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「啓介のことなんだけどな」
『ああ』
霧雨が未だに降る窓の外を眺めながら、私室の出窓のスペースに軽く腰掛けた史浩は電話口の向うの、そして視線の先のはす向かいの家にいる涼介に言った。
「アイツを立ち直らせる方法の一つとしてオレが考えているのが……オレ達と一緒に走り屋やらせるってことなんだ」
特にコンビ名があるわけでもなく組んでいるわけでもないが、涼介と史浩はよく一緒に峠を走っている。
『それならオレも考えていたことだが……』
涼介の返答は、史浩の予想の範疇だった。
手段はさておき、啓介を暴走族から辞めさせたいのは、涼介と史浩の共通認識だ。
問題は、どうやって辞めさせるかだ。史浩がその手段として選んだのは――車だ。
あまり褒められた行為ではないが、今の暴走族よりはましだろう。同じ走り屋にさせれば、啓介を手元に居させられる。
少し前、啓介が操るバイクが、峠を走る史浩と涼介の車を追い抜いていったことがあった。兄と従兄の車だと分かっていて、煽るような運転で無謀に近い追い抜きだったが、そのコーナリングの思い切りの良さはなかなかのものだった。
後で二人して、『啓介が四輪に転向したらかなり上手くなるだろう』と話し合った。二輪の人間が四輪に転向すると上手くなるのが早い、というのは峠では常識だった。二輪でマシンをいじることを覚え、スピード感覚を養えるからだ。
どうやらその頃から、史浩も涼介も同じことを考えていたようだ。
「涼介がそう考えているのはオレも分かってたよ。でも、どうしたら啓介がOKするか、OKしたとしてその後のこととか……それが分かんないんだろ?」
『ああ……恥ずかしながら、それを考えあぐねているところだ』
受話器の向うで、頭を掻く音がした。
「だろうな。涼介、お前は何もかも一人でやろうとする癖があるからな」
涼介の部屋の隣の、啓介の部屋の明かりが灯り、すぐに消えた。
(啓介、寝たか……)
史浩は啓介が寝たのだと思った――まさか彼がカーテンの隙間からこちらを覗き見て何かをしているかなど、知る由も無く。
「使えるのもはなんでも使えってことで、涼介、まずはお前の出番だ」
『オレの?……言ってることがおかしいぞ、史浩。オレに一人でやろうとする癖があるとか言っておいて……』
「まぁ聞けって。順番だよ。まずお前の……赤城の白い彗星の全開ダウンヒル。あれを、啓介に体験させてやるんだよ」
啓介の部屋のカーテンが、僅かに揺らめいた気がした。
史浩はそれを特に気に留めることも無く、出窓の隅の、従妹の緒美がバレンタインにくれたサボテンの小さな鉢植えを指先で突付いた。
『……オレの全開ダウンヒルか……』
「そう、あれは強烈だ」
『全開、となると……』
涼介が黙り込んだ。
どうやら電話口の向うの涼介の脳内では、早くもシミュレーションが行われている様子だ。
『ふむ……』
涼介の頭の中で彼のFCは、赤城の山を啓介をナビシートに載せてスタートしている。
車に乗り始めたのは殆ど同じなのに、涼介は今や赤城の白い彗星と二つ名を頂くほどの腕前で、群馬最速とさえ言われる腕前だ。赤城山を元々ホームとしていた有名チームをあっけなく破ってからはその名は群馬中どころか近隣の県にまで聞こえていて、あちこちの峠のコースレコードを塗り替えていた。
史浩とてけっして遅い方ではない。むしろ速い方だ。妙義山でのバトルの時は涼介と史浩が左右回りで共にコースレコードを塗り替えたし、赤城のロードスターと言えば一目置かれている存在だ。
が、芸能人顔負けの容姿と、派手なドリフトが得意な涼介と一緒にされると、史浩はその地味な風貌も手伝ってか、どうしても霞んでしまうのだ。
『セッティングをちょっと変えないとな……』
「そうこなくっちゃな。ショップはオレの方から電話しとくよ。啓介はお前が捕まえろよ? きっと啓介、世界観が変わると思うぜ」
『だといいがな』
とりあえずの取り掛かりは、これで何とかなりそうだ。
『で、史浩……その次はどうするんだ? 使えるものっていうのはなんだ? もしかして、お前の言う、後ろ盾とやらか?』
「ああ、それなんだけどな。ウチの父さんだよ」
『叔父さん?』
「うん。啓介が走り屋になるのを了承したとして、免許も車も必要になるだろ。それはウチの父さんが、お前んとこの……伯父さんに口添えしてくれるそうだ。さっき、父さんに約束させたよ」
『……お前には敵わないな、史浩』
「よせよ、涼介。うちの父さんくらいしか、お前のオヤジさんを言いくるめられる人間は居ないだろ? いくらお前でも、啓介のことでオヤジさんにこれ以上無理は言えないだろう」
『まぁな』
涼介がふふ、と笑った。涼介はこれまで、啓介のことを散々両親から庇ってきたのだ。
「ただし、口は利いてやるけど啓介とその車の面倒はオレ達が見ろよって言われたけどな」
『それは百も承知だ』
「あっ、そうだ……啓介の学校のこともな、……差し出がましいことかもしれないけど、父さんが口をきいてくれるみたいだ」
『本当か?』
「うん。高校は、理事長の奥さんと父さんが仕事で繋がりがあるらしいから、舌先三寸で何とかなるみたいだ。勿論、啓介がこれ以上悪いことをしないって言うのが絶対条件だけどな。それに、ウチの父さん、啓介を大学に行かせたほうが良いって言うんだ」
『そりゃ確かにそうだろう。……けど、今の啓介に大学なんか……』
とりあえず高校と名のつくレベルの学校で、しかもそこの卒業さえ危うい今の啓介に、大学など夢物語だ。涼介の声は疑いを孕んでいた。
「……もちろん、大学はちゃんと受験しないといけないけど、お前んちのことを考えたら、レベルは兎も角大学って名が付くところは出しておいた方が良いだろうって父さんが言うんだ。私学なら推薦で……探せば啓介でも行ける大学はあるだろうって。伯父さんや伯母さんが啓介の進路をどう考えてるかは知らないけど、それがいいんじゃないかって父さんは言うんだ。
オレも、啓介が入れそうなレベルの大学が幾つか頭には浮かんでるんだけどな。今は大学全入時代だし、あちこちに新設されてるだろ。学校によっちゃ、父さんが口利き……あ、裏口じゃないぞ? ちゃんと表から……ただ、ちょーっとだけ、ちょーっとだけな……ヨロシクって位は……言ってくれるらしい」
『全く……お前の家には足を向けて眠れないな……史浩』
「ははっ、やっぱりカタギじゃないよな、あの人」
『息子のお前が言うなよ、史浩!』
涼介が笑った。
史浩の父親は普段はひょうきんで人の良さそうな顔をしているが、幾ら時勢に乗ったといっても、伊達にフリーターから腕一つで群馬有数の実業家に成り上がったわけではない。多数の従業員を抱え、今も事業を広げている。
家族には見せないだけで、何らかの黒い面はあるだろう。
「父さん、言うことがえげつないんだぜ? オレはマンションと土地だけを売ってるわけじゃないだ、なんて言うんだぜ……」
『ふふっ、一度でいいから言ってみたいものだな、そんな台詞』
「あと二、三十年したらオレらも言えるかな?」
『馬鹿、医者と聖職者がそんな台詞を口にしてたら、世も末だろう?』
「たしかに!」
二人して久しぶりに笑いあった。涼介は笑いを噛み締めながら、これまでの話を総合する。
『とりあえずは啓介を暴走族から足を洗わせて、真面目に残りの高校生活を送らせて……走り屋にして、大学に通わせてその間に将来を考えさせる、か……』
ざっと見積もっても四年かそれ以上は掛かる計画だ。それも、全てが上手く言った場合の最短で、だ。
「壮大な計画だな。ま、四年くらいなら、オレは付き合うぜ、涼介。オレはあくまでも粗筋を立てただけで、要所要所はアニキのお前がシメろよ?」
『わかってる。すまないな、史浩』
「いいんだよ。オレは教師を目指してるんだからな。弟同然の従弟一人も更生させられなくて、なにが教師だって話だよ」
『ああ。オレも、弟一人更生させられなくて、人様の命を預かる医者にはなれないしな……』
照明を消した部屋で、啓介はフローリングの床にうずくまっていた。
「……はぁっ……ん……ぁ、」
床に零した白濁を眺めながら、荒い息を整えようとしていたが、若い雄はまた頭を擡げ、二度目の吐精を望んでいた。
(駄目だオレ、止まんない……)
シャツの裾から手を入れ、硬く尖った乳首を弄った。
「んっ……!」
引っかくように指先で摘まむと、電流が背中を走り、雄へと快感が伝わった。
また屹立した自身をもう片方の手で扱き始める。床に零した白濁を指で掬い、潤滑液にした。
(あ……史浩っ……)
胸を弄るこの手が史浩の手であれば。竿を扱くこの手が史浩の手であれば――そんな思いが交錯する。こんな倒錯した自慰をするようになったのは、ここ最近のことで。
それは寄ってくる女たちを抱くよりも、ずっと気持ちのいいことだった。
隣の部屋から、涼介の笑い声が聞こえる。
(史浩……オレ……史浩のこと……)
啓介のきつい目尻に、光るものが浮かんでいた。
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