『あなたの前に愛した人は無く、また、あなたの後に愛した人はいません。
この気持ちを永遠のものにしたいと思い、手紙をしたためました。
オレはあまり頭が良くないし、第一、手紙なんて年賀状でさえも滅多に書かないので、
日本語がおかしかったらごめんなさい。』
癖のある、小さな字が便箋にぎっしりと並んでいた。
確かにあまり手紙を書き慣れていないな、とひと目で見て取れた。
藤原拓海から涼介に分厚い封筒が届いたのは、そろそろ桜も咲こうかという、暖かな日が続く三月の仕舞いの事だった。医師として忙しく働く涼介と、プロレーサーとしてそれなりの地位を築き始めた拓海と。
拓海と涼介が知り合ってからもうたっぷり十年は経っていたが、ここ数年は会う機会も殆ど無くなっていた。拓海がプロの道に進んだ最初の頃は、この道に引き込んだ責任と心配も手伝ってかよくレースに顔を出していた涼介だったが、仕事の忙しさを言い訳に、何より拓海がプロとしてきちんと仕事をこなし、結果も残していたから安心して足もすっかり遠のいていた。拓海と同じ道に進んだ弟の啓介経由で、嫌でも戦績や動向は耳に入ってきたことも理由のひとつだろう。
啓介と鎬を削る拓海の戦績は、期待しただけのことはあった。将来も嘱望されていた。
『アニキ、藤原と連絡が取れないんだ』
啓介から焦った様な声で電話があったのは、手紙が届く少し前のことだ。
「連絡が取れないって?」
『だーかーらぁ、行方不明だっつーの!』
珍しく苛立った啓介の声が受話器の向こうから喧しかった。その後ろでは何人もの人間の声がした。皆、焦って、苛立っているように聞こえた。
何日か前から拓海と連絡が取れなくなり、親しい人間が拓海の住まいであるマンションを訪れたら、もぬけの殻だった――というのだ。浴室にわずかな血痕があったことからすわ事件かとすぐに捜索願が出されたが、足取りは掴めなかったし、血痕は古いものだった。
拓海の所属するチームは上へ下への大騒ぎになっている様で、涼介も仕事の合間を縫って、心当たりをあたって見た。それでも、拓海がみつかるどころか、なんの手がかりも得られなかった。
男性向けの週刊誌に人気レーサー行方不明と小さな記事が出た頃、だ。件の手紙が届いたのは。
仕事の後、史浩と落ち合って、拓海の捜索をし、結果を得られず家に戻る……此処一週間ほど、涼介の生活サイクルはそうなっていた。それほど人付き合いも多くは無かった拓海だから、探す宛てはあまりなく、同じ所を何人もの人間が訪れては同じ事を聞いているようだった。
その日もやはり同じで、行きつけだったという場末の寂れた店をあたったものの、年をとったママは首を横に振り、「あなたたちで5人目よ、尋ねてきたのは」としゃがれた声で言った。
ほとほと疲れて自宅に戻ると、郵便ポストに分厚い封筒がささっていた。見覚えのある字だ。
はっとして差出人を見ると、藤原拓海の文字があった。
消印は無い。
慌てて開封すると、確かに拓海の字で書かれた手紙が入っていた。
『あなたの前に愛した人は無く、また、あなたの後に愛した人はいません。
この気持ちを永遠のものにしたいと思い、手紙をしたためました。
オレはあまり頭が良くないし、第一、手紙なんて年賀状でさえも滅多に書かないので、
日本語がおかしかったらごめんなさい。』
宛先を間違えたのかと思うような書き出しだった。家の玄関先で、涼介は、その便箋をむさぼるように読んだ。
(藤原……)
『もう十二年も前になるんですね、あなたと出会ってから。それまでは平凡で、たいしたことの無かったオレの人生は、あなたとの出会いで、ガラッと変わってしまいました。あのまま峠で走ることを知らなかったら、オレはきっと普通に就職をして、平凡な人生をすごしていたと思います。
車のことも嫌々乗っていたから、何も知らなかったし。でも、あなたと出会って、車で走ることも、バトルをすることも、車も、全部、好きになりました。
プロジェクトDのあの一年間は、今のオレに繋がるとても重要な一年間だったと思います。あんな経験は、もう二度と出来ません。あんな凄いことを計画して本当に実行してしまったあなたは、やっぱりとんでもない人だと思うんです。
とても贅沢で、貴重で、密度の濃い一年間でした。あの経験があったからこそプロにもなれたし、今こうやって成績を残していけているんだと思います。
プロジェクトDの時、あなたはそれまでとは違って徹底的に裏方に回って、啓介さんとオレを成長させてくれました。本当ならあなたこそが、あの数々のバトルに参加するのにふさわしい人だったのにと、今でも思います。そしたら、オレが苦戦したバトルの数々も、全部、圧勝だったと思います。
初めて会った時からあなたのことはとてもかっこいい大人だと思っていました。
オレがあなたと初めて会った時、あなたは二十三歳で、オレはまだ十八歳になったばっかりでした。最初から凄いとは思っていました。でも、あなたの凄さを改めて思い知ったのは、自分が二十三歳になった時でした。どう足掻いたって、逆立ちしたって、あの頃のあなたのような考えも行動も振る舞いもできっこないと分かった時でした。あなたが言っていたことの一つ一つを覚えています。どれも、意味のある、深い言葉でした。
あなたのことを尊敬していました。その気持ちは今でも変わりません。いつだったか、あなたはオレのことを、自分よりも優れている、レーサーに向いているといってくれましたよね。とてもうれしかったしびっくりしました。でも、あれはきっと、あなたの思い違いだと思います。オレはちっとも凄くなんかないんです。ただの、気の小さい男です。あなたには遠く及ばないんです。
あなたへの気持ちが尊敬からだんだんと変わっていったのは、プロジェクトDが終わって、あなたの取り成しでプロになってからでした。前からそうかなと少しは思っていたんです。でも、それを自分の中で否定する気持ちもありました。そういうのっていけないんじゃないかとか、迷惑なんじゃないかとか。
でもプロになって、経験をつんで、いろんな人と知り合って、話をして、外国にも行くようになって、いろんな価値観があることを知って、その中で、確信しました。
オレはあなたのことを、愛しているんだと。外国の人は日本よりもそういうのがオープンなところが割りとあって、堂々と同性同士でいるカップルを見て、あなたとそうなりたいと思っている自分に気づきました。
ごめんなさい。迷惑でしょう、こんな話。
でも、言いたいんです。あなたに自分の気持ちを、伝えたいんです。だから最後まで、読んでください。
あなたへの気持ちを自覚してから、この気持ちを伝えずにずっとあたためて、おじいさんになって死んでしまおうと思いました。でも、そこまで持ちませんでした。あなたへの思いを永遠のものにしたいと、思うようになったんです。
今頃、みんながオレを探していると思います。あなたも探してくれているでしょうか。だったら、ごめんなさい。謝ります。迷惑をかけてごめんなさい。
あなたの前に愛した人は無く、また、あなたの後に愛した人はいません。
張り裂けそうなくらいの気持ちを抱いた人は、あなたしかいません。
この気持ちに押しつぶされそうで、最近はちっとも仕事に手が付きませんでした。命を懸けているレースなのに、あなたのことばかり考えてしまって、思うような結果が出せていませんでした。
このままだと、あなたに何かをしてしまいそうで、あなたに大きな迷惑をかけてしまいそうなんです。
だから、オレはその気持ちと一緒に、あなたの前から消えることにしました。
あなたに会えたことは、オレにとって本当に幸せなことでした。峠で注目されたことよりも、レーサーになれたことよりも、華々しい戦績を残せたことよりも、レーサーとしてたくさんお金を貰ったことよりも、あなたに会えたこと、あなたに目をかけてもらったこと、あなたに名前を呼んでもらったこと、あなたに褒めてもらったこと、あなたの計画したプロジェクトDに参加できたことが何よりもオレの幸せでした。
あなたのような人に会えて嬉しかった。
今でも覚えているのは、プロジェクトDの最後のバトル、箱根でみんなで迎えた朝、松本さんとロッジのテラスで話していたあなたがとても綺麗に笑っていた、その横顔に見とれたことです。あの時、確かにオレは、あなたのことを好きだと自覚しました。あの笑顔は、十年以上経った今でも鮮明に思い出せます。
素敵なあなたと会えた幸せ。
だから、幸せなまま、オレは消えます。
大好きです、涼介さん。本当に、愛しています。
藤原拓海』
「……」
長い長い手紙を読み終えた後、涼介は膝から崩れ落ちた。
「藤原……、」
知らなかった。拓海が、自分にそんな気持ちを抱いていたことを。
失踪の理由が、自分だなんて。
便箋何枚にも渡る長い手紙は、ところどころ修正をしてあり、拓海が悩みながら書いたことが伺えた。
心臓が早鐘を打つのが分かる。
(いけない、藤原……)
便箋を握り締めたまま走り出そうとして、しかし、どこに行けばいいのか涼介はまた立ちつくした。
「くそっ……、」
振り上げた拳が、むなしく空を切る。
涼介には分かった。
拓海が消えるという言葉の意味が。
もう彼が、二度と自分の前にも、他の人間の前にも現れないであろうということ。
ポケットからスマートフォンを取り出すと、涼介は史浩に掛けた。
「もしもし、史浩か。ああ、オレだ……警察に連絡してくれないか、それと藤原の……ああ、藤原から封筒が来たんだ……ポストに直接入っていたから、今日はこの辺りに居たってことだ……中身? いや、それが……」
涼介は握り締めた便箋を見つめながら、言った。
「封筒だけで中は空っぽだったよ…」
拓海が自分を思う気持ちを自分にだけ明かして消えるのであれば、自分にできることは何だろう。
拓海のその気持ちを誰にも明かさずにいてやろう。
涼介はそう思った。
「あいつ、ばかだよな……」
笑いながら言い、握り締めた便箋を涼介はコートのポケットに入れた。
愛していたのなら、言ってくれればよかったのだと思うのは、残された人間の勝手な言い分だ。消えた側の気持ちの重さなど、分かる訳はない。
少しして駆けつけた警察に、涼介は封筒だけを渡した。筆跡鑑定に出すと警察官は言っていた。
涼介が『消えた』のは、その次の、次の日の朝のことだった。
自室の机の上に、家族に宛てた書置きがあった。
藤原と一緒にいる、と。
自分もまた消えれば、きっと拓海と会える。
涼介はそう思ったのだ。
(終)
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