海往かば

ちょっと出かけるか、と文太が『文太』を誘ったのは、昼前のことだった。
午後から店を臨時休業にし、インプレッサを走らせた。
「どこ行くんだよ、おっさん」
「いいから付いて来い」
「飯は?」
「用事が終わったらな」

行き先も目的地も教えず、文太は19歳の自分を連れてドライブに出た。

高速に乗って群馬を出て、県を跨ぐ。
山の向こうにまばゆく煌めく海が見えてきたのは、家を出て二時間半後。

海が見える、高台の霊園が目的地だった。
その一隅に、藤原家の墓はあった。
文太の祖父母も両親も、拓海の母親も、沢山のご先祖様も眠っている。
たくさんの、たくさんの死者を擁する小さな墓石は、海に向かってじっと建っていた。
来がけに買った花と果物を供え、線香に火をつけると、細く白い煙は海風に乗ってそはそはと立上った。

「……まさかオヤジもお袋も死んでるとか思ってなかったな……」
墓石の前にしゃがんで両手を合わせ、『文太』は呟いた。
25年後のこの世界で、まさか自分の両親が揃って鬼籍に入っているとは、予想だにしていなかったようだ。
「仕方ねぇんだよ。旅先で事故に巻き込まれちまったんだから……」
『文太』の後ろでタバコを咥えたまま、文太は俯き加減だった。
元気そのものだった文太の両親は、拓海が母親のお腹にいる頃、夫婦揃って出かけた旅行で、不幸にも事故に巻き込まれてこの世を去った。
そして拓海の母親は、拓海を産んで身体を弱くし、拓海が3つになる前に……。

事故の賠償金で貰ったカネで、両親が好きだった海の見えるこの霊園に墓を求めた。
もともと先祖代々の墓は古かったから、いずれは建て直さなければならなかったのだが。

この霊園の区画分譲の広告を見つけてきたのは拓海の母親だった。
ねえ、文太さん。このお墓、海が見えるんですって。ここだったら、お義父さんもお義母さんも喜ぶんじゃないかしら。文太にチラシを見せながら微笑んだ彼女だったが、よもや自分もまもなく其処に入るとは思ってもいなかっただろう。
「なぁ、オレの嫁さんって、美人だったのか?」
「ん? ああ、そうだな……拓海見りゃ分かるだろ。あんな顔だ」
「ふぅん」
19歳の文太は、拓海の母親になる女性とはまだ出会っていない。
見たこともない将来の妻の墓に手を合わせるのも、なんだか不思議な気持ちだった。

「ま、確かにオレって面食いだしな」
立ち上がると、『文太』はうん、と伸びをした。

海からの風が心地いい。

「おっさんも勢い余って死ぬなよ?」
「うるせーよ。死ぬもんか、オレはこれからいっぱい人生楽しむんだよ……拓海が大人になって家を出たら、そっからはオレの天下だ」
「はは……」
二時間半を掛けてやってきた墓参りは、ものの十数分で終わった。
墓石に刻まれた、両親とまだ見ぬ将来の妻の名前を指でなぞり、『文太』は悲しそうに微笑んだ。
「あっちに帰ったら、オヤジもお袋も大事にしてやんねーとな……」
「そうだな……」
『文太』の呟きに、文太は同意した。
文太が19歳の頃は、両親ともまだまだ現役で、文太が30を過ぎなければ豆腐屋は譲らないから、と言い張っていた。
夜な夜な峠で遊んでいた文太とはよくぶつかっていたけれど、文太がレーサーになった時は誰よりも喜んでくれたし、レース会場では一番前で手作りの不恰好な横断幕を広げて応援してくれていた。
息子の戦績に一喜一憂してくれた。
車のことは詳しくなかった両親だったけれど、レーサー文太の、良き理解者だった。
勿論結婚も、喜んでくれていた。

孫の拓海が産まれるのを楽しみにしてくれていた。
身体にいいからと、身重の拓海の母親に、毎日豆乳を届けに来てくれていた。
それが不慮の事故で、さよならの言葉もなく星になって。
文太が豆腐屋を継ぐことになったのは24の時だ。
「お前、あっち帰ったら、お袋の肩ぐらい揉んでやれ」
「分かってる」
スン、と鼻を啜る『文太』に、文太は着ていたジャンバーを脱いで掛けてやった。
「帰るか。飯もまだだしな」
「うん……」
文太に促され、駐車場へと戻る。

駐車場からは霊園よりももっといいロケーションで海が一望できた。
「いいトコに墓、持ったな」
「ああ。オヤジとお袋は海が好きだったからな」
「いい墓見つけてきたんだな、おっさんの……オレの嫁さん」
「そうだな」
いい嫁だったよと、文太は笑った。

青いインプレッサに乗り込むと、『文太』が文太にすがり付いてきた。

「どうしたんだ、『文太』……」
「なんでもない……けど、」
「けど?」
『文太』の声は震えていた。
「……なあ、おっさん」
「ああ」
『文太』が顔を上げた。目が、赤らんでいた。

「帰り、飯の後……ホテル行こう?」

「……――」
文太の服を掴む細い指が、小刻みに震えている。
「いいぜ……別に」
額に軽くキスをくれてやり、『文太』をナビシートに押し返した。
「高速降りたトコに古いのがあったな……飯、何がいい」
「あれ古すぎねえかな……やってんのかよ……飯は、何でも……」
「じゃあカツ丼でいいか」
「うん」

インプレッサは低い音を立て乍走り出した。

窓を開けると、海からの匂いが、車内を満たす。

涙の匂いと同じだ。
ああ、だから、オヤジとお袋は海が好きだったのかと、『文太』は理解した。
未来の嫁さんがここに墓を買おうと言ったのも、そういうことだったのかと。

『文太』がしゃくりあげて泣き出したのは、カツ丼の店の、少し手前だった。

海の、涙の匂いが、車の中に満ちていた。
(終)

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