9d-2



「ああやって素直な時は、ホントまだガキなんだけどなぁ」
閉じられた通用口のドアの向うで、階段を登る音が聞こえた。
史浩と同い年の従弟の涼介は、頭をがしがしと掻き、「全く、アイツは!」と苛立ちを隠さなかった。
「その様子だと、レポート大して進んでないな? 涼介」
「進むわけ無いだろ。高校も危ないなんて言われちゃ、メシも喉を通らないさ」
「……どうしたもんかなぁ……」
史浩はうーん、と首をかしげた。
「とりあえずオレも帰るわ……あ、涼介。ちょっと話したいことがあるんだけど、あとで電話して大丈夫かな?」
「ここじゃ駄目なのか?」
涼介が首を傾げるのも尤もで、家に帰るといったって、史浩の家はこの家のはす向かいだ。
電話するよりここで話したほうが早いのは明らかだ。
「ああ、ちょっと、話す前に後ろ盾を得たいんでね」
「……後ろ盾?」
「まぁ、ちょっと色々、な」



高橋邸のはす向かいにある、もう一つの高橋邸……史浩の自宅。涼介と啓介の家よりはやや小さいが、この閑静な高級住宅街でも豪邸の部類に入る。
史浩の父は、涼介と啓介の父の弟で、代々続く医者であった彼の父――史浩と涼介と啓介の祖父――に逆らって医者にはならなかった。学校を出てから職を転々とし、祖父にはそれを随分と咎められた。
が、友人と始めた商売が時勢に乗って実業家として成功し、高橋クリニックの親族として恥ずかしくないだけの地位と名声を手に入れていた。
ガレージにロードスターを停めた史浩は、父の車があることを確認し、玄関ドアを開けた。
「ただいま」
「史浩。また、啓介君なの?」
エンジン音に気付いて起きてきたのか、それとも起きていたのか、パジャマにカーディガンを羽織った史浩の母が険しい顔で玄関の上がり口に立っていた。
「……うん、まぁ……」
今度は史浩がきまり悪そうに俯いた。
啓介の前では余裕を見せる史浩だったが、家に帰れば一人息子だ。
母は、はす向かいの高橋の本家にはあまりいい感情を持っていなかった。
「全く……義兄さんも義姉さんもいい加減よ。ほったらかしにも程があるわ。どうして啓介君を史浩に迎えに行かせて、平気な顔をしていられるのかしら」
平凡な家庭で育った史浩の母には、親子の愛情より家の体面を重んじる名家の考えは理解できなかった。
長男の涼介さえ立派に跡を継いでくれれば、啓介はどうでもいい、というのが義兄夫婦の今の考えなのだ。
「父さんは?」
「リビングにいるわ。車のビデオ観てるわよ」
不満そうな母の視線を背中に感じながら、史浩はリビングのドアをノックした。



「史浩か、お帰り」
恰幅の良い啓介の父は、リビングのソファに大柄な身を預け大型画面でラリーのビデオを見ていた。
「また、啓介君か」
「うん」
史浩は父の隣に座った。画面では迫力のあるラリーカーが唸り、砂塵を巻き上げながら二台が競り合っていた。
「あ、コレ新しく買ったソフト?」
「ああ。……で、今夜は何だ?」
「喧嘩」
画面を見たまま、史浩が答えた。父は苦笑し、テーブルのウイスキーのグラスを手に取った。
「……オレにも喧嘩で警察の世話になった経験が全くないわけじゃないが、啓介君は少々度が過ぎているな」
母が階段を上がっていく音がした。
史浩はそれを確かめると、ビデオの音量を少し下げた。
「……父さん」そして、声を潜める。史浩は横目で父を見た。
「ん?」
「啓介さ、高校ヤバイらしいんだ」
「……そうなのか?」父の顔に驚きが満ちる。
「うん。涼介に聞いたんだけど、遠まわしに退学してくれって学校が言って来たって……」
「そりゃいかんな……あの学校を中退したら、もう群馬じゃ行く高校なんか無いだろう」
「だよなあ」
父と息子は計ったようなタイミングで特大のため息をつき、顔を見合わせて苦笑いした。
医者になった兄と、反抗して医者にはならなかった弟。
涼介と啓介の父と史浩の父の関係は、涼介と啓介のそれによく似ている。尤も、まだ涼介は医学部の学生で、啓介は高校生だが。
若い頃の自分と似ていて、どこか重なる部分があるからだろう、史浩の父は甥の啓介を何かと心配してくれていた。
「でさ、オレ、啓介のことで考えてることがあるんだ。アイツの立ち直り計画っつーか……それには父さんの助けが多分、必要なんだ」
それは史浩が先ほど、涼介に言った「後ろ盾を得たい」ということだった。
「父さんに出来ることか? 史浩」
「うん、……父さんじゃないと多分、伯父さんは首を縦に振らないだろうから」
「オレからアニキに何か言えばいいのか?」
「まぁね。すぐにじゃないけど、さ……父さんの得意分野だよ」
「ということは、車か」
「正解!」
史浩は手を打った。
史浩と涼介に車の面白さを教えたのは、他ならぬ車好きの史浩の父親だった。
涼介の父はその方面には疎く、ステイタスシンボルとしてしか車を見ておらず、外車ばかりを何台も所持していた。
史浩と涼介が大学入学と同時にそれぞれロードスターとFCで峠を走るようになったのは、史浩の父が二人を赤城山に走り屋のバトルのギャラリーに連れて行ったのが始まりだ。
シルビア同士の対決だったが、目の前で繰り広げられた走り屋のバトルは今にして思ってみてもなかなかレベルの高いものだった。初めて見たバトルに二人して言葉を失ったのは記憶に新しい。
涼介のFCは史浩の父の口添えが無ければ、涼介の父から購入の許可は下りなかっただろう。
史浩は温めていた“計画”を父に話した。



シャワーを浴びた啓介が自分の部屋に戻ると、隣の涼介の部屋から話し声が聞こえた。
聞き耳を立てるが良く聞こえない。が、部屋にある電話で誰かと話をしているのだと分かった。
切れた口の端は相変わらず痛い。
喧嘩相手が鳩尾に食らわせてくれた蹴りが、今頃響いてきた。
(電話……史浩かな)
はす向かいに住んでいるのに、史浩と涼介はよく電話で話をしていた。その原因が自分にあることは啓介自身、理解していた。
史浩の母が、啓介をあまり良く思っていないのだ。啓介どころかこの本家そのものをよく思っていない。だからこんなに家が近いのに、わざわざ電話をするのだ。
啓介はそっと、部屋の照明を消した。
そして窓際に近づき、カーテンの隙間から外をうかがった。
(やっぱり)
はす向かいの豪邸――史浩の家の二階の端の部屋の明かりがついていて、窓際に人が立っている。遠目にも史浩だと分かる。
史浩の部屋には窓際に電話があるのだ。
(史浩……)
啓介の胸が、つきんと痛んだ。
さっき触れられた温かい手の感触が甦ってくる。おやすみ、啓介、と言ってくれた艶のある声が。決して二枚目ではないけれど、優しい顔が。
(史浩……史浩……)
いつからだろう。史浩のことを考えると、胸が締め付けられそうになるようになったのは。
触れられると心が満たされ、温かな気分になるようになったのは。
(史浩っ……!)
気付けば、啓介の股間は熱く滾っていた。
デニムの前を窮屈そうに押し上げ、解放されたがっていた。
(オレ……どうにかしてる……!)
同性である史浩のことを考えてこんな風になるようになったのと、史浩に触れられて心が満たされたりするようになったのとは、多分時期は殆ど同じだろう。
啓介はカーテンの隙間から史浩の陰を凝視しながら、股間で滾る自身をデニムから取り出した。
早くも先走りを迸らせるそれを片手で包み、ゆっくりと扱き始めた。
(史浩見ながらこんなことするなんて……オレ……!)
おかしいことだと、自覚はしていた。
けれど、止められなかった。
(史浩、史浩っ……!)
「ぁ、ああっ……!」
啓介は小さく叫んだ。
同時に、白濁が勢いよく鈴口から迸った。





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