でもねぇ、私もあの子とは最近連絡とってなくって……心当たりって言ってもねぇ、」
「そうですか……」
母ちゃんの友達は、ウチに何度も来たことがある、かなり親しい人だった。
オヤジの言葉に相槌を打ち、やっと口を開いたと思ったら申し訳なさそうに、そう言って。オヤジの訪問は当てが外れたようだった。芳しくない返事しか返ってこなかった。
「力になれなくてごめんなさいね、連絡があったら必ずお電話するから」
「その時は、どうぞよろしくお願いいたします」
「もう、藤原さんたら、頭を上げて……拓海君のこともあるんだし、何でも困ったことがあったらおっしゃって」
「ええ、その節はどうか……」
絞り出すようなオヤジの声は、泣きそうになっていた。
オヤジのジャンパーに顔をうずめたまま、オレは、いつの間にか泣いていた。
これは悪い夢で、目が覚めたらまた、元通りに戻っているんだ。
あったかい布団の上で、二人に挟まれて寝ているんだ。
そう思いたかった。
でも、ためしにつねったほっぺたは濡れて痛かった。
涙はちっとも止まらなかった。
後から後からあふれてきた。
そのうちオヤジが戻ってきた。乱暴にドアを開け閉めして、ハチロクはまた走りだし、そのあといくつかの場所にまた止まった。
どれも、母ちゃんの知り合いや友達といった人たちばかりで、でも、どの人からも、オヤジがほしがっている言葉は得られなかったようだ。
ハチロクはずっと走って、それから、秋名の峠にさしかかった。
峠を上って、下る。オヤジはそれを何回か繰り返した。
きっと、むしゃくしゃしていたんだろうし、この後のことに不安しかなかったんだろうし、とにかく――ただ走りたかったんだろうと思う。
限界速度ギリギリの走り。キンコンが鳴り続けた。
迫ってくるガードレール。真横にすべるハチロク。
でも、後ろに乗っているオレはちっとも怖くなかった。
シートに横になって、身体全体で受け止める横Gは、むしろ心地よかった。
きっとこんな話を涼介さんにしたら、この頃から走り屋になる素養があったんだろうなんて結論になるんだろうけど……。とにかく、オヤジの走りは気持ちよかった。
上って、下る。
それは何回も何回も繰り返された。
オヤジは勿論、オレが寝ていると思っているからずっと黙ったままだった。その代りに、タイヤは悲鳴のようにスキール音を上げていた。
あれはきっと、オヤジの代わりに車が、ハチロクが泣いてくれていたんだろう。
子供心にそう思った。
大人は泣きたくても泣けないんだと聞いたことがあった。
だから代わりに誰かに泣いてもらうんだと。
オレの涙は、いつの間にか止まった。
「……もうガスがねえな、」
この辺で止めとくか、オヤジが苦笑いをして峠を上るのを止め、家に帰ろうとウインカーをあげたのは、果たして何回目だったんだろう。
「とうちゃん、」
後ろから、やっとオヤジに声を掛けられた。
「拓海、起きたのか」
「うん」
ずっと起きていたんだよ、とは、言わなかった。
オヤジは少し走ると、路肩にハチロクを停め、サイドを引いた。
「あのなぁ、拓海……」
オヤジが振り返った。
「うん」
「母ちゃんがな」
「うん」
「出て行っちまってな……」
「うん」
父ちゃんが悪いんだ、オヤジはそう言って、オレに謝ってきた。
ごめんな拓海、大好きな母ちゃんがこんなことになっちまって、と。
さっき泣いたから、もう、平気だった。
「じゃあ、今日からオレととうちゃんの、二人っきりなの?」
「そうだな……」
「平気だよ、オレ、お店手伝うから」
「そうか……悪いな、拓海」
オヤジの大きい手が伸びてきて、オレの頭をなでてくれた。
オヤジはほっとしたような、疲れたような顔をしていた。
母親がいなくなったのは、この夜だった。
そしてオレはオヤジと二人で暮らすことになった。
それが始まりだった。
夜だった。
(終)
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