「すかした野郎がいるンだよ、赤城の峠によ」
その男の話を初めて聞いたのは清次からだった。その時、清次が珍しくしかめっ面だったことを京一はよく覚えている。
「真っ白なFCに乗りやがってよ、ロータリーサウンドだかなんだか知らねぇけど、イキった走りしやがんだよ。気に入らねぇったらありゃしねえ」
清次と仲の良い、群馬の走り屋がそのすかした野郎とやらにバトルで負けたのだと言う。
「ゲーノージン気取りかってんだよ、あんな洒落込んだ格好しやがって……」
清次はそのすかした野郎を見たことがあるらしい。曰く、芸能人のような顔立ちの、すらっとした綺麗な男だとか。
顔の部分は別にどうでも良かったが、京一はそのすかした野郎とやらの走りには興味を持った。
「速いのか?」
「そりゃもう、腹が立つぜ、京一ィ」
「オレとどっちが速い?」
「京一が勝つとは思うけど……あー、でもいい勝負すると思うぜ」
そう言われて、奮い立たない走り屋はいないだろう。
「そうか……」
頬を撫でていく夜風が、生ぬるい夜のことだった。
自分の中で昂っていく何かを感じた。
休みの都合を付けて、赤城の峠に京一が向かったのは清次から話を聞いてわずか数日後のことだった。
それだけ京一の中では、その男のことが気になっていた証拠だろう。ロータリーサウンド、白いFC、魅せる走り、圧倒的な速さ。どれをとっても気に食わないと清次が言っていた。京一もその走りをぜひ見てみたいと思った。
この曜日ならあのFCは昼間も走っているらしい、そう聞いて、赤城の峠を走ったのは昼を少し過ぎた時間だった。
昼下がりの峠は静かだった。
(あれは、……)
エキゾースト一つ聞こえない山道の路肩に、白い車が停まっているのを見つけたのは、走り始めて十分ほど経ってからだ。
当てが外れたか、夜に出直すかと思っていた京一の目に飛び込んできた白い車体は、清次から聞いた噂のFCそのものだった。
ナンバーも、地を這うような流線型のボディも、貼ってあるステッカーも、噂の通りだ。
一度通り過ぎ、エボを路肩に止めると京一は車を降りた。
停まっている白いFCに歩み寄って中を覗き込んで、……絶句した。
車内では男が寝ていた。
倒せないバケットシートの中で、窮屈そうに眠っている、なま白い顔をした男。黒い前髪が少しだけ乱れていた。
「……」
言葉を失ったのは京一の人生で二度目だ。一度目は、免許を取りたての頃、清次と草レースを観戦した時、プロが操るエボVの走りを見た時だ。次の日には近所の走り屋御用達ショップに問い合わせをしていたほどだ。
二度目は、今。
京一は文字通り、声が出なかった。
眠っているその男、高橋涼介というFC乗りのその寝顔は……京一を絶句させるのに相応しいものだった。
――ゲーノージンみたいな綺麗な男だよ。
清次の言った通り、いや、それ以上に綺麗な顔をしていた。
整いすぎるくらい整った顔。
少しやせ気味の頬と薄い唇とが、儚さを醸し出していた。長いまつげがぬれていた。
膝の上でだらんと力を無くしている手は細かった。
心臓が、どくんと高鳴った。
気づけば京一はFCのナビ側に回っていた。手は、ドアを勝手に開いていた……カギは、掛かっていなかった。
「……ッ、」
吸い寄せられるようだった。
京一の身体は勝手に、その男に近づいていた。ナビシートに膝を付き、ダッシュボードに手を掛け、そして――
冷たい唇だった。
(嘘、だ……)
我に返った時にはもう遅かった。
京一は、眠っている涼介に、口づけていた。
涼介はまだ眠っていた。
むっとする車内にあって、涼介の唇は驚くほど冷たかった。
気づいたときは後の祭りで、京一は慌ててFCから降りて、文字通り逃げ出した。
停めてあったエボに乗り込むと、今来た道を猛スピードで下った。
馬鹿なことをしたと後悔しながら、そのまま、栃木へと戻った。
どうにかしていたのだろうか。初めて見た男の寝顔にそそられて、断りもなく、その男に口づけるなど。
いや、断りがあったとしても可笑しいことなのだが。
大体京一にそのケは無いはずで――胸の大きい、派手な女が好みだ。何を血迷って、男に口づけをしてしまったのだろう。
「赤城、どうだった? 京一」
栃木に戻って早々に、清次からメールが届いたが、「エボの調子が今一つだったから行かなかった」と、下手な嘘をついて誤魔化した。
「京一、知ってっか。赤城の話」
清次が真夜中に電話を掛けてきたのは、京一が赤城に行ってから十日後のことだ。
「どうした清次……赤城がどうした」
「いやぁ、例のすかした野郎がよぉ、……そう、あのFC乗りの男。アイツが、妙な病気に掛かっちまったらしくってよ」
今群馬エリアはその話で持ち切りだってよ、と、真夜中にもかかわらず、興奮気味にまくし立ててきた。
「妙な病気……?」
「あぁ、なんでも、眠っちまって起きねぇらしいんだよ。高橋涼介が」
「……」
清次曰く、高橋涼介が峠に停めた自分の車の中で眠っているところを、同じチームの人間が見つけたらしい。
問題は、幾ら起こしても起きないのだという。
彼の実家である病院に搬送されたものの、彼はまだ起きないらしい。
「この十日、一度も目ェ覚まさねぇらしいぜ」
「十日……ってことは、そいつが眠ってたのが見つかったのは、もしかして、」
「ああ、京一が赤城に行く予定だった日だよ」
心臓が喉元まで飛び出してきそうだった。
「峠に行くっつって朝、家出たまま帰らなかったらしいぜ。んで、チームの人間が探しに行ったら路肩に停めた車で寝てて……」
清次がその後何と言ったのか、京一はよく覚えていなかった。
ただ、京一が口づけた彼があの後、目を覚まさなかったのは事実だ。
いや、あの時は既に眠ってしまっていたのだろうか?
峠に行く人間は噂話が好きだ。
すわ病気だとか、呪いじゃないのかとか、もう目覚めないだろうとか、言いたい放題を言っていた。
「病気じゃないっつてったぜ。調べたけどなんもわかんなかったって、オレは聞いたけど」
「バトッた時になんか古い石碑みたいなのを壊しちまったことがあるって聞いたぜ。その呪いじゃねーの」
「そもそも家が病院なんだろ? オレらみてぇな貧乏人とはわけが違うんだから、何とかなるんじゃねーの」
眠ってしまったまま目覚めない高橋涼介について、それぞれが意見を述べていた。
走るために集まった明智平のレストハウス前で、京一のチームメイトたちは走りをよそに、口角泡を飛ばしていた。
「お前ら、話す間があるんだったら走って来い!」
清次が一喝するとメンバーたちは蜘蛛の子を散らすようにそれぞれのエボに乗り込んでいった。
黒光りするエボVのボンネットに腰を下ろしたまま、京一は腕を組み無言だった。
あの日自分が口づけた男は、あの日以来ずっと目を覚まさない。
どうしてあの時口づけたのか。声を掛けなかったのか。
一体、どうして。
高橋涼介は目覚めないまま、とうとう実家が経営する病院から出されたという話が京一の耳に飛び込んできたのは、「あの日」からたっぷりひと月は経過していた。
栃木県内に高橋涼介の母親の実家があって、そこが持っている別荘に家政婦といるらしい、そして彼はまだ眠ったままらしい――噂話にはそんな続きがあった。
深夜、いろは坂を散々攻めた帰り道、京一の操るエボは帰路ではない道を急いでいた。
破裂音を響かせながら、街灯の少ない山道を登っていく。
小さな湖畔の赤い屋根の別荘、庭には薔薇の花が咲いていて季節には薔薇園になる――噂だけを頼りに、京一は行ったことも無い他人の家を目指していたのだ。こんな、真夜中に。
集落が減って本格的な山道になり、きついカーブが連続する。それを過ぎると道がふっと広くなり、古びた「××薔薇園はこちら」という看板が現れ、その奥に赤い屋根の豪邸が見えた。
「あれだ……」
あの赤い屋根の家に、あの男は眠っているはずだ。
ひと月前、京一が赤城の峠で寝顔を見て思わず口づけてしまった、高橋涼介が。
固く閉じられた古い門の前にエボを停め、屋敷を見上げた。
つる薔薇の絡む屋敷は、季節だけとはいえ薔薇園をするには相応しい立派な花園を擁している。
水銀灯の一つもないらしい庭は暗い。夜中だというのに噴水が上がっているようで、水音が聞こえる。
(……どうする……?)
ここまで来たものの、さて、どうしたらよいのか京一は迷った。高橋涼介のいる屋敷に行く、それだけしか頭になかった。
こんな真夜中に非常識極まりなかったが、場所を聞いてしまった以上、居ても立っても居られなかったのだ。
「あ……」正門ではない、通用口と言っていいだろう小さな門が開いているのが見えた。
あの日と同じように、京一はその小さな門に吸い寄せられるように近づいた。
門をくぐると、屋敷の裏手に続く道があった。
その道を行くと、屋敷の入り口らしき木戸があった。押すと、鍵がかかってないらしく、木戸は開いた。
ギシっと軋む音を立てて開いた入り口から、京一は屋敷に入ることに成功した。
(不法侵入だな……)自分のしたことに苦笑しながら、埃っぽい屋敷の中を進んだ。
噂を信じるなら、これだけの家でありながら住んでいるのは家政婦と、高橋涼介のただ二人だ。時間からして、家政婦ももう眠っているだろう。
レトロな造りの屋敷の廊下は広く、壁に絵画が飾られ、大ぶりの花瓶に薔薇が生けられていた。
家政婦が起き出して来たら何と言おう、こちらが言い訳をする前に警察に突き出されるだろうか――いや、何と言い訳をすれば良いのか……。
迷いながらも廊下を歩き進むと、少し開いた扉があった。
誘われるようにその扉を開く。
そこで京一は、ようやく気付いた。
何もかも最初から御膳立てされていたんじゃないか、と。
中は広い部屋だった。
ランプの明かりだけの、薄暗い部屋だ。
天蓋付のベッド。御伽噺のお姫様のようだと思った。
天蓋から垂れる薄葉を開くと、――眠っていた。あの日峠に停めたFCの中で眠っていた、高橋涼介が。
あの日と同じく静かな寝息を立てて。
「高橋、涼介」
名前を呼んでみたが、反応はなかった。医者が何人も寄ってたかってもどうしようもなかったのだ、京一が呼んだくらいで起きるわけもない。
「オレは、須藤京一だ。お前の走りに興味があって、あの日、赤城に行って……」
遅すぎた自己紹介を、たどたどしく続けた。
「お前が寝ているのを見て……」
あの日と同じく、胸が高鳴っていく。
綺麗な寝顔だ。
「どうしようもなくなったんだ」
また、吸い寄せられるように、京一は高橋涼介に手を伸ばした。
冷たい頬を手の甲で撫ぜた。
「今日も、お前がここでいると聞いて……こんな時間に非常識だと分かっていたんだが……」
高橋涼介の上に影を作ると、京一は顔を近づけた。
あの日と同じように、涼介に口づけた。
やはり冷たい唇だった。
突然、ランプの明かりが消えた。
次の瞬間、屋敷に絡みついていたつる薔薇が、ざわざわと蠢き、あっという間に伸び、窓という窓を塞ぎ、屋敷全体を覆った。
「な、っ……!」
それは瞬く間のことで、京一は驚き、絶句した。
三度目の絶句だ。
「……遅い」
驚く京一を、低い声が叱った。
「遅いぞ、須藤京一……」
「……高橋、涼介……」
自分の下で眠っていた筈の涼介が、目覚めていた。そして京一を恨めしそうに睨んでいた。
「ずっと待っていたんだ。京一」
「……」
「オレは前からお前のことを知っていたんだ。京一」
涼介が白い腕を伸ばし、京一の首に絡めた。
「そしてお前が会いに来てくれるのをずっと待っていたんだ」
綺麗な涼介の目に、驚いた顔の京一の顔が映っていた。
京一が居なくなった、そんな噂話、いや事実は北関東エリアの走り屋の間で今最もホットな話題となっていた。
いろは坂で走り込みを終えた後、どこかに急いでいた、誰も見た者はいないということで、神隠しではと噂する人間も多かった。
一方で、赤城の高橋涼介は眠りから覚めるどころか、彼が静養していた別荘が一夜のうちにつる薔薇に覆われて誰も入れなくなったという。
業者に頼んでつる薔薇を撤去してやっと入ったところ、高橋涼介は既におらず、付き添いの家政婦が亡骸になっていたという、その事実もまた走り屋の間では話題になっていた。
――京一。
――なんだ、涼介。
――離さないでくれよ、今度こそ。
――ああ。わかっている。
――やっと会えたんだ。だから……。
(終)
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