数年前に惜しまれつつ閉館した、秋名の老舗旅館が復活する。
決して小さくは無い見出しを拓海が地元紙の経済欄で見つけたのは、夕食の後のことだ。
夕食は文太と、仕事を終えて帰宅した拓海、そして大学を終えて「バイト」に来た涼介の三人でとった。食事を終えて直ぐに文太がタバコ、と財布を片手に外に出、涼介と拓海という割と珍しい二人が、居間のちゃぶ台で差し向かい、薄い茶を飲んでいた。
大して交わす会話もなく、拓海が何となく手にした新聞を広げたら、その見出しが目に飛び込んで来たのだ。
「へぇ、あそこ復活するんだ……」
「ああ、結城屋か。東京の大手のホテルが買い取ったらしいな」
あそこ、と拓海が言っただけで目の前にいる涼介には何処のことだか分かっているらしい。しかも情報も既に知っていたようだ。
(流石だな、涼介さん……忙しいのにちゃんと新聞とか読んでるんだなぁ)
この人にはかなわないよな、と拓海は苦笑し、新聞記事に目を落とした。
その老舗旅館は、この秋名のあたりでは一番の格式と歴史を誇っていた。
閉館した時には当時の新聞に大きく出ていた。
近所の年寄連中が「結城屋が閉まったなんて、一つの時代が終わった」と肩を落としていたことも拓海は記憶している。
記事では涼介の言うとおり、東京の大手ホテルが旅館をそのまま買い取って、以前の高級路線ではなく、若い女性をターゲットに据え、リーズナブルな価格帯にするようだ。
「へぇ。地元雇用は数十名程度、食材は地元産を使い、か……ま、どうせ豆腐は白金屋が卸すでしょうけどねー」
「白金屋って、もう決まってるのか?」
涼介が茶を拓海の湯飲みに注ぎながら訊いた。
「いや、決まってないと思いますけど、たぶんそうなりますよ。あそこ商売上手ですから。新顔だけど」
「新顔? 老舗じゃないのか」
「違いますよ。あそこ、つい二年位前に出来たんですよ」
「そんなに新しいのか?」
拓海の言葉に、涼介は驚いた。てっきり白金屋は老舗中の老舗だと思っていたのだ。
二人が話している白金屋とは、ここから程近い国道沿いにある、こだわりを謳う豆腐屋だ。
この藤原豆腐店とはライバル関係にある、と言いたい所だが、あちらの方がはるかに有名で大きな店だった。
時代劇から飛び出してきたような古い木造の店舗に、藍に白で染め抜いた大きな暖簾は通りを行く人の目を引く。
どこからどう見ても老舗中の老舗。
しかも宣伝上手なのか、度々テレビや雑誌にも取り上げられる。この間は群馬出身のアイドルが来て、全国放送の番組で紹介された。涼介も何度か行ったことはあった。
一方の文太の店はというと……決して宣伝上手とは言い難い。
繁盛しているようには見えない小さな豆腐屋だ。
拓海は続けた。
「白金屋のあの店、元々江戸時代から染物屋だったんですよ。戦争でも焼けなくてずっと残ってたんです。で、その染物屋が五年位前に辞めて、店を解体しそうだったのを、京都かどっかで豆腐の修行したって人が居抜きで買い取ってやってるんです」
「……そうなのか」
「タウン誌とかテレビとか、ネットとかで宣伝しまくって……そしたらあっという間に二号店三号店ですよ。今じゃデパートにも支店があるし。新しいけど、ずっと昔からある雰囲気でしょ」
「確かに……」
「染物屋だったから井戸水も湧いてますしね。なんか東京のデザイナーさんとかに頼んで、店の中とかあんな感じにしたみたいで……商売上手い人は違いますよね」
ウチのオヤジと違って、と、強めに付け加え、拓海は新聞を畳んでちゃぶ台の下に置いた。
「オヤジも宣伝くらいすりゃいいのに、ね」
「……まあ、確かに」
それもそうだな、と涼介は思った。
宣伝の類を文太はあまり好まないのだ。
拓海の言うことにも一理はある。拓海はテレビをつけて少しチャンネルを弄ると、「面白いのやってねえな」と呟くと立ち上がった。
「オレもコンビニ行ってきます。甘いもん買ってきますけど、涼介さん、何かいります?」
「いや、別に……」
「じゃ、あったらメール下さい」
「ああ」
財布を手にスニーカーを突っ掛け、拓海は出て行った。
居間には涼介独りになった。
「甘いものなら、豆腐のドーナツがあるのにな……」
独りごちて、涼介はたたきに並べたスリッパをつっかけ、店の冷蔵庫から売れ残りの豆腐ドーナツをつまんだ。
文太特製の豆腐ドーナツは素朴でおいしい。当たり前だが添加物も入っていない。国産大豆、手作り、手揚げ。
(言われてみれば、お父さんは宣伝は下手かもな)
ドーナツをほお張って、涼介は拓海の言葉を頭の中で反芻した。
豆腐の味は文太のことを好きだというフィルターを抜きにしても美味しいのに、文太には商売っ気がないというか、食うに困らなければいいというスタンスなのか、あまり宣伝には熱心ではないようだ。
実際、文太の豆乳やおからを使ったスイーツを秀司の店が売り出していて、好評を博している。ホテルに毎朝卸している豆腐も美味しいと言われている。
そう、美味しいことは確かなのだ。
(もうちょっと宣伝してもいいはずだけど……でも大繁盛してもなあ)
店が繁盛しすぎて、それこそ人に豆腐作りを任せるようになっても困るし、忙しすぎて文太が構ってくれないのはもっと困る。
冷蔵庫に凭れ掛かり、ドーナツをもう一つ、口に放り込む。
(でももう少し売上があったら……)
通用口をちらりと見やると、すりガラスの向こうに青い車体が見える。
もっと売上がインプレッサももっと弄れるし……ラブホテルにだってもっと連れて行ってくれるはずだ。
「……」
涼介の頭の中では着々と「計画」が練られていた。
そんなことは露ほども知らぬ文太は、コンビニでタバコとビールを買って帰り、涼介に「ビールはドラッグストアの方が安いと言ったでしょう? 無駄遣いですよ」とチクリと言われて小さくなった。
一週間ほどが経った、午後のこと。
文太の店へ、スーツを着た、いかにもビジネスマンと言う風体の男性が二人、現れた。
二人は東京の某ホテルの社員を名乗り、恭しく名刺を差し出してきた。
全く不意打の訪問に文太には何が何だかわからなかったのだが、二人は「こちらの営業部長という方に、お宅様のお豆腐を頂きまして、今度リニューアルオープンする結城屋へ卸させて欲しいから味見をしてほしいと言われまして……」
と言うのだ。
突然の訪問者達の正体は、今度リニューアルオープンする老舗旅館・結城屋を買い取った東京のホテルの社員らしい。
営業部長と言われても、文太には身に覚えなどない。
頭にクエスチョンマークを浮かべる文太をよそに、二人は「こちらのお豆腐がとても美味しかったので是非取引をさせて欲しい」と、それはもうノリノリなのだ。
「……営業部長……ですか」
文太の手には、二人が貰ったという、「藤原豆腐店 営業部長」の名刺。
しっかりとしたデザインの名刺には、高橋涼介の名前が書かれている。
話を総合するに、涼介が文太の豆腐やおから、厚揚げなど主力商品を持参してホテルに売り込みを掛けたらしい。
しかも、単に名刺を作って豆腐を持って売り込みを掛けたのではなく、毎日の生産量や主な取引先、販売計画など事細かにプレゼン資料を作成して豆腐と共に持参したらしい。
参考商品として秀司の店で作っている文太の豆乳を使ったスイーツも持参したようだ。
涼介は大学とプロジェクトDで忙しい身の上なのに、全く何をやっているのか、文太は驚くよりもまず呆れた。
売り込みの結果、味は良いし毎日決まった数を納品できるし、何より価格が良心的とあって、話はとんとん拍子に進み、なんと契約書を手に二人は文太の所へやって来たのだ。
「実は最初はこの近くの白金屋さんの豆腐をと思っていたんですがねぇ、こちらの方が色々と良かったんですよ。あちらは売れている店と言うことで少々高圧的な部分がありまして……」
「豆腐以外にも豆乳や豆腐ドーナツなども試食させていただきまして、女性向け、ヘルシー、リーズナブル、という当旅館というコンセプトにぴったりかと」
呆れる文太をよそに二人は営業トークが止まらない。
(ったく、何やってんだアイツは……)
結局、文太は大量の契約書に捺印とサインをする羽目になった。
旅館のオープンは数か月後。毎朝、レイクサイドホテルに寄った帰りに旅館に豆腐や豆乳を配達することとなった。
幸い、レイクサイドホテルより規模も小さい上に女性向けということもあり、量としては大したものではない。
それでも、復活した結城屋に豆腐を卸すという事実は、どれほどの宣伝効果があるだろう。
「ただいま戻りました、お父さん」
「おい、営業部長」
その日の夕方、大学を終えて文太の店に来た涼介に、文太は営業部長、と言った。
心当たりのある涼介は「はい」といつもの如く満面の笑みで返事をした。
「勝手なことすンじゃねえ」
苦虫を噛み潰したような顔で、手にしていた新聞を軽く丸めて涼介の肩をぽんと叩くと、レジカウンターの上のクリアファイルをその新聞で示した。
「見てみろ、お前のせいで今日の昼寝が出来なかっただろうがっ」
「あ、」
涼介はレジカウンターに駆け寄り、クリアファイルを手に取り中を改めた。
文太に内緒で営業に行った、東京のホテル…結城屋を買い取る件のホテルの印鑑と、文太の署名と印鑑が並んでいる。
「来たんですね、あのホテル」
「来たんですねじゃねえぞ。びっくりするだろうが!」
昼過ぎに突然来たホ テルの社員につかまった文太は、やれ契約書に判を押してくれだの、豆腐作りについてのこだわりを教えて欲しいだのと長い時間拘束され、日課にしている昼寝も、店を閉めてタバコを買いにいく暇もないままに夕方の売り出しと配達の時間を迎えるハメになったのだ。
来月には東京くんだりまで呼ばれ、ホテルでの新生結城屋で出す料理の試食会に参加することまで決まってしまった。
「だって、お父さんのお豆腐は美味しいですから。もっと宣伝して知ってもらってもいいと思ったんです」
契約書の類を改めると、涼介は満面の笑みを浮かべてそう言った。偽ることのない涼介の本音だ。
「……宣伝、なぁ」
面倒くさそうに頭を掻き、文太は「そういうの別にどうだっていいんだよ、オレぁ」と呟いた。
「折角美味しいお豆腐を作っているのに、宣伝しないなんて、勿体無いですよ」
涼介の言い分 には訳があった。
秀司の店で作っている文太の豆乳やおからを使ったスイーツや、レイクサイドホテルで供されている湯豆腐などを食べて美味しかったからとわざわざこの店を訪ねてくる人が、少なからずいるのだ。
それだけ美味しいという証拠だ。
「けどなあ」文太は言い訳がましく反論した。
豆腐屋としての矜持はあるけれど、無理に店を大きくしたりしなくてもいいというのが文太の意見だ。人から縁あって引き継いだこの店を、細くても長く続けたい、無理やり大きくして味を落としたり、ましてや店を潰すようなことになっては困る。
だから無理をしない、それが文太のスタンスだった。
「結城屋は部屋数も少ないですし、レイクサイドホテルでもそうですけれど宿泊が完全予約制ですから納める数も知れてますよ。店売りを少し回せばいいんじゃないですか。売れ残りも減りますし」
「そりゃそうだけどよ」
例のホテルからは、豆腐以外にも豆乳やドーナツなど複数の商品を卸して欲しいと言われている。涼介の言うとおり、数自体は大したことは無い。しかし、ホテル側としては食材提供元を明らかにして大々的に藤原豆腐店という名前をメニュー表などに出すようで、宣伝効果は計り知れない。
「……ま、誰が買いに来たってオレは何時も同じ豆腐を作るだけだけどな」
たとえアメリカの大統領や総理大臣が来たって特別な豆腐は作らない、先代からのスタンスだ。
「それでいいと思いますよ、お父さん」
涼介が目を細めた。
「ま、とりあえず売上貢献ってことで、ほい」
文太はジーンズの尻ポケットから二つに畳んだ茶封筒を出すと涼介 に渡した。
「あ、ありがとうございます……」
「お前の歩合だ。飯にするぞ」
「はい」
先に居間に上がり、ちゃぶ台の前に座る文太を見送り、涼介はそっと封筒の中を改めた。
「……あ、」
歩合と言うから、てっきりお金が入っているかと思ったのだ。
しかし中には千円札でも万円札でもないものが入っていた。
――コンドームの包みが、ひとつ。
涼介の顔が見る見る赤くなっていく。
慌てて文太の方を見たが、ちゃぶ台の前で胡坐を掻いて新聞を読んでいる。
これは、きっと……そういうことなのだろう。
涼介は封筒を元の通り畳んで自分のジーンズのポケットに仕舞い、「ご飯、支度しますね」と居間に上がり、台所に入った。
歩合を貰ったのは、夕食の後、二階の文太の部屋で。
文太はいつもよりもやけに優しく抱い てくれ、甘い言葉をくれた。
あちこちにキスを落としてくれ――愛撫をたっぷりとくれたのだ。
それが、営業部長への「歩合」だった。
(終)
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