内緒の二人


「ミドリ先輩が結婚?」

仕事帰り、ハチロクの給油にスタンドに寄った拓海に、思いがけないニュースがもたらされた。
高校時代このスタンドでバイトしていた頃、とてもよくしてくれていた先輩が結婚するというニュースだった。
「ああ、ミドリ先輩、東京の人と結婚するんだってさ」
「へぇー」
「春に会った時に言ってた彼氏みたいだぜ」
ハチロクに給油しながらイツキは少し興奮気味に喋っていた。
ミドリ先輩とは、イツキと拓海がこのスタンドにバイトとして入った頃、二人に色々と教えてくれた女性だ。
当時は女子大生で、姉御肌で人気者だった。池谷や健二達が少し憧れていた時期もあり、この店の看板娘だった。
大学を卒業と同時にこの店を辞め、就職のため上京し、時々帰省してはこのスタンドに遊びに来ていた。
春に帰省した折り、拓海とイツキの就職祝いだと食事をご馳走してくれたことは二人の記憶に新しい。
「籍は来月入れるらしいんだ。今日は新居に引っ越すってんで、店長と池谷先輩と健二先輩が手伝いに行ったんだ」
「へぇ。……ってか来月って、急じゃない? 結婚てそんなに慌てるもんか?」
「だってミドリ先輩妊娠してるから」
「……妊娠?」
給油が終わり、オイルキャップを閉める。
イツキが口にした単語に、拓海が目をパチクリと見開いた。
「ああ。ミドリ先輩、妊娠したんだって。今流行のできちゃった結婚だよ」
「できちゃった……」
ああ、なるほど……と、拓海は納得した。
「でさ、拓海ぃ。お祝いのことなんだけどさ……」
会員カードをイツキに渡しながら、拓海の心臓は少しだけドキドキしていた。
(……オレも気を付けよっと……)



給油後、拓海は夕食の材料を買いに市内のショッピングンセンターに寄った。
が、食料品売場より先に足を向けたのは、三階の衣料品売り場のベビーコーナー。
(ミドリ先輩がママかぁ……)
上昇するエレベーターの中、一人何の理由かはわからないため息をついた。
彼女のいきなりの結婚にもびっくりしたが、ママになるというのにはもっと驚いた。
春の帰省の時、彼氏がいるとは聞かされていたが、「お互い仕事もあるから結婚は早くて二年後くらいかな」なんて言っていたのに。
(赤ちゃん出来たんだ……)
ぺたんこの自分のお腹をさすってみて、拓海はうーん、と首を捻った。
勿論その中には今は何もいないけれど、いずれは自分もミドリ先輩の様にここに命を宿し、ママになる日が来る……筈だ。
このままのお付き合いが進めば。
「プレゼント……何がいいかな」
ミドリ先輩は式は挙げず、身内だけの食事会で済ませるという。
それはいいとして、問題はお祝いだ。
祐一は無論、池谷や健二は個人で祝儀を包み、今日引越しの手伝いでミドリ先輩のところを訪ねるから持参しているという。
ミドリ先輩の結婚の知らせを聞いたイツキがオレも祝儀を! と中身の乏しい財布に手を伸ばしかけたが、
『新入社員で収入も少ないイツキが祝儀を包めば、先方に帰って気を使わせちまう。
そうだ、拓海と二人でお金を出し合って何かプレゼントを買って、日を選んで贈れば……』と祐一からイツキに提案があったのだ。
『ってわけで、拓海ぃ。オレと折半でプレゼント贈ろうぜ♪』イツキの申し出を、拓海は了承した。ミドリ先輩に祝いを贈りたいのは、拓海も同じだ。勿論、拓海もまだ新入社員で収入は少ない。幾らプロDの遠征にお金が掛からないといったって、出て行くお金はある。
『プレゼントはお前に任せたぞ、拓海ぃ』
イツキに肩をポンと叩かれ、『いいよ。色々見てみるから』とOKしたものの、拓海はこれが大波乱を巻き起こすきっかけになるとは思っても見なかった。


2


「なんだこれ……どれ買えばいいんだよ……」
拓海はベビー用品コーナーで、膨大な赤ちゃんグッズを前に早速途方に暮れた。
「色々ありすぎだろ……」
ミドリ先輩がママになるなら赤ちゃんグッズにすればいいだろうと思って来てみたものの、一言に赤ちゃんグッズといっても多種多様。
赤ちゃんのトレードマーク・おしゃぶり一つとっても種類は沢山あり、服は月齢によってサイズや形も豊富、バギーのような大物は予算オーバーになる。
「うーん……」
一人っ子の上に親戚づきあいもそんなにないから、こういう贈り物をしたこともない。
ママになった同級生も、結婚をした同級生もまだいない。
拓海の知識は乏しかった。
自宅のある商店街のおばちゃん連中に聞けば一番いいだろうが、「こういうのがいいわよ」はいいとして、その後「ところで拓海ちゃんの結婚はどうなの」と余計な詮索をされるに決まっている。それはされたくない。じゃあ聞かない。
詮索をされたくない理由が、今の拓海にはあった。
それに、人にアドバイスを頼む前にまず自分で探してから……というのが拓海のポリシーだ。
(とりあえず片っ端から見てみるか)
ふぅ、と息を付き、端っこから見ていくことにした。
「うわ、こんな小さい靴下がこの世にあるんだ……」
かわいらしい駕篭にディスプレイされた、新生児用の小さな小さな靴下を手に、拓海の顔が思わずほころぶ。7センチの靴下なんて、予想GUYの小ささだ。
「ちっちぇー」
その傍には、ベビードレスを纏った小さなマネキンがヨーランに寝かされている。
『実際の新生児の平均体重と同じです。優しく抱っこしてみてください』と書いた紙がヨーランに貼られている。
「へぇ……」
そっと持ち上げてみると、三キロ弱の重み。
「……うわ……こういう感覚なんだ……軽いなぁ」
女とはいえ運送屋の拓海には軽いものだ。
(オレもいずれは抱っこするんだろうか……)
拓海はそのときをぼんやりと想像してみた。
頭には、赤ちゃんを抱っこする拓海に寄り添う、特定の一人の男性が浮かんでいた。


「……藤原?」
トイレから出たケンタの目に、拓海が飛び込んできた。ケンタは夕食の材料を買う母親のアッシーでこのショッピングセンターに来ていた。藤原とプロD以外で会うのは珍しく、声を掛けよう、と思った。
「おい、藤原なに……」
やってんだよ、と声をかける寸前、――ケンタは凍った。
「あ……あ……」
ケンタの目に飛び込んできた拓海の姿、それは。


「こっちの小さい手袋もかわいいなぁ」
ベビー用品コーナーで、赤ちゃんグッズを手に微笑む拓海の姿だった。

(……藤原が赤ちゃんグッズ? どうしてだ?)

厳しい空気のプロDではほとんど見せない、素の藤原拓海がそこにはいた。
「これもいいかな……」
小さなスタイを手に、うふふと微笑む、それは秋名のハチロクでもプロDのダウンヒル担当でもない、ただの19歳の女性だ。
その微笑にケンタの心臓はキュッと……締め付けられた。見たことも無い、拓海の微笑み。


ケンタは単純だった。
1か100しかない。67とか39とかを考えられない種類の男だった。
(藤原が赤ちゃんグッズ……もしかしてアイツ……妊娠したんじゃ……!)


「……藤原?」からこの間までコンマ6秒。
うわあああと叫びたいのを堪え、ケンタは回れ右をしてその場を小走りに去った。
「かかかかかかかかあさん、荷物持つよ! ホラ貸して!」
「あらケンタ珍しいのね……」
ケンタは母が待つフードコートにダッシュすると、テーブルの上の荷物を奪った。母はついさっきまで「うぜえ荷物持ち面倒くせえオレのシルビアはマチ走りのお買い物用じゃねえ」といっていた息子の変貌に、クエスチョンマークを張り付けながらも悪い気はしない。
「じゃあこれも持ってね?」
「あ、ああ、とっとと帰ろう! オヤジもじいちゃんも待ってるよ!」
「今夜はカレーとビーフシチューどっちがいいかしら?」 「カレー! こんな日はカレーだろ!」
ケンタと母親を乗せたシルビアはドリフトをかましながらショッピングセンターを去った。
そのドラテクはこれまでのケンタの運転でも最も素晴らしいもので、涼介が見ていたなら「是非プロDのドライバーに」と言っただろう。


一方、そんなことを知らない拓海はベビーコーナーをまだ見ていた。
「あ、こんなのがあるんだ……」
スタイとミトンと靴下、帽子とガーゼハンカチとおくるみのセット、色は男でも女でも大丈夫な黄色、という便利なギフト用に箱詰めされたものがあり、お値段も予算内だ。
「とりあえずこれはキープかな。明日またイツキに相談しよう」
拓海はようやくベビーコーナーを後にした。

3


「……あ、洗剤」
ベビーコーナーを離れ、ドラッグストアの前を通りかかったとき、洗剤のセールをしていて拓海は足を止めた。
「安いな、買っとこうっと」
洗剤を手に取り、拓海はふと店内を見た。
(……そういやできちゃった結婚だって言ってたな……)


『なんかおかしいって思って、検査薬で調べて二人で病院に行って、赤ちゃんできてたんだって。病院の帰りに、彼氏にプロポーズされたんだって』
イツキが、ミドリ先輩の経緯をそう話していた。
(検査薬……って、どんなんだろ……)
雑誌の広告で見たことはあった。が、手に取ったことはなかった。
しかし今の拓海には、ある理由で「一つくらい買っておいてもいいかな」というものだった。
洗剤を入れたかごを手に、拓海はドラッグストアの中へと足を踏み入れた。
「えっと……この辺?」
避妊具のコーナーは少々恥ずかしい。別に買ったからといって咎められる年齢ではないのだが。
その避妊具の隣に、あった。
「あ。これだ……」
妊娠検査薬のスティック。 尿をかけて陽性なら反応が出るという簡易検査の出来るものだ。
「ふぅん……案外安いな……」
拓海は裏面の使用方法を読んだ。いずれ、これを使う日が拓海にも来る筈なのだ……今のままなら。


「お、藤原じゃん」 今日はこの店に、もう一人のプロDメンバーがいた。
やはり母のアッシーとして来ていた啓介だ。啓介の母はドラッグストアの隣の洋菓子店で、法事の手土産の焼き菓子を選んでいた。
退屈だからと隣のドラッグストアでヘアワックスを選んでいた啓介の目に、拓海が飛び込んできたのだ。
珍しいところで会うな、と啓介は拓海の方へと歩いていった。
「なにやってんだよ、ふじわ……」
声を掛けようとして、啓介は固まった。


「……二本入りの方がいいかな……」
啓介が見たもの、それは。
「一回目失敗したら二本目要るよなぁ」
妊娠検査薬を手に、ブツブツ言いながら難しい顔で考え込んでいる拓海だった。



「藤原……」
そんな拓海に声をかけれるような心臓を生憎持ち合わせてはいない啓介だった。


(アイツが妊娠検査薬……? どうして……?)


ここにももう一人、単純な男がいた。
その単純さはケンタとどっこいどっこいだ。Hという文字を見ると助平なことしか考えられないくらい単純だ。


(まさかアイツ……妊娠したんじゃ……!)


うわああああああああという叫びだしたい気持ちをなんとか抑え、啓介はその場をマイケルも真っ青のムーンウォークで後退りした。
「啓介、お待たせ」
焼き菓子の箱を手に、母がムーンウォーク啓介の肩を叩いた。
「かかかかかかかかあさん早く帰ろ! な、早く帰ろ!」くるっと回った啓介が母の肩を掴んでゆさぶった。
「ええっ、母さんパン屋さんも寄りたいんだけど。明日の朝のパン……」
「そんなのいらねえよ! 腹減らしてたらアンパンマンが僕の顔をお食べって言ってくれるから! な、早く!」
訳の分からない言い訳と共に母の手を引っ張り、啓介は店を出た。
啓介と母を乗せたFDは真横に滑り、ウエストゲート音を響かせながらショッピングセンターを後にした。FDのあまりの速さにF1カーが国道を走ってる、と通行人に指をさされていたのを啓介は知らない。啓ちゃん今日は飛ばすわね、とそんな車の中で平然と口紅を塗り直していた母も母なのだが。


「……やっぱ、買っておこう」
そんなことを知らない拓海は、ちょっと恥ずかしかったが、意を決して検査薬をかごに入れた。


その隣には避妊具があったが、それはこの間買ったからまだ大丈夫のはずだ。



ケンタと啓介の勝手な勘違いを知らない拓海は、帰宅後文太の夕食をささっと作り、出掛ける準備をした。
「なんだ、出かけるのか」
「あ、うん。友達とゴハン……」
洗面台の前で髪型を整える娘に、一人ちゃぶ台で夕食をとりながら、文太はピンときた。
「遅くなるなよ」
「わかってる」
「明日は配達お前だぞ」
「知ってるって! 行ってきまーす」
バタバタと家を出る娘の後姿には、しっかりと「彼氏のところに行ってきます」と書いてあるのだ。
父親だけが見える文字で。
(ありゃ男だな……)
文太とて伊達に男を44年もやっているわけではない。嫁に逃げられて以来男で一つで育てた娘の嫁入りの日は遠くないらしい。
(アイツも女だったな)
文太は肩をすくめた。

4


「けけけけいすけすわぁぁぁんっっ!!」
「ケケケケケケケンタぁぁぁぁぁっ!!」
啓介とケンタは帰宅後、混乱かつ誤解した頭のまま連絡を取りあい、今みた光景を報告しあった。
独断と偏見と思いこみと単純さを込めて……。
類は友を呼ぶ。
単純は単純を呼ぶ。
ケンタの見た光景。
啓介の見た光景。
誤解というエッセンスを付け加え、「藤原は妊娠している」で二人の意見はぴったり一致した。



「どどどどどーします啓介さんっ……藤原が妊娠したらプロDってどーなるんですかっ!」
自室に持ち込んだカレーをかき込みながら携帯片手の行儀悪い格好で、ケンタは電話口の向こうの啓介に訴えた。
「プロD以前にだな、妊娠したってことはだ。あいつがトツギーノってことだぞ! 藤原拓海からナニ原拓海になるんだよっ!」
どうして原がつくんだという突っ込みはさておき。
啓介も日課(これをしないとFDのガス代が親から出ない)の風呂掃除をしながらの電話だった。右手に携帯左手にスポンジ、裸足で裾まくりという格好で。
「確かにそうっすね! 相手誰なんでしょうね!」
「ああ、それを突き止めるのが先決だ!」
二人は拓海に真偽を確かめることもせず、勝手に盛り上がっていた。迷惑な話である。



一方、そんなことを知らない拓海が運転するハチロクが向かったのは高崎にある、単身者向けのマンション。
拓海が最近恋人になったばかりの男の部屋。
ダイニングテーブルには拓海の手料理が所狭しと並んでいる。人参がハート型にくりぬかれているあたりが二人のラブップルぶりを現している。
「……結婚祝いか」
それに箸を伸ばしながらつぶやいたのは、拓海の恋人でこの部屋の主の松本だ。
「オレ、そういうのよく分からなくて。一応、ベビー用品コーナーでいろいろ見たりしたんです。
とりあえずセットになってるやつは目を付けたんですけど……」
「そうだなぁ」
松本の向かい側の拓海は、今日聞いたミドリ先輩の話とそのプレゼントの件を松本に話して、意見を聞いてみた。
「オレくらいの年になると、金で済ませてしまうからな。でも、藤原の選んだものはいい線いってると思うけどな」
「……ありがとうございます」
ぽ、と拓海の頬に朱が差し、恥ずかしそうにうつむく。
まだ恋人になって日は浅く、藤原、松本さんと呼びあう仲だ。
二人のお茶碗は色違いの夫婦茶碗、湯呑みも色違いのお揃い、お箸ももちろんそうだった。
どこぞのチャーミーグリーンのCMのようだ。


最近拓海は足繁く松本の家に通い、夕食を作って一緒に食べたり、部屋の掃除をしたり、あんなことやこんなことをしていた。


しかし、二人の関係はまだ「内緒」であった。


別にプロDで恋愛は禁止されているわけではなかった。
が、「目指せ完全勝利! 北関東制覇! 医師国家試験合格!」と私情も交えてビシィッとどこかを指さし眼に炎をメラメラと燃やす、見た目に反して体育会系な涼介がリーダーだ。
そんな涼介の元、勝利に執念を燃やすプロDで、拓海と松本は「付き合っています」とはとてもではないが言い出せなかったのだ。
夕食を終えた二人は、小さな二人掛けのソファに並んで座った。
「藤原、」
優しい松本の声が、拓海の聴覚をくすぐる。後のことを予感した拓海の心臓がどきんと大きく跳ねた。
「……あの、松本さん」
「ん?」
拓海は、意を決して松本を見上げた。 「オレ、……ちょっと買ったものがあって……」
拓海は足下のバッグからごそごそと、今日ドラッグストアで買ってきたものを取り出して松本に見せた。
「……これ、なんですけど……」
妊娠検査薬二本入りだった。
「その、ミドリ先輩……できちゃった結婚だったから……えっと、……気をつけようかなって思って……」
手にした細長い箱をいじいじしながら、拓海はうつむいた。
「松本さんはちゃんと避妊してくれてますけど、……その、あの……」
「わかってるよ、藤原」
松本はふ、と笑って、検査薬の上に置かれた拓海の手に自分の手を添えた。
「ゴムも100パーセントじゃないしな。念のため買っておくのはいいことだと思う。もしそうなったら、辛い思いをするのは藤原だしな……」
「松本さん、」
優しい言葉に、こんなものいらないだろうと言われたら、と思っていた拓海はほっとして笑み、顔を上げた。
「オレにも藤原にも夢があるからな……その夢が叶うまでは、いろいろお預けだ。その前に、プロDが終わってないしな」
そう、まだまだプロDは真っ最中。
そして二人には夢があった。
拓海の夢はいうまでもなくプロのドライバー。
父の経営するショップで働く松本の夢は、独立し、前橋あたりに自分のショップを持つこと。
結婚も、もちろん子供もそれが叶ってから……というのが二人が付き合い始める際に交わした約束だった。
「藤原」
大きな松本の手が、拓海の体を包みこんだ。松本のシャツの胸のあたりに、拓海は頬を押し当てる形になった。
「松本さん、」
温かな松本の体温がシャツごしに伝わってくる。
(オレ……今幸せかも……)
藤原拓海19歳。初めての恋、そして初めての恋人に毎日はバラ色だった。
松本修一26歳。恋も恋人も初めてではなかったが、拓海は言うまでもなく彼にとって今までで最高の彼女だ。
松本が体重をかける。拓海はゆっくりとソファに押し倒された。
「ぁ……っ、」
あえかに掠れた声を上げた拓海は松本によって衣服を脱がされていた。
「洗い物……まだ……です」
「そんなの後でいい」
慣れた松本の手がぷつん、とブラのフロントホックを外し、ぷるん、と白くたわわな果実が二つ、解放された。
「やっ……」
むにゅ、と大きな手が両の果実を掴み、その間に松本が顔を埋めた。
「松本さ……」
頬を赤らめ、眼を閉じて覚えたての快楽に流される拓海は、啓介とケンタが今頃電話でぎゃーぎゃー騒いでいるのも知らなかった。

5


類は友を、誤解は曲解を呼ぶ。


風呂掃除の後、啓介は帰宅した涼介に「藤原がナニ原でトツギーノ!」と訴えた。(要約:藤原が妊娠したらしい、結婚するんじゃないか?)
「でさ、ケンタも見たっていうんだよ、藤原がっ、幸せそうでさっ、な、アニキっ!」
興奮しているせいか、小学生の日記にありがちな書き出しの「今日、ボクは、ボクは、今日、」レベルの意味不明な訴えだったが、涼介は 自室でパソコンに向かいながら背中でそれを聞いていた。
「なぁ、アニキぃ。藤原がトツギーノだぜっ!」
「――バカなことを言うな、啓介」
ビシネスチェアをくるっと回して啓介の方を向き、涼介は一喝した。嫌味なくらい長い足を優雅に組み、顎に手を当てて。
「藤原が妊娠しているだとか……お前とケンタの見た、たったそれだけの情報では判断できないな」
啓介の意味不明な訴えを頭の中で整理し、涼介はしっかりと理解していた。
「ベビー用品を選んでいたのは誰かにあげるお祝いかもしれないだろう。妊娠検査薬は、だ……頼まれて買っていたのかもしれないだろう?」
ベビー用品の推理についてはその通りだったが、検査薬の推理は外れだった。
が、あの意味不明な訴えを理解し、疑問を呈する辺りはさすがプロDの頭脳、というべきか。
あー、そうか……と、啓介は涼介の意見に納得したようだった。
「でもさぁ、アニキっ。もしほんとに妊娠してたら?」
ぼすん、と涼介のベッドに腰掛け、啓介は口を尖らせた。
あくまでも自分が見たものがすべてというのが啓介だ。
「こういうのはデリケイトな問題だ。それはその時考える」
長い手でデスクの白いカップを取り、小指をたてて紅茶を飲み、涼介は少し考えた。
「……何にせよ、藤原の様子をもう少し見るとしようじゃないか。プロDのこともあるから、藤原のプライベートと切って捨てるわけには行かないからな。もっとも、藤原に彼氏はいなさそうに思えるんだがな……」
「藤原に、彼氏……」
「そうだ。藤原に彼氏だ」
「……」
「……」


「ないな」
きっぱりと、涼介が断言した。失礼な話である。
「だよなぁ、ぜってーいねぇよな!」
同調した啓介も失礼である。


そんなこととは露ほども知らない拓海は、翌日の仕事帰りにまたスタンドに寄った。
ミドリ先輩のところに行っていた祐一たちからは、「幸せそうだったぞ」だとか「いい場所に家を借りたんだよ」だとか、「すっかりママの顔になっちゃってさ」だとか。予想通りご馳走様! な土産話を沢山聞かされた。
夫になるという人も良さそうな人で、祐一が「あの人ならミドリちゃんを任せられるよ」と太鼓判を押していて、拓海はほっとした。同行していた祐一の妻に、ミドリ先輩はママになる心得を色々聞いていたらしいし、重い箪笥を持った池谷が腰を軽く痛めたというオマケ話もついていた。



祐一達の話が一通り終り、拓海は昨日ショッピングセンターで目を付けたギフトセットのことをイツキに相談した。
「へぇ、いいな、それ」
「だろ? 予算内だし、柄も結構かわいいしいいと思うんだ。衣類はいくらあっても足りないって言うし」
「うんうん、さすが拓海だな」
イツキは拓海が目を付けたギフトセットとやらに乗り気だった。
「どうせあげるんなら色々あげたいもんな。拓海、いいトコ目ぇつけたな! あ、そうだ。オレも昨日、ウチに帰って親父やお袋に相談してみたんだ」
イツキがぽん、と手を叩いた。一度は拓海に丸投げしたが、拓海も忙しいのに全部任せて悪かったかな、と彼なりに反省したのだ。
「そしたらさ、駅前にベビー用品の専門店が出来てるんだって。なんか、結構安いらしいんだぁ」
「へぇー」
名前に西のつく、ピンクと白のウサギのマークの店だ。
小さな子供のいる家庭にはおなじみの店だが、19歳社会人一年生の彼らには馴染みのない店だ。
「じゃ、そこも行ってみようか」
「オレもう上がりだから。拓海、この後一緒に行くか?」
「うん」
拓海がうなずくと、イツキは「じゃあ着替えてくる」と事務所へと走っていった。


拓海とイツキは幼なじみで、男と女ということを意識したこともなければ、二人で出かけることをどうこう思うような関係ではない。
それが、今回はいけなかった。
拓海のハチロクをスタンドに置き、イツキのハチゴーで二人はウサギマークの西なんとか屋に出かけた。


「どーして信じてくんないんですか史浩さんっ!」
バンッ、とテーブルを叩いてケンタは目の前の史浩に叫んだ。
「だってなあ、ケンタ」
ファーストフード店でケンタの訴えを困った顔で聞いているのは史浩だ。
「お前の意見もわからなくはないがな」
窓際の席で、史浩はケンタを諭すと紙カップのコーヒーをすすった。
苦笑いを浮かべる史浩もまた、涼介と同じく、拓海の妊娠には懐疑的だった。
「それだけで藤原が妊娠しているとは言いがたいんじゃないかな。もっとそう判断できる情報がたくさんあれば、話は別だがな」
ポテトを摘み、口に運びながら史浩は「常識的な」判断をした。流石はプロDの良心である。
ケンタからは、ケンタと啓介が見た昨日の拓海の様子が史浩に伝えられた。
「でもでもでも。オレの見た藤原はあれはお母さんの顔ッスよ。それに赤ちゃんグッズはともかく、検査薬は……」
「うーん……そうだな。検査薬は、もしかして藤原に決まった相手がいて、そういう……肉体関係があるから念のため、とかじゃないのかな」
腕組みをして天井を見上げた史浩の推理は当たっていた。
「藤原に……カレシってことっすか?」
「そう。彼氏、だ。藤原は男っぽいけど見た目は悪くないし、スタイルだっていいし……」
「藤原に……カレシ……」
「そう……」
しばしの沈黙の後。


「ないないない! ぜってーない!」
ケンタが顔の前で手を激しく横に振って全力で否定した。
「だよなぁ! あはははは!」
史浩は笑いながらそれに同意した。
こちらも失礼な話である。


最初に秋名山でハチロク対FDのバトルがあった際、ボーイッシュな髪型と格好の拓海を「男」だと勘違いしていた面々がレッドサンズの一部にいたのだ。その一部と言うのが、涼介や啓介や史浩やケンタなのだ。
オフィシャルをした二軍メンバーに「あのハチロク、女ッスよ。あいつオレの弟と同じガッコだから知ってますよ」と言われ、四人はポカンと口をあけて驚いたという過去があった。
それが未だに尾を引いていて、拓海はプロDメンバーにどうも女だと思われていない節があった。
「ま、藤原にカレシだなんて、万が一にも……あ……?」
ソファの背もたれに腕をかけてふんぞりかえった史浩は、ふと目を遣った窓の外の光景に、我が目を疑った。


ファーストフード店の、道路を挟んだ向かい側には一軒の全国チェーンの店があった。
ウサギのマークのピンクと白の。名前に西のつくベビー用品の店だ。
かわいらしい赤ちゃんモデルが愛らしい笑みを浮かべているチラシが折込に良く入っているから、史浩やケンタも知っている。
「拓海、行こうぜ」
「うん」
道路沿いの駐車場に入ってきたハチゴーから、イツキと拓海が出てきた。
「いいものがあったらいいな。あ、拓海、そこ気をつけろよ、段差」
「あっ、ほんとだ……」
段差に足をとられそうになった拓海を、イツキが気遣って手を差し出した。その手を拓海が握った。
「悪ィ、イツキ」
「ったく、お前ボーっとしすぎだぞ」
そして二人は仲良く並んで店に入っていった。


「……か……」
「れし……」
その光景を、道を挟んだファーストフード店の窓際の席にいた二人はばっちりと目撃した。


通常なら「あのハチゴー、秋名スピードスターズのヤツか」「ですね。藤原と幼なじみらしいっすよ」「ふーん、オレと涼介みたいなもんか」で済まされるところだが、今回はそうはいかなかった。
ケンタと啓介が見た拓海の行動と勘違いという大前提がある。
しかも、ベビー用品店。
2人の脳内では、聞こえていないはずの会話が勝手に作成されて再生されていた。
「ハニー、段差があって危ないぞ」
「ありがとう、アナタ(はーと)」
「いいんだよ、お前やお腹の子に何かあったらオレは生きていけないからな……」
「イツキ……」
てな具合である。



「いた……藤原にカレシが……いた……」
窓越しに二つの後姿が遠ざかっていく。
史浩は激しい胃の痛みと、気が遠くなるのを感じ、彼はどさっ、とソファに倒れこんだ。
「史浩さんっ! しっかりしてくださいっ、史浩さーん!」
そしてケンタの声も遠ざかっていった。


誤解が誤解を招いた。

6


「あっ、イツキ見て見て。これ可愛いかも」
「おおっ、いいなぁ。拓海ぃ、こんなのもあるぜ!」
「それ青色だろ、まだどっちか分かんないんだから……」
「あ、そっか」
向かいのファーストフード店で史浩が勝手に気絶したのも知らず、西なんとか屋で拓海とイツキはプレゼントを選んでいた。
拓海が昨日行ったショッピングセンターより、こちらの方が品数も多く、若干お値段もオトクだった。
懐の寂しい2人にはお値段の面であり難かった。
「……そういや拓海、就職してプロDとの両立で大変だろうけど、遊ぶ暇とかあるのか?」
ガラガラを手に、イツキが急に話題を変えた。
「え? ……ああ、うん……まぁ。それなりに、なんとか」
ただでさえ拓海には家の豆腐の配達がある。それは流石に、文太と一日交代にはなったけれど。
しかし高校時代から慣れたスタンドに就職したイツキと違い、拓海の就職先はゼロからのスタートだ。
その上にプロジェクトDの遠征や練習が重なっている。現在連戦連勝と成績は華々しいが、走りを向上させるむつかしさや、社員の重責、仕事の合間に車を走らせる時間を作る大変さはイツキだって嫌というほど分かっている。


「彼氏とか、作る暇あるのか?」
「え……」
彼氏、というイツキの言葉に、拓海の声がひっくり返った。
「いや、今は……そういう場合じゃないから……」
拓海はウサギ柄のミトンを手に、言葉とは逆に下を向いて赤面し、モジモジしている。

(……拓海、やっぱ彼氏がいるんだな……)

イツキのロンリードライバースカウターはこの時、あり得ない数値をたたき出していた。
ロンリードライバーは自分に縁が無い分、他人の色恋には人一倍嗅覚が敏感だ。今の拓海のリアクションは、イツキには「はい、彼氏います」と言っているのとほぼ同じことだった。
それ以前にイツキは拓海の幼馴染だ。なんだって分かっている。
恋愛感情になったことはなく、きょうだいのような感情だが、だからこそ拓海の心情は手にとるように分かった。
勿論、ただの「気のせい」ではなく、イツキなりの裏づけがあってのことだ。

最近、拓海がハチロクを給油に来るペースが妙に早い。自主的な走り込みにしてはタイヤの磨耗がそれほどではないから、単なる遠出だ。
いつもスッピンだった拓海がお化粧をするようになった。
仕事帰りスーパーに寄ってからの給油の際は、父親との2人分にしてはちょっと多いんじゃないの? という量の食料がハチロクの後ろに乗っていたりする。
極めつけは、夜遅くに峠とは違う道を走る拓海のハチロクを見た。

渋川市内ではないところに彼氏がいて、拓海が夕食を作ったりしているんだということをイツキは感づいていた。

(相手は誰だろ……勤め先? それともプロD? まさか遠征先の対戦相手か?)

イツキの頭の中では、三種類の恋物語が勝手に繰り広げられた。
トラックの陰でお揃いのうぐいす色の作業服で、拓海がイケメン男性社員と「先輩……」「藤原さん、オレは入社式の日から君のことが……」と手を握り合い抱き合う社内恋愛バージョン。物陰からそれを見て目に焔をメラメラさせる先輩事務員(ひざ掛けをキーッと噛んでいる)も忘れてはいけない。

プロDのメンバーが拓海に花束や指輪の入ったベルベットの箱を差し出し「藤原、オレと付き合ってくれ!」「いや、オレだ!」と我先を争う逆ハーレムバージョン。
しんがりで現れたダブルのスーツ姿の高橋涼介がSAY YESをBGMに現れ、一際大きな真っ赤なバラの花束を差し出し、ボクは死にましぇん! と言ってメッセージカードには歯が浮くような台詞の愛の言葉が書いてあるのはもはや予定調和だ。

遠征先のどこかの峠、拓海がチギって勝ったバトル。負けたというのにチャラそうなバトル相手の男が拓海の顎をくいっと持ち上げ、「気に入ったぜ……お前、オレのスケになれよ」と言った後は無理矢理後部座席、上下に動くチャラい車の峠の恋バージョン。
「こんなことされたらお嫁にいけない……責任とって……」と服で胸元を隠して涙ぐむ拓海の隣で、チャラ男がタバコを吹かして頷くオプション付き。


「…………」

三種類の恋愛模様を妄想した後、イツキは内心くぅーっ! と唸り、……冷静になった。
(どれも違いそうだな……拓海の彼氏はきっと派手じゃない、落ち着いたいい人だろうな……)

当たっていた。流石幼馴染だ。

「だろうなぁ。ま、あれもこれもって欲張ってる場合じゃないよな。ところで拓海、アレも見ようぜ」
この話題は追求しない方がいいとイツキは判断し、話題を元に戻した。拓海は顔に出るくせに追求されると貝の様に口を瞑る傾向にあるのだ。
(それに何より、拓海がシアワセなのが一番だよな……もし悪い男だったら、オレが身体張ってでも別れさせてやろう。ま、大丈夫そうだけどなー)
なんとも常識的な意見だ。幼馴染はかくあるべし、だ。


その頃、気絶した史浩の傍でケンタが啓介に「藤原がハチゴーと西松屋!」と、あらぬ疑いにあらぬ疑いを乗せて電話をしたのは言うまでもない。


数日後のプロDの遠征は、前回とは打って変わった妙な空気だった。
啓介にはケンタからイツキと西なんとか屋ラブラブ入店目撃情報が齎されている。それはすぐさま、涼介にも伝えられた。
拓海のトツギーノを信じている啓介、ケンタ。ほぼ2人寄りの史浩。
まだ疑っている、寧ろお願いだから啓介とケンタの話を信じるな頼むあんたが首を突っ込んできたら一番面倒だ、の涼介。
「……」
「……」
「……」
「……」
四人の目が、拓海にじーーーーーっと向けられている。
拓海はそれにも気付かずマイペースで、走り込みを終えて休憩時間だからとクーラーボックスからペットボトルのコーラを取り出し、栓をひねろうとしていた。


「あああああああああっ!!!!!」
叫びながらそれを奪い取ったのは啓介だ。
「なっ、なんですか啓介さんッ!」
「駄目駄目駄目! 無駄無駄無駄ァッ! これはオレの、お前はこれ! こんな身体に悪いもん飲むな!」
啓介は拓海からコーラのペットボトルを奪い取ると、代わりに「からだに優しい日本のお茶」をその手に持たせた。
「えー……そんなの」
身体に悪いなんて分かってるけどそのくらい、と拓海は言いかけたが、啓介とケンタと史浩が「メッ!」とばかりに睨んできたので諦めた。
(なんだよ三人とも……コーラくらい好きに飲ませてくれればいいのに)
ちぇっ、と呟いた拓海は仕方なくお茶を飲むことにした。


「よっしゃ、こんなの妊婦は駄目だよな!」
コーラを奪い取った啓介に、涼介が確かにそうだと頷く。
「……しかし……色々と解せんな……」
涼介は顎に手をあて、ふむ、と考える。
「藤原に手を出す物好きがこの世に存在するのかという疑問がだな」
失礼極まりない話である。
その物好きの松本は、拗ねてお茶を飲む拓海に、あくまでもチームメイトの顔で「藤原、調整終わったぞ。休憩が終わったらまた後二本くらい走ってくれ」と話しかけていた。


バトルは明日、今日はプラクティス。
誤解がプロDを覆うが、相手との力量差は歴然。負けるバトルではなさそうだ。
走りこみの後、順次麓のファミレスで食事となった。峠にバンを停めて大掛かりな設営をしているの都合上、一度に全員が移動して食事というわけにはいかない。FDの啓介と宮口、ハチロクの拓海と松本、レッドサンズの二軍がオフィシャルとして手伝いにくればここで二軍が、最後に本部の涼介と史浩とケンタ、という順番で食事に行くのが恒例だ。
この日も同様の順番で食事タイムとなり、先に食事を終えた啓介と宮口を乗せたFDが山道を登ってきた。
「あそこのファミレス、結構美味かったぜ」
「そうなんですか。群馬には無い店ですよね」
FDから降りた啓介が松本に話しかけた。
群馬には無いファミレスが麓にあり、今日の食事はそこだ。
先に行った啓介と宮口が席を取ってあり、順次ツケで食事し、一番最後の涼介達が支払いをするという段取りになっている。
「じゃあ、行って来ます」
拓海が残ったメンバーに頭を軽く下げハチロクに乗りこんだ。
続いてハチロクに乗り込もうとした松本に、すれ違った宮口が耳打ちする。
「一番奥の、窓際のいい席とってありますから……」
宮口の気遣いに、松本は「いつも悪いな」と片目を瞑った。

7


拓海と松本を乗せたハチロクを見送った啓介達は、本人がいないのをいいことに言いたい放題だった。
「アニキっ! 藤原の赤ん坊のためにも、飲み物にサイダーとかコーラとか入れるのなしにしようぜ! 麦茶とほうじ茶オンリーにしようぜ! 水だって国産で!」
「確かに妊婦に清涼飲料水は良くないが、まだ藤原がそうだと決まったわけでもないしな……」
拓海から取り上げたコーラをシャカシャカ振りながら主張する啓介に、涼介は腕組みをして疑問で答えた。
「涼介、オレは確かに見たんだ。あのハチゴーに乗ってる同級生と、ラブラブでチャーミーグリーンで西なんとか屋に入っていく藤原を……」
「そうですよ涼介さん、もうあれは絶対そうですよ。もしかしたらもう籍入れてるかもしれませんよ!」
啓介の援護射撃をする史浩とケンタの言いたい砲台……いや、放題な話を聞きながら、FDのボンネットを開いて調整をしていたメカニック宮口は心の中でつぶやいた。


『……みんなバカばっかり……』


この勝手な思いこみ大会に参加もせずなにも言わないが、実は宮口だけは拓海と松本のことを知っていた。
おそらくは、二人のことを公式に知る唯一の人物といってもいいだろう。

少し前、宮口が本業の整備士として客先に納車に行った帰り、偶然松本の家の近くを通りかかった。
「そうだプロDのアレ松本さんに言っとかないと。メールしても反応ないからなー」と、思い立ったが吉日とばかりに宮口は松本家にアポなし訪問をした。松本にメールをしても反応がないのは、勿論松本が拓海とのラブラブメールに忙しいからであって、決して携帯メールが不得意なわけではない。
そんなことなどつゆ知らず、宮口が「宅配便でーす」と冗談のつもりで裏声でインターホンに向かって叫ぶと、「はーい」とシャチハタ片手に出てきたのはエプロン姿の拓海だった。
唖然とした宮口が拓海の肩越しに見たのは、ソファで新聞を読む松本、二人のスリッパはお揃い、奥からはカレーライスの匂い……というまるで新婚家庭かよ、な光景だった。
驚きを通り越して絶句した宮口に、松本は頼むお願いだから言わないでくれ、と頭を下げた。拓海も後生ですから……と頭を下げた。
後生とか今時言うか、という突っ込みはさておき、宮口は見返りもなにも求めず、二人の頼みを了承した。
あれから数ヶ月になるが、宮口の口は貝の様に堅く閉ざされ、二人のことに触れることはなかった。
というのも、彼には松本と拓海の気持ちに共感する部分があったからだ。
実は宮口には長年つきあっている彼女がいる。走り屋時代の先輩の妹で、しかも先輩は重度のシスコン。彼氏なんか連れてきたら許さない、轢き殺してやる、が口癖だった。しかもその目はマジだった。……そんな理由で、宮口は彼女と付き合い始めてしばらくは先輩に言い出せなかったのだ。勇気を振り絞って実は妹さんと突き……いえ、付きあってます、と言えたのは、付き合い始めて大分経ってからのことで、先輩もそれほど長く付き合っているなら、と渋々了承してくれ、事なきを得たのだが、その帰りに宮口が自宅付近でフルスモークのヤンキー車に轢かれかけたのはまったくの余談である。


だから、宮口には松本と拓海の「内緒の恋」を貫く気持ちは痛いほど分かった。
堂々とはあまり会えず、プロDではあくまでもメカニックとドライバーとして振る舞わざるを得ない二人を、彼は何かと気遣ってくれていた。今日の様にファミレスで目立たずいちゃつける席を確保してくれたり、二人になれるような配分を涼介に進言してくれたり。
『ま、言いたい放題言ってこっちで盛り上がってればいいけど……』
宮口は小さくため息をついた。



「また宮口に気を使わせちまった」
ファミレスに向かう坂道を軽く流すハチロクのナビで、松本は苦笑した。
「一番奥の席だと、気兼ねなく話しができるだろうって……」
「宮口さんらしい気遣いですよね」
嬉しい気遣いに、ステアを握る拓海は肩をすくめて笑った。
あまり二人で出歩くようなことは控えているため、このプロDの食事は数少ない「二人で出かける」ことだ。勿論、表面上は「メカニックとドライバー」としてだが。

(……デートみたい……超嬉しいかも)
拓海は内心、とても嬉しかった。
たかがファミレスでも、二人っきりというのは嬉しい。たまの休みでさえ、手を握って公園に行くようなこともない。ラブホなんてとんでもない。ハチロクは有名な車だし、松本のシルビアも、群馬エリアでは割と知られている車だ。
拓海が松本のマンションに行く時でさえ、一番目立たない場所に車を停めているくらいだ。
「そういえばな、藤原」
「はい」
「この間藤原が言ってただろ。先輩が結婚するって」
「あ、ええ」
「プレゼント、決まったのか?」
「はい。ベビー用品の専門店で、いいものがあったんで、幼なじみと折半で買って、大安の日に届くように手配しました」
「そうか」
史浩が失神した西なんとか屋事件の裏で、拓海とイツキはいいものを選ぶことができていた。
「あれからずっと考えてるんだ……」
「何を、ですか?」
松本の声のトーンが少し変わった。拓海は松本をチラ、と横目で見た。


「どんな風に藤原にプロポーズしようかって……」
窓の外を眺めながら、拓海の方を見ずに言った松本の台詞に拓海の頬がボンッ!と音を立てるほど一気に真っ赤になった。
三浦のボイラーのCMにでも出れそうだ。
「まままままつもとさんっ……」
「藤原、前! 前!」
「あわわわっ……!」
なんでもないストレートの道でハチロクが蛇行し、慌てて松本が手を出して事なきを得た。



赤面した拓海とカッコつけた台詞で気恥ずかしい松本が例のファミレスに入った。予約を伝え、宮口がとってくれた一番奥の窓際に座った。
「……なんか、毎回思いますけど……デートみたいでいいですよね」
「ん? ああ……そうだな」
向かい合ってパフェ一つを二人でつつく、という古典的カップル的なことをする拓海と松本の頬はまだ赤かった。
明日のバトルのことなどひとまず忘れて、今はただこの甘い時間を堪能していたい……というより、二人の頭から明日のバトルのことはすっぽり抜けているのだが。
パフェを食べ終え、さて定食でも頼もうかとメニューを広げている時。

「あれ。修一じゃねえか」
どこかで聞いたことのある声が松本の下の名を呼んだ。
「え、」
その声に、拓海と松本は顔を上げて声の方を向いた。
(わ……エンペラーの……)
拓海ははっとした。二人の席のすぐ側に立っていたのは、まさかのエンペラーの須藤京一と岩城清次だった。声は清次のものだった。
「誰かと思ったら……京一と清次じゃないか」
「久しぶりだな、修一」
頭にタオルを巻いた京一が松本を修一と呼んだ。松本も二人を下の名前で呼び、顔には笑みを浮かべている。
「なんだよこっちでバトんのか」
「ああ。今回はすぐ先のS峠だ」
「ってことは、ウイングとやるのか」
「ご名答、まさにそことやるんだよ」
二人は馴れ馴れしく松本と会話をし、隣の席にどっかりと腰を下ろした。
(え? 修一?? 京一? 清次? どういうこと?)
拓海は三人のやりとりに、クエスチョンマークを頭の上に浮かべている。え、え、と松本と京一&清次を交互に見比べた。
「……久しぶりだな、秋名のハチロク」
ものすごく今更、京一が拓海に挨拶した。というより、京一の顔は「お前居たんだな」という顔だ。
「あ、……お久しぶり、です」
あわてて拓海は頭を下げた。清次も「そう緊張すんなって」と相好を崩した。
「あの……松本さん、お知り合いなんですか、須藤さんたちと……」
拓海がおそるおそる尋ねると、清次が「知り合いなんてヌルいもんじゃねえよな」と笑った。
「藤原にはまだ言ってなかったかな。オレとこいつら二人は高校時代に、ちょっとな」
松本が困ったように笑った。
「なにがちょっとだ、修一。素直にやんちゃしてたって言えよ」京一がフッと笑った。
「え……松本さんてやんちゃしてたって……啓介さんの高校時代みたいなアレですか」
啓介が高校時代にやんちゃをしていて、木刀片手に単車を乗り回していたと言うのは話には聞いていた。土坂峠ではその過去が生かされ、危うくピンチを逃れたのだが。
「涼介の弟なんざかわいいもんだ。アイツはただの幹部だろ、修一は……」
「よせよ京一、昔の話しだよ……」


京一と清次の話しを総合すると、どうやら松本は高校時代に「ずいぶんと」やんちゃをしていて、そのころ同じ位やんちゃをしていた京一と清次と、北関東のやんちゃな連中のリーダーの繋がりで仲がよかった、というのだ。
(総長って……)
そのやんちゃレベルは、どうやら啓介を10とするなら25とか30くらいのレベルらしい。
今の大人で落ち着いた松本からは想像もできない話しで、拓海は驚きを隠せなかった。
「ま、今じゃすっかり真面目なメカニックだもんなぁ修一は……昔は頭なんかこーんなリーゼントでブイブイいわせてたのにな」
(ブイブイって……)
清次が額の前で両手で三角を作る。
拓海はその表現の古さにジェネレーションギャップを感じつつも、ブイブイの内容が気になった。
(もしかして……女の人とか……)
顔に出た不安を察したのだろうか。京一がちら、と拓海を見た。
「まぁ、それも昔の話だな。今の修一は……なんだか優しい顔だな」
その含みのある言い方に、松本の顔がかあっと赤くなる。京一の言葉の意味を悟ったのだ。
「確かにな。すっかり大人のいい男になっちまってよ。余裕綽々じゃねえか。こちとらエボが彼女だって言うのに、なぁ京一」
清次の言葉にも含みがあり、松本が「清次っ」と清次をにらんだ。
「じゃあっち行くか、京一」
「ああ」
清次が切り出し、二人は立ち上がった。
「おい、ハチロク」
清次が拓海に近づいて、耳打ちした。
「心配しなくても、修一は根は真面目でいいやつだから、信じて付いて行けよ。何かあったら遠慮なくいろは坂に言いに来いよ。そん時ぁ修一を中禅寺湖に沈めてやっからよ」
「え、あ、え、」 あの、違うんです、と言い訳をする間もなく。
じゃあな、と手を挙げて二人は去ってしまった。
「……あ……」



「――昔ッから鋭いんだよな、あの二人は」
二人が去った後、ため息混じりに松本は肩をすくめた。
「松本さん、あの……」
「心配しなくても、京一も清次も言い触らすような人間じゃないさ」
「そう、なんですか……」
付き合っているなんて一言も言わなかったのに、二人は雰囲気で拓海と松本の関係を察したようだ。
拓海は恥ずかしくて下を向いてしまった。
けれど、「信じて付いて行けよ」という清次の言葉は、拓海には心強いものだった。
(信じる……そうだよな、恋愛って相手を信じることだよな)
過去をどうこう言っても、それは過ぎ去ってしまったこと。今拓海に出来るのは、目の前の松本を信じることだ。
「それに、昔は確かに色々あったけど……今のオレには、お前しかいないんだ。藤原」
「ま……松本さん……」
「信じてくれるか?」
「……はい、」
松本の手が、拓海の手に触れた。
二人は見つめあい――互いの気持ちを再認識した。
まさに、清次の言った「信じる」という行為だった。



「まさか修一がハチロクと付き合ってるとはな」
清次はエボWのステアを操りながら、豪快に笑った。
「ああ。雰囲気がまるっきりそうだったな。ハチロクの目がな……」
ナビシートの京一も同意した。
松本を見つめる拓海の目が恋する乙女のそれだったことに、二人とも気付いていたのだ。伊達に年は取っていない。といってもまだ26なのだが。
「”鋼鉄の修一”も形無しだったな」
松本の知られざる、若かりし頃の二つ名だ。
昔は鋼鉄の修一などと呼ばれ、触るもの皆傷つけていたチェッカーズの歌のような松本だった。が、京一と清次の見た松本は、拓海とラブラブで、優しい目をした大人の男だった。
「あの二人、大丈夫だよな。京一」
「だと思うが……ま、妙な邪魔が入らなければいいんだが」
「邪魔?」
清次は京一の妙な邪魔、と言う言葉を反芻した。
「ああ。ちょっとひっかかってな……あの二人が付き合っているという話しは、今のところ聞こえてきていないだろう」
「確かにな」
「となるとまだ公にはしていないんだろう。「あの」涼介の下で居るわけだし、プロジェクトDの真っ最中で公にしにくいのもわかる。が、……公にしていない分、いろいろとな……」
「いろいろって?」
清次の問いに、京一は少し考え込んだ。


「……例えば、公にしていない分、どこかで誤解を招いたりだとか……そういうことで二人の関係にひびが入るとか……」

京一のいやな予想は、当たっていた。

8


「藤原が妊娠していた場合、だ……」
拓海と松本がいない間、プロDの面々(宮口を除くので啓介とケンタと史浩)は、涼介を囲み、今後の予定について話し合っていた。
「夏場の厳しいバトルの日程は妊婦にとって大変な負担となる。暑さに加えて、危険を伴う行為だ。おまけに何かあってもすぐに対処できない 山の中だ。しかも昼夜逆転の生活だ。今までのように車中泊など妊婦には言語道断だ。藤原は平日は仕事をしている。ということは、だ。……プロジェクトDの 活動は、妊婦にとって著しく優しくはない行為ということだ。ここは母体の保護を優先して、藤原を外すということもあり得るわけだ」
「アニキっ」
「涼介」
外す、という言葉を、涼介はあえて強めに言った。

(うっそ、マジで……)
FDの調整をしながら、その話を聞いていないふりでしっかりと聞いていたのが宮口だった。
(なんか話がでかくなってないか?)

「マジかよ、アニキ」
「ああ、真剣だ。これは、医者の卵として、いやプロジェクトDの責任者としての正当な判断だ」
「涼介っ、そうしたらそのあとのダウンヒラーは……」
「残りのバトルはオレが走る。勝てそうな相手なら史浩、お前が走ってくれ」
「涼介さん、そこまで……」

真贋を確かめることもなく勝手に盛り上がっているプロDの面々はあくまでも真剣そのもので。
宮口は本気でやばい、と思い始めた。

(これ……早く誤解解いた方がいいんじゃないか?)

付き合いを公表したくないという二人の気持ちはわかる。わかりすぎる。
一番最年長の松本が、最年少の、しかも紅一点の藤原に手を出したというのは言い出しにくさ満点だろう。これが年も近いケンタあたりなら 「お前ら仕方ないなあ」で済まされ、ケンタが軽く殴られて終わるのだろうが、涼介の「人生をかけた(本人談)」プロジェクトの真っ最中に、である。
松本のうしろめたさはわかりすぎる。しかし、現に今こうして誤解から拓海がプロDから外されようとしているのだ。
それは、よくない。あまりにもよくないことだ。
「そして、オレたちで藤原のお腹の子の父親に、きっちりと責任を取るように説得する。社会人一年生同士なんだろう? 言い出しにくいのはわかるが、いつまでも 黙っていられるようなことじゃないだろう。藤原のオヤジさんに頭を下げるときにも応援してやりたい」
「涼介さんっ」
「さすがだ、涼介」

(……勝手に話進んでるっつーのっ!)
宮口はその場をそっと離れ、物陰に移動すると、携帯を取り出して松本に掛けた。
(とっとと誤解解いて、嫌味言われるの覚悟で生きた方がましだって……!)

一方、そんなことも知らない二人はファミレスでしばしのデートを楽しんでいた。
二人の間には、シェアした(ベタに言えば、「あーん(はーと)」などというバカップルなことをした)デザートなどのお皿が幾つかあった。
そして「プロジェクトDの活動をしていると藤原の作った味噌汁が飲みたくなるなあ」なんていうことを言い、拓海の頬を赤く染めたりしていたのだ。

「そうなんですよ、もう毎日そんな感じで……」
「藤原も大変だなぁ」

拓海の会社の話で盛り上がっていると、松本の携帯が鳴った。
「ん? 宮口からだ」
「宮口さん?」
「ああ、どうしたんだろうな。……はい、もしもし。松本ですが」
『松本さん? 今大丈夫ですか? そろそろ、隠すのは限界だと思いますよ』
「限界って……どういうことだ」
『だからー……後で詳しく言いますけど、どうも変な誤解をしているみたいなんですよ、涼介さんたち。で、藤原をプロジェクトDのドライバーから外すとかなんとかっ……」

『何だって!?』

松本が思わず叫んだ。
「松本さん?」
拓海が反応した。


⇒続くよっ!
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