9d-1



音を持たない霧雨が降る夜、時刻は日付を跨ごうとしていた。
警察署の駐車場に止められたロードスターは闇の中、ゆっくりと全身を濡らしながら主とその従弟の帰りを待っていた。



「どうも、ご迷惑をお掛けしました」
煌々と明かりのついた警察署の玄関で、史浩はペコリと頭を下げた。史浩の隣では、従弟の啓介が不貞腐れたような顔で突っ立っていた。
啓介の額には絆創膏、口の端は切れて軽く腫れ上がっている。羽織っている派手な刺繍のスカジャンは、今夜この警察署にお世話になる原因になった喧嘩で左肩の部分が破れ、中に着ている赤いTシャツが覗いていた。
中学の終わりごろから高校三年生の今に至るまで、啓介は荒れた生活を送っていた。高校と名のつくところには通っているものの、卒業は危うかった。
髪を金色に染め舎弟を従え家の金を持ち出し改造バイクを乗り回し、喧嘩に明け暮れ、挙句この警察署の喜ばしくは無い常連というセオリー通りの不良だった。
そして啓介が警察の厄介になる際、彼を引き取りに来るのは、父親でも母親でもなかった。
啓介が警察に十回世話になれば、引き取りに来るのは兄の涼介が二回くらい、残りの八回は史浩だった。
「ほら、お前も頭下げろ、啓介」
史浩に背中をぽんぽんと叩かれ、啓介は渋々、軽く頭を下げた。
大学二年生の史浩は啓介より身長こそ低いものの、態度も口調も非常に落ち着いている。派手な身なりで不貞腐れている啓介がとても幼く見えた。
史浩と啓介が頭を下げた方向には、既に顔見知りとなって久しい、先ほど啓介に散々説教を食らわせた少年課の刑事がいた。
「高橋、もう来るなよ――といっても、また来るんだろうけどな」刑事は茶色のスーツのポケットに両手を突っ込んだまま苦笑し、啓介はチッ、と舌打ちした。
(いけ好かねぇ野郎だ)啓介は刑事を睨んだが、海千山千の刑事にそんな睨みが効くわけも無く、気をつけて帰れよ、と手を振られた。
「それじゃあ、失礼します――」
史浩は啓介を促すと再び頭を下げて署を後にし、霧雨に濡れるロードスターに乗り込んだ。



「……涼介は明日の朝までに仕上げないといけないレポートがあるらしくて、来れなかったんだ」
ロードスターのステアリングを握る史浩は、ナビシートで頬杖を付いている啓介に言った。
この時間の市内は流石に交通量も少なく、信号は点滅式に変わっていた。
「別に……アニキはいつものことじゃん……」
啓介は細かな雨粒に濡れる窓の外の、ひっそりと静まり返った夜の街をぼんやりと眺めながら返した。
切れた口の端がひりひりと痛んだ。
「で、今日は何が理由だ?」
「舎弟のバイクに蹴り入れられてさ……」
史浩は啓介の喧嘩の理由を聞き、そうか、と返事をした。
不良の世界のことは良く分からなくとも、一応話は聞いてやるのが教職を目指す史浩の身上だ。
目が合った、肩がぶつかった、誰某の女に手を出した、舎弟が因縁をつけられた。啓介の喧嘩の理由はいつも様々だった。
啓介は不良グループの中でも高い地位にいる癖に、何かあると真っ先に自分が出て行って始末をつけようとするからたちが悪い。面倒見がいいといえば聞こえがいいが、悪く言えば立場をわきまえず、感情に任せて、頭より先に身体が動いているのだ。
いつしか“高崎の黄色い悪魔”などという有り難くない二つ名まで頂くようになってしまった。
家の金を持ち出して勝手に手に入れたバイクは爆音を立てる、啓介を巡って派手な女が高橋家の前で掴み合いの喧嘩をする、素行の宜しくない生徒が多い啓介の学校も終に匙を投げたのか、退学を遠まわしに勧めてきたと、史浩は今朝涼介に訊いた。
高崎市内でクリニックを経営する啓介と涼介の両親は、とっくに啓介のことを見放していた。だから、こんな時に迎えにさえ来ないのだ。 しかし、いや、だからというべきか――史浩は啓介を放っては置けなかった。
泣きながら史浩と涼介の後をついてきていたような小さい頃から知っているし、啓介の素行が悪くなったきっかけも知っているからだ。何より、兄弟の様に育った従弟だから。
「啓介、喉渇いたろ。コンビニ寄るから何か買ってやるよ」
「うん……」
啓介は運転席の史浩を見た。二つ年上の従兄は、男前とはいえない顔立ちながらもいつも優しかった。
兄の涼介なら、迎えに来るとピシャリときつい言葉が浴びせられる。時には警察署の刑事が、お兄さんそこまで言わなくても、というくらいきつい言葉だ。
が、史浩はそれがなかった。
兄と従兄では立場も違うだろうが、史浩は昔から啓介には甘かった。年下の啓介がフミヒロ、と呼び捨てにしてもニコニコしてそれを許しているし――涼介が啓介にいくら注意しても、だ――今日の様に、啓介を迎えに来ても涼介のようにキツい言葉はない。警察署では米搗きバッタの様にひたすら頭を下げ続けていた。
「伯父さんと伯母さんは今夜も戻らないみたいだ」
「知ってる……」
啓介と涼介の両親は、忙しさを理由に去年、病院の敷地内に別宅を建て、そこに生活の中心を置いた。
だから自宅には殆ど戻らなかった。
忙しいというのが表向きの理由だが、実のところ、素行の悪い啓介と顔をあわせるのが嫌なのだと、啓介自身気付いていた。
(どうせオレのことなんか、オヤジもお袋もどうだっていいんだ……)
啓介はちいさくため息をついた。
「な、史浩」
「ん?」
「……史浩も忙しいのに、ごめんな……」
史浩は涼介と同じ大学の教育学部に通い、子供の頃からの夢だった教職を目指している。医学部の涼介程ではないが、忙しい身だ。
「どうしたんだよ啓介、珍しいな」
明日は大雨だな、と史浩は笑った。
「そう思うんなら、ちょっとはしおらしくなれよ」
シフトレバーから離れた史浩の大きな手が、啓介の頭をぽんぽん、と撫でた。まるで小さい子供にそうするように。
「…………」
啓介は無言だった。他の人にされるとムカつくことこの上ない行為だが、史浩にされるのは嫌ではなかった。
心が、満たされていく。
温かなものが流れ込んでくる。
史浩に頭を撫でられたり、触れられると、啓介はそんな不思議なものを感じるようになっていた。
それが何かは、まだ分からなかった。



ロードスターは高橋邸のガレージに滑り込んだ。
ガレージには涼介の白いFCと、父のセカンドカーのベンツがあった。通いの家政婦の軽四はなかったから、もう帰った後らしい。隅には改造した啓介のバイク。ひとたび唸ればご近所迷惑この上ない代物だ。
「すまないな、史浩」
通用口から、涼介が現れた。
「いや、いいんだ。ホラ、涼介の分」
史浩はロードスターを降り、コンビニで涼介の分にと買った缶コーヒーを投げた。涼介はそれを受け取ると礼を言い、きまり悪そうにナビシートから降りた啓介をきつく睨んだ。
「啓介!」
涼介の声に、啓介がビクッと跳ねた。
「……アニキ、」
「涼介、もういいだろ。警察で散々あのベテランの人に絞られてるんだ。啓介、明日は学校行くって言ってるんだ。早く寝かせてやれよ」 啓介に近づいて叱ろうとした涼介を、史浩が遮った。啓介は史浩の後ろで、俯いていた。
「……今夜は史浩に免じてやるか。啓介、早く風呂に入って寝ろ」
「うん……」
苛苛が溢れ出そうな涼介の言葉に、啓介は助かった、と思った。
「おやすみ、啓介」
涼介と史浩の脇を通り抜け、通用口のドアを開ける寸前、史浩が啓介に声を掛けた。
いつもの、優しい史浩の声だ。
「……おやすみ、史浩」
啓介は振り返り、小さく微笑んで返した。





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